俳句のメッカ
ホーム > 俳句のメッカ

俳句のメッカ

新日本史(2018年4月~)
青年考古学研究者・相沢忠洋が、群馬県の2万4000年前の岩宿遺跡と打製石器を発見、日本に旧石器時代があったことが判明しました。
紀元前12000年、縄文人が生命力に満ち溢れた世界最古の土器を作る。
(有田が日本初の磁器・マイセンがヨーロッパ初の磁器)
紀元前4000年、霞ヶ浦誕生。
紀元前3000年、菜畑遺跡で石剣が作られる。地球に大豆が誕生。
紀元前2900年、イギリスにストーンヘイジが作られました。吉備の楯築遺跡に似ています。イギリスと日本は、アジア大陸を挟んで対称的です。スコットランドの歌・蛍の光や詩人ワーズワースも日本人の魂に響きます。
4000年前、長野県茅野市で広大な縄文文化が栄えました。三内丸山・亀ヶ岡と並ぶ三大縄文遺跡です。
紀元前2000年、三輪山・富士山と並ぶ日本三大霊峰・筑波山を崇める日本初之宮・筑波山神社創建。
紀元前1500年、パルテノン神殿創建。岡山県の南溝手遺跡に稲作が伝わる。
紀元前1300年以前、ヒンズー教成立。ヒンズー教のプージャーが、空海の密教である。
紀元前1200~1300年、美浦村の法堂遺跡・稲敷市の広畑遺跡で日本最古の塩作りが始まる。
紀元前1000年、縄文人が筑波山信仰を初め、筑波山神社創建。
茨城県南部~房総半島中北部にかけて、あんばさまを信仰する縄文王国のウナカミ国(海上国・稲敷市~千葉県旭市がメイン)があり、古墳時代にウナカミ国王は、国を譲りました。あんばさまは、勝道上人の祈願によって、三輪山の大物主・オオナムチ・少彦名が飛来しました。諏訪には、御柱祭の縄文人が暮らしていました。
紀元前900年の日本の人口は、76000人。
紀元前27年、富士山の噴火を鎮めるために浅間大神(あさまのおおかみ)を祀って富士山本宮浅間大社創建。
関東は、紀元前300年まで縄文時代でした。
紀元前201年、始皇帝即位、万里の長城を連結する。
紀元前108年、楽浪郡など3郡が設置。
紀元前37年、高句麗建国。
弥生時代は、紀元前300年~紀元200年。
起源200年からは、卑弥呼が設計した纒向石塚古墳を始まりとして、各地で首長の前方後円墳(西日本)または前方後方墳(ヒミココが前方後円墳を参考に設計・東海に普及)を崇め、祭祀する古墳時代が始まりました。
紀元前250年。青森県まで稲作が広まりました。
高天原は、高千穂町である。
1世紀、イザナギは亡き妻・イザナミを出雲国と伯耆国の境目にある比婆山久米神社に埋葬しました。黄泉比良坂は、揖夜神社である。イザナギは、宮崎市の江田神社で禊をして、地元の豪族の娘と結婚して、三貴神と志賀島の志賀海神社のわたつみ三神を授かりました。天照女王と素戔嗚は、高千穂町の天安河で誓約し交わり、宗像三神と住吉三神を生みました。息子スサノオの狼藉に腹を立てたイザナギは、近江国の多賀大社の地に隠棲し、三本杉を植えました。伊弉諾命と伊弉冉命の最後の子は、浜松市の王となり、秋葉山本宮秋葉神社の下社の地に住みました。
1世紀、弟との確執で高千穂町の天岩戸に籠られた天照女王は、天岩戸で八咫鏡と八尺瓊勾玉を作らせました。天鈿女の子孫が、稗田阿礼です。天照女王と須佐之男命の交わりで生まれた次男が、天ホ日で、後に天照女王は、須佐之男命の子・大國主命のために壮麗な神殿を建てて、天ホ日を世話役としました。
1世紀の高千穂町の天岩屋戸j事件の後、長野市の戸隠神社創建。
1世紀に、日向国と同盟を結ぶ伊勢の首長だった猿田彦大神は、高千穂町に来て、邇邇芸命を案内しました。1世紀後半、邇邇芸命は、日向市の大御神社に、天照大御神を祀りました。
山幸彦は、塩釜神社の地からやってきた塩椎命のアドバイスで対馬国に行きました。
対馬には、1世紀に山幸彦と豊玉姫が暮らした海神宮がありました。
山幸彦は、宮崎市青島一帯を治めました。
海幸彦は、日南市北郷町一帯を治め、宮居跡が潮嶽神社である。
鵜戸神宮は、豊玉姫の産殿跡である。
南九州氏市知覧町の豊玉姫神社は、1世紀に豊玉姫が民を治めた宮居跡である。
弥生前期から古墳前期まで600年続いた唐子・鍵遺跡は、磯城県主の遺跡である。
木の国の熊野本宮大社の須佐之男命の使いが八咫烏であり、神武天皇を導き、貞観年間には弓を導いて、つくば市の一の矢八坂神社を創建させました。1世紀に実在した須佐之男命は、6月と12月の病気大祓の神として信仰されている。
瀬戸内海の三島の王・大山津見の子・足名椎・手名椎は、出雲に来て、温泉神社の地に住んでいました。
須佐之男命は、稲田姫を雲南市の斐伊神社の地に隠しました。
雲南市の八口神社の地で、豪族・八岐大蛇に酒を飲ませました。
豪族・八岐大蛇は、天叢雲之剣を所持していました。
須佐之男命は、八重垣神社の地に宮殿を建てて暮らしました。
須佐之男命は、出雲市の須佐神社で薨去されました。
須佐之男命は、出雲国一之宮の熊野大社に祀られました。
54年に即位した皇帝・ネロは敵対勢力によって真実を改ざんされました。
57年、倭国の奴国王が志賀島から出土した金印を賜りました。
オオナムチは、鳥取市の売沼神社の地に住んでいた絶世の美女・八神姫と初結婚し、多くの子を授かりましたが、追われて和歌山県~父・須佐之男命が隠棲していた熊野に逃れ、戻って出雲を開拓しました。
大国主命は、能登国を平定、気多大社を創建、富山県の糸魚川の稚児ヶ池の池畔に宮殿を築いていたぬなかわ姫と結婚して、建ミナカタを授かり、日本海文化圏を築きました。
大国主命の幸魂は、大和国の御諸山に住みたいと言いました。
高千穂町には、天村雲命が高天原から水種をうつした天真名井があり、天岩戸や天安河原もあり、天皇家の先祖が人間として実在していた証拠である。
大国主と結婚した三穂津姫命は、たかみむすひの子である。
建ミナカタは、新潟県上越市の居多神社を通って諏訪に逃れました。
2世紀初葉10月、建御雷神が、出雲で大國主命を説得し、戦争終結後、大国主命が倭国の祭祀を司り、48メーターの巨大神殿を日向国の首都の高千穂町に建立させ、これまでの祭祀を廃止して、神庭荒神谷遺跡に358本の銅剣を埋め、加茂岩倉遺跡に銅鐸39個を埋めました。
現在の八十四世出雲国造家の先祖は、高千穂町の天照女王への国譲りの際。大国主命の世話役になった天穂日命である。

ゆるげども よもや抜けじの要石 鹿島の神の あらん限りは

神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は、1~2世紀の遺跡である。
1~2世紀初頭頃、高千穂町の天照女王の側近・建御建御雷之男神は、大国主命を説得したあと、常陸国の鹿島神宮の地に前線基地を構えて、蝦夷の悪路王を討伐しました。
邇邇芸命は、高千穂町のくしふる神社の地で生まれ、瀬戸内海の王だった伊予国の三島の大山津見の娘・木花之佐久夜姫と結婚しました。
天火明命は、邇邇芸命の兄弟で、高千穂町から一之宮市の真清田神社の地に派遣され、尾張氏の祖となり、倭建命と結婚した宮津姫の先祖です。
神武天皇は、父の宮があった佐野原聖地で生誕されました。
神武天皇の幼少期、駒宮神社の地に住んでいました。東征前まで、皇宮屋に住んでいました。
宮崎神宮は、神武天皇が初めて皇居として建てた高千穂宮の内裏跡である。
神武天皇は、都農神社の地で国土平定を祈願。
神武天皇が、航海の安全を祈願した地が立磐神社で、美々津から出帆しました。
饒速日命は、ナガスネヒコの妹と結婚して、子が物部氏の祖となりました。
神武天皇は、宇佐市・福岡県芦屋市・広島県府中市・岡山県玉野市の投馬国(吉備)の高島宮・明石海峡・大阪湾・木の国・熊野村と辿って、邪馬台国(やまとのくに)に向かいました。
神武天皇は、宮崎市の神武天皇宮の地で日向国の王として君臨していましたが、兄弟の饒速日命がもっと美しい邪馬台国(やまとのくに)を発見したため、政治の場を変えようと東征に出帆しました。ナガスネヒコとの戦いで、兄の五瀬命が負傷し、和歌山市の竃山に五瀬命の墳墓があります。神倉山(天磐盾)に登り四方を見渡し、熊野三所大神社の地で女酋長を討ち、玉置神社の地で武運を祈願、鹿島の地に住んでいた建御雷神から熊野の地に住んでいた高倉下命に託された真剣・布津御魂(石上神宮)を受け取り、敵が倒れました。須佐之男命の使いの八咫烏が邪馬台国の樫原の地まで導きました。そして、邪馬台国(やまとのくに)にいた饒速日命とうましまじが神武天皇に十種の神宝を献上して帰順し、121年か61年旧正月小正月元旦、神武天皇が邪馬台国(やまとのくに)の王となり、神武天皇元年(辛酉年121年か61年)に、蝦夷に対する神武朝廷の前線基地に創建された鹿島神宮は、威嚇のために北を向いており、鎮石がある宮崎県高千穂町の高千穂宮から要石が送られました。鹿島神宮は、皇大神宮に次ぐ日本二ノ宮で、魂を浄化する崇高なエナジーにあふれています。鹿島神宮は、3世紀後半の崇神天皇元年、中臣鎌足の先祖である中臣神聞勝命(なかとみのかみききはつのみこと)に神託があり、鹿島の地に神宝を奉じたのが始まりとされる。鹿島神宮の神官の子として、二天一流の宮本武蔵や陰流の上泉伊勢守信綱よりはるかに強い塚原卜伝は、香取神道流を修めて、世界最強の鹿島新当流を開きました。神武天皇は、大国主命と茨木市の三島みぞくいの娘との間に生まれたいすけよりひめと結婚しました。神武天皇17年(138年か78年)、建御雷神の神剣・布津御魂こと経津主神を祀って皇大神宮・鹿島に次ぐ日本三ノ宮・香取神宮創建。江戸時代、おかげ参りの後、結界のトライアングルで結ばれている東国三社を巡り、禊としました。宇佐を含めて、日本四大神宮です。
神武天皇にお皇后陛下は、大国主命の娘である。
2代天皇の皇后は、唐子・鍵遺跡の磯城県主の祖・河俣ひめである。
安寧天皇の皇后は、葛城地方の王・事代主命の子孫である。
2世紀前半、磯県主の娘・葉江が安寧天皇の妃となりました。
葉江の弟・猪手の娘は、懿徳天皇・孝昭天皇・孝安天皇の妃となりました。
御所市の高天彦神社には、豪族・高ま彦の家がありました。
2世紀中ばに現実に存在した孝昭天皇・孝安天皇は、葛城地方の御所市の豪族・高天彦一族の御膝元で大和国(邪馬台国)の政治の指揮を取りました。
物部氏の祖、うましまじの命は、一族を率いて石見を鎮定・開拓し、物部神社に祀られています。
2世紀中ばの第五代孝昭天皇3年、須佐之男命を祀って、大宮市の氷川神社創建。
2~5世紀パキスタン北西部のガンダーラで仏教文化が栄え、ギリシャなど西方文化の影響を色濃く受けた仏像が作られました。
日本には、16~20万基の古墳があり、前方後円墳が五~六千基です。
須佐之男命の子の大国主命が西日本全体の王として君臨していたのは、1世紀後半~2世紀初頭です。
出雲大社の近所の命主社から出土した翡翠の勾玉は、出雲国風土記に記されている通り、大国主命が北陸まで支配下に治めていた証拠。
107年、投馬国に住んでいた倭国王・大國主命か伊都国や吉野ケ里遺跡の北部九州連合の首長が後漢に遣使。107年には、倭国が成立していました。日本初の日本人の名前です。
大國主命は自身の和魂を八咫鏡に託して、大物主となずけて三輪山に鎮座させました。後に、纒向遺跡の卑弥呼が纒向遺跡の神殿で八咫鏡を拝み、三輪山を崇拝しました。
2世紀の近畿は、銅鐸で祭祀を行う銅鐸文化圏でした。東海は、三遠式文化圏でした。
磐座信仰は、筑波山周辺で始まり、三輪山・岩船神社出雲大神宮・神倉神社・籠神社へと伝わり、出雲国で最も花開きました。
大国主命の子に、かものおおみかみがおります。加茂社の総社・高鴨神社は、弥生時代中期以前より祭祀が行われていました。
葛城地方の王だった事代主命は、鴨都波神社の地に宮殿を構えて、娘を三代天皇に嫁がせました。
葛城地方の王だった大國主の子の御魂を、邪馬台国の葛木の鴨の神奈備に鎮座させました。(高鴨神社)
大国主命の御殿が建っていたのが、雲南市の三屋神社である。
大國主が、国を譲って日本の祭祀を担当することになり、日本最大の大社を築造し、国譲りの証として出雲の銅剣祭祀文化を終わらせるため、銅剣・358本を神庭荒神谷遺跡に、高千穂町の天照女王との同盟の証として銅鐸を加茂岩倉遺跡に埋めました。このとき作った大社は、13世紀前半の巨大柱が3か所で発見されていることからも大神殿である。
出雲市の西谷3号墓が大国主命の御墓である。
三国志の英雄たちと同時期に卑弥呼が生まれました。特に司馬懿は誕生も他界も卑弥呼とほぼ同時期です。
2世紀半ば以降、四隅突出型墳丘墓が出雲を中心に石見から富山市まで大国主命が支配した地域に普及しました。大国主命夫婦の古墳は、西谷2号墓3号墓である。
1900年前、東京都・埼玉県・川崎市・横浜市の武蔵国の大國魂神社創建。
安寧天皇23歳・懿徳天皇25歳・4代23歳・5代47歳・六代62歳・7代53歳・8代29歳・9代32歳で崩御。
171年、孝霊天皇が大和国の王として磯城県主の御膝元の唐子・鍵遺跡で大和国の王として即位。1999年、唐子・鍵遺跡で伊勢神宮と同じ唯一神明造の大型建造物が見つかり、孝霊天皇が天照大御神を祀っていたことが確定しました。
弥生時代後期、稲作が東北地方北部まで普及、瀬戸内海沿岸を中心に高地性集落が出現。
名取市笠島の道祖神社は、邪馬台国(やまとのくに)の神武天皇~孝霊天皇の2世紀の創建。
175年、孝霊天皇皇女・卑弥呼誕生。
147~189年、倭国大乱(特に178年~183年、倭国大乱)。鳥取市の青谷上寺地倉遺跡が倭国大乱の証拠である。
妻木晩田遺跡は、弥生時代の日本最大の集落で、吉備・鞆・出雲・但馬・丹後・丹波と並ぶ投馬国の最大候補地である。
大和国王の孝霊天皇は、都を唐子・鍵遺跡から磯城県主が支配する纒向に移して皇女・卑弥呼を即位させました。
184年、黄巾の乱。
孝霊天皇の唐子・鍵遺跡から吉備の土器が出土、纒向と同様に吉備と深いつながりがありました。このことから、投馬国は吉備の可能性が最も高い。
189年、霊帝が崩御、少帝が即位。献帝が即位。
190年、都を洛陽から長安に移す。
189年(184年)、孝霊天皇皇女・倭トト日百襲姫が倭国の女王となる。弟の彦五十狭彦命(ひこいさせりびこのみこと)が助けて国を治む。卑弥呼の祭祀は、吉備(投馬国)の特殊器台と特殊壺を使う祭祀や伊都国の三種の神器の祭祀を採用しました。初期大和王権の始まりは、纏向遺跡の卑弥呼からである。説法をする釈迦像とガンダーラ仏最高傑作・苦行をする釈迦像は、卑弥呼の時代の作。邪馬台国(纒向遺跡)は、水洗トイレでした。
5万余戸ある投馬国は、出雲~妻木晩田遺跡にかけてか但馬か鞆~吉備にかけての地域である。
7万余戸あった邪馬台国は、2009年の卑弥呼の大型神殿と天照大御神を祀っていた唯一神明造の建造物など三棟の発見と卑弥呼の箸墓古墳があり、首都に相応しい地勢から纏向遺跡を首都とする大和国に確定している。
北畠親房公も、つくば市小田で書いた神皇正統記の中で、邪馬台を‘やまと‘と読んでいる。
192年、曹操が黄巾賊を配下にする。
196年、曹操が献帝を保護して政治の実権を握る。
200年、倭国の人口・60万人。曹操が袁紹に勝利。
202年、袁紹が死去。
208年、赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍が曹操を破る。
214年、劉備が蜀を支配する。
起源25年~220年、後漢の時代
220年、曹操死去。曹操の息子・曹丕が魏を建国。
221年、劉備が皇帝に即位・蜀を建国。
222年、孫権が呉を建国。蜀が呉に敗れる。
223年、劉備死去。劉禅が皇帝に即位。
226年、ササン朝ペルシア建国。
227年、諸葛亮が北伐を開始。
229年、孫権が皇帝に即位。
234年、諸葛亮死去。
卑弥呼は、倭トト日百襲姫である。天照大御神を祀っていた卑弥呼(日巫女)は、三輪山の大物主神と結婚しました。卑弥呼は、日本初の巫女で能く未前を知り給へり(予知能力があり)、神霊と交信できました。卑弥呼に男弟ありてとは彦五十狭彦命(桃太郎)か孝元天皇で確定。彦五十狭彦命は、後に、犬飼健命・ささ森彦命・鳥飼ら側近を連れて温羅に支配された吉備を平定しました。吉備の人々が纒向遺跡の祭祀を担当していたことは、吉備の特殊器台や吉備の祭祀道具が多数発見されていることから明らかである。大吉備津彦命は、94歳で薨去、吉備の中山の茶臼山古墳に埋葬。卑弥呼は、弥生時代最大の墳丘墓で、特殊器台・特殊壺が出土した楯築墳丘墓を参考に、世界最古の前方後円墳・纒向石塚古墳を完成させました。埴輪の起源は、吉備の特殊壺・特殊器台である。
纒向遺跡からは、皇女が祭祀を担当・天皇や皇子が政治を行うヒメヒコ制になりました。
投馬国は、吉備か出雲~妻木晩田遺跡と思われるが、広島県の鞆や神戸や但馬や丹後の可能性も高い。
男子一人ありて、辞を伝え、出入りすとは、崇神天皇のことである
2009年に発見された纏向遺跡辻地区の3世紀前半に存在した5棟は、100%卑弥呼の神殿で確定である。辻地区の祭祀土坑群は、卑弥呼が行った新嘗祭・にいなめおすくに儀式の跡である。辻河道からは、最古の埴輪である特殊埴輪と銅鐸が出土、卑弥呼の箸墓に宮山型特殊器台と都月型埴輪が樹立されていたことが判明している。
238年、魏が公孫氏の楽浪郡(平壌)・帯方郡(ソウル)を平定すると、纏向遺跡の卑弥呼はすかさず魏に朝貢した。
卑弥呼は、孝霊天皇の宮殿があった田原本町の鏡作坐天照御魂神社で三角縁神獣鏡を500ほど作りました。
卑弥呼の後継者の台与は、豊鍬入姫命か孝元天皇皇女・倭トト姫である。卑弥呼は、纏向遺跡に楼観城柵をおごそかに設けて邪馬台国のさらに東に位置する狗奴国(くぬこく・朝日遺跡を首都とした尾張勢力)を警戒していましたが、243年(245年)には狗奴国と戦争になり、4年後に来た魏の援軍到着の時にはすでに薨去、247年か248年の皆既日食の日、百襲姫は狗奴国との戦争に負けたため、箸で暗殺され、薨去されました。前方後方墳が分布している地域が、狗奴国(尾張・朝日遺跡)の支配下にあった地域である。
日本最大の前方後方墳(前方後円墳合体型)の西山古墳は、百襲姫に勝利して纏向遺跡を一時的に支配したヒミココの墳墓である。
卑弥呼薨去直後、ヒミココに従う国が無く、戦争があり、248年か249年に卑弥呼と同じ皇女の台与が共立される。
卑弥呼の神殿とつながる3世紀中葉の纒向石塚古墳は、卑弥呼が考案した初の纒向型前方後円墳で、孝霊天皇陵。
3世紀前半築造の纏向勝山古墳は、孝元天皇陵。
卑弥呼の神殿とつながる3世紀半ば築造の矢塚古墳は、開化天皇皇后さほ姫陵。
卑弥呼が魏から賜った銅鏡2枚が出土したホケノ山古墳は、箸墓古墳直前の3世紀半ばの築造で、開化天皇陵、卑弥呼が魏から賜った銅鏡が出土した。
東田大塚古墳は、ぬなき入姫命陵である。
纒向遺跡の木製仮面は、農耕祭祀に使われました。
卑弥呼が239年に魏から賜った100枚の鏡は、ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡・鳴門市の画文帯神獣鏡・島根県雲南市の神原神社古墳から出土した景初3年(239年)銘の銅鏡で、100%卑弥呼が魏から賜り各地の首長(県知事)に配ったものである。この後、古墳時代前期に邪馬台国で550面の三角縁神獣鏡が作られた。
纒向遺跡の5棟の建造物の内、後ろから2番目の大型建造物が卑弥呼の神殿。
纒向遺跡から出土した鶏型の埴輪は、卑弥呼が天照大御神を祀っていた証拠である。
240年、帯方郡の長官・弓遵が倭国に遣使。このとき賜った鏡が、京都府辰馬古墳の景初4年鏡と兵庫県豊岡市の森尾古墳の正始元年鏡と群馬県高崎市(上毛野国)の正始元年鏡である。
2007年、3世紀前半の纏向遺跡からベニバナ花粉が発見され、魏からもたらされたものと確定しています。卑弥呼は、魏の皇帝に、ベニバナの赤と青で染めた絹織物を献上しています。
2009年に発掘された纏向遺跡の大型建造物跡は、100%卑弥呼の宮室である。5棟の内、東の2棟が巨大神殿で、どちらかが天照大御神を祀っていた孝霊天皇皇女・卑弥呼の神殿で、片方が大極殿であることが確定している。
卑弥呼と対立したヒミココの国の首都は、吉野ケ里遺跡と同規模の愛知県清須市の朝日遺跡である。朝日遺跡には、勾玉を作る玉造工房があり、遠隔地との交流も盛んで、東海地方最大の生産・供給の中心都市で、ヒミココが住んでいた狗奴国の首都であることは間違いありません。
百襲姫は、239年に魏に初めて遣使している。トトは、ながなきどりのことで、鶏は日・夜明けを告げ、天照大御神信仰で、百襲は後円部の大きさを表し、250年頃に完成した箸墓古墳の前方部は極端に小さく、後円部が150メーターで魏尺の一歩は4尺7寸7分(145センチメーター)で百三歩の一致、または後漢尺110歩と一致し、箸墓古墳が2009年の炭素年代測定で、240~260年と確定され、築造時期と魏志倭人伝に記されている大きさから卑弥呼(天照大御神を祀った日巫女)の墓以外ありえません。箸墓古墳には、奴婢100余人が殉葬されました。龍谷大学蔵の朝鮮で作成された現存最古の世界地図・混一疆理歴代国都図と行基図では、九州が北に描かれ、関東・東北が南に描かれていて、魏志倭人伝の方角からも、南に向かっていると錯覚して、邪馬台国は纏向遺跡で100%確定である。
纏向遺跡の土器は、楽浪郡・狗奴国の尾張系が49%・山陰北陸系が17%・河内が10%・吉備が7%・関東が5%・近江が5%・西部瀬戸内が3%・播磨が3%、九州のものも出土していて、倭国の首都であることが100%である。
崇神天皇は、磯城水垣宮で大和国の王として即位。3世紀中葉、崇神天皇が2009年発掘の纏向遺跡の大型建造物で祀られていた天照大御神を豊鍬入姫命に、大和国の国御魂である日本大國魂大神をぬ名城入姫命に祀らせると、ぬ名城入姫命は、髪が落ち、体痩せ、祭祀が出来なくなりました。崇神天皇7年、卑弥呼が甥の崇神天皇に神託を告げました。
黒塚古墳か中山大塚古墳がヌナキ入姫命の墳墓。
崇神天皇の宮が大和川の辺にあったことから、最大量の鏡が出土した桜井茶臼山古墳が卑弥呼の後継者の台与の墓。
纏向遺跡には日本各地の首長が土器を持ち寄って集結していたことも確定しています。卑弥呼は、鯛・山芋・赤米・アワビを食べていたことも確定しています。纏向遺跡は、国際都市で、紅花やバジルも流入していました。
大物主神の命令で、三輪の神主となられた大田田根子命の十二代孫の次男・穀主(たねぬし)が糸のように細い素麺を作られたのが、三輪そうめんの始まり。
大国主命と火遠理命は、同世代である。
高千穂町の天照女王は、長寿で、高千穂町から側近の建御雷大神を出雲に派遣させるところまで(2世紀初葉)生きました。
建ミナカタは、石上神宮の布津御魂をひっさげた建御雷大神に敗れて、諏訪に逃げて、諏訪を平定し、追いかけてきた建御雷大神に降参して、御柱の縄文文化を受け入れて諏訪の首長となりました。
建御雷大神は、鹿島神宮の地に陣を構えて蝦夷を平定し、中臣鎌足の先祖となりました。
卑弥呼は、247年3月24日か248年9月5日の皆既日食の日に松本清張の首長通り、狗奴国との戦争の責任を取らされて死にました。さらに戦争が始まり、248年に13歳の卑弥呼の親族・豊鍬入姫命か倭トト姫が女王となり、崇神天皇が補佐する。
卑弥呼を助けた男弟・孝元天皇皇子・大彦命は、埼玉古墳群付近を平定
前橋八幡山古墳は、上毛野国が狗奴国である可能性があります。能登半島の雨の宮1号墳は、この地域が狗奴国の支配下にあった証拠。
265年、司馬炎が魏を滅ぼし、晋を建国。
266年、台与(豊鍬入姫命か倭トト姫)が魏に朝貢。
崇神天皇は、八咫鏡と天叢雲剣の形代をお作りになられ、天皇の手元に置かれました。
松本市の弘法山古墳は、崇神天皇・皇女の台与の時代には、初期大和王権の支配下に入ったことを物語っております。上越~松本~諏訪と道がつながっていまっした。
3世紀後半の崇神天皇7年、白山比め神社(しらやまひめじんじゃ)創建。
大神神社は、崇神天皇朝の2世紀後半に大国主命の子孫である大田田根子が大物主大神を祀って創建。大神神社には、豊鍬入姫宮がある。
大和神社は、崇神天皇朝、市磯長尾市が日本大國魂大神を祀ったのが始まり。
東殿塚古墳が、市磯長尾市の墳墓。
崇神天皇7年、物部氏の祖・伊香色雄命が石上神宮を創始。
崇神天皇10年、北陸道(くがのみち)・東海道(うみつみち)・西道(にしのみち)・丹波(たには)の四道将軍(よつのみちしょうぐん)を派遣。大吉備津彦命は、武ぬな河別命と共に、出雲振根を討伐しました。筑波山周辺には、筑波命が派遣されました。
崇神天皇の御代、熊野本宮大社創建。物部氏の祖・伊香色雄命が石上神宮を創始。
朝日が昇る竜王山山帯信仰古墳の最上段古墳の西殿塚古墳は、箸墓古墳と同じ形状で、時期と位置からも卑弥呼の甥の崇神天皇陵以外ありえません。
台与(百襲姫の後継者・豊鍬入姫命)の古墳は、桜井茶臼山古墳かメスリ山古墳である。
100歳を超えた卑弥呼の弟・大吉備津彦命の墳墓は、吉備の中山の頂上にある茶臼山古墳である。
明野町の成井にある日本尊命神社と同じく明野町にある新治国一之宮の雲井神社は、倭建命が新治国のこの地を通った跡である。明野町は、日本最強の陰陽師・阿部清明誕生の地でもある。倭建命が、酒折に向かう途中、東京都文京区湯島で兵糧の確保を願って稲荷神を祀ったのが妻恋神社の始まり。
実在が100%確定している崇神天皇の第一皇子の豊城入彦命は、卑弥呼の後の3世紀後半に東征して、蝦夷を押さえの地を先達の建御雷大神が150年前に開いた鹿島ではなく、下毛国の宇都宮として、高台の二荒山神社の地で東国王朝を開きました。豊城入彦命が、上毛野国を支配することとなったときに、沼と山の神を奉斎したのが赤城神社の始まりで、1750年の歴史です。民を慈しみました。石岡市柿岡の佐自奴君とホトダ古墳古墳群の八幡塚古墳などの上毛野国王や下野国王の先祖である。命は、明野町の民により手厚く葬られました。
宇都宮氏は、鹿島の藤原氏の子孫で、和歌の名手・連生法師は当代一の歌人・藤原定家と深い交流がありました。宇都宮五十二万人の礎を築いたのが、豊城入彦命である。
垂仁天皇は、磯城珠城宮で即位。
4世紀初葉の垂仁天皇の御代、伊勢神宮と高千穂神社が同時創建されました。
倭姫命に神託がおりて、垂仁天皇27年、猿田彦大神を祀って、椿大神社を創建。
4世紀初頭、鉄の国の新羅の王子・天日矛が温羅の後にやってきて、瀬戸内海を荒らし、4世紀初頭に100%実在した垂仁天皇と和解して豊岡市出石町に鉄製産をもたらして王となりました。天日矛の墳墓は、出石町の4世紀の大量の鉄が発見された古墳・入佐山3号墳である。
行燈山古墳が垂仁天皇陵で、左下の陪塚は垂仁天皇の晩年に、和歌浦湾から非時香菓(ときじくのかぐのこのみ=福来みかんか桃かたちばな)を探して常陸国か雲南省に行って福来蜜柑か雲南省の橘を探してきた田道間守命(新羅の王子・天日矛の孫)のものである。
伊賀市の大村神社は、垂仁天皇皇子・息速別命を祀っている。
小碓命は、伊勢神宮で倭姫命から少女の衣を受け取り、周防で神夏磯姫の帰順を受け、九州の鼻垂・耳垂・麻剥・土折猪折を討って筑紫に入り、大分から日向の高屋宮へ行き、6年かけて襲を討ち、霧島市の熊襲穴で弟熊襲建より、倭建命の名をさずかり、熊県に入り、八代・長崎の高来・阿蘇・八女と平定、出雲に渡り、出雲建に木刀を渡して勝利しました。
倭建は、倭姫命から天叢雲剣を受け取り、尾張のみやずひめと結婚を約束して、焼津神社で火打石で脱出、弟橘ヒメの無償の愛の犠牲で浦賀水道を渡り、木更津の吾妻神社の地に上陸しました。木更津市の袖ケ浦に弟橘姫の袖が流れ着きました。宮城県までを平定して、棚倉を通り、八溝山の麓に近津神社を創建、笠間・岩瀬・協和・大和村を通り、加波山に登り、天御中主神を祀り、加波山天中宮を創建、筑波山の連歌岳に登って国見をした倭建命は、大型小学校の小山に登り、霞が関に関所を置き、神奈川県の吾妻神社の地に弟橘姫の櫛を埋め、足柄峠の豪族を討ち、酒折で翁と共に連歌を創造し、翁を東国造に任命しました。さらに、三峯山に登られて道に迷い、宝登山の頂上を目指して猛火に包まれ、巨大な犬が火の中に飛び込み、火を消し止めて山頂に着きました。火止山。尾張氏は、天火明命が先祖である。さらに、秩父から碓氷峠を超え、愛知県の内々神社の地で建稲種命の水死を聞いて、うつつかなと嘆き、氷上姉子神社でみやずひめと結婚しましたが、熱田神宮の地に草薙剣を忘れて、伊吹山で雹に当たって、米原のいさめの清水・たぎので歩くことができず、足がたぎたぎしくなったと言い、血塚社で足の手当てをして、杖突坂を歩き、足が三重のまがり餅のようになってしまったと言い、能褒野で薨去しました。
古墳時代、馬が日本に流入し,倭建命の尽力によって前方後円墳が急速に広まりました。前方部が儀式の場、後円部が埋葬の場でした。
倭建命は、酒折で翁と筑波の道を詠み交わして、翁を甲斐国造にし、北杜市で山高神代桜を植えました。
4世紀前半に100%実在し、尾張の宮津姫と結婚したあと、天叢雲剣を宮津姫のところに置き忘れて、伊吹山で大粒の雹が直撃して、維新志士達と同じく30歳で櫻の如く散った倭建命が日本一の和歌を詠んでいます。

倭は国のまほろば たたなつ”く 青垣  山籠れる 倭しうるはし  倭建命

イタリアの首都・ローマは、2800年続いた古代ローマ帝国の首都である。ポンペイも古代ローマ帝国の第二の町でした。
近江八幡市の日牟禮八幡宮は、4世紀半ばの成務天皇の即位の年に創建。
渡来人の武内宿禰は、4世紀中頃の成務天皇の御代、大臣となり、仲哀天皇の御代に熊襲を倭建命に次いで征討し、100歳を超えた仁徳天皇の御代に鳥取県の宇部神社の地で草履を残して母国に帰りました。
景行天皇陵は、渋谷向山古墳。
成務天皇陵は、五社神古墳。
364年か369年、神功皇后は、宮地嶽神社の地で祈願し、志賀海神社に立ち寄って、朝鮮半島遠征。新羅が、倭国のために馬を飼育する国となる。帰途、壱岐で住吉三神を祀り、宇美八幡宮で応神天皇を出産、神戸で生田神社を創建。
369年5月16日正午、百済で七支刀が完成。
371年、百済と高句麗が戦い、高句麗王戦死。
372年、百済王・世子が神功皇后に七枝刀(石上神宮)一口・七子鏡一面及び種々の宝を献上したことは、100%確定している。
4世紀後半の神功皇后摂政11年、住吉大社創建。
佐賀県の武雄市には、樹齢3000年以上の大楠が3本あり、建内宿禰が武雄神社の地を基地に活躍しました。
景行天皇の御代から仁徳天皇の御代まで百歳以上生きた建内宿禰は、香椎宮の地に居を構えました。
神功皇后の御代は、4世紀後葉。
仲哀天皇陵は、津堂城山山古墳。
神功皇后陵は、市庭古墳。
神戸市の五色塚古墳の被葬者は、神功皇后と深いつながりがありました。
375年、高句麗で肖門寺建立。
385年、百済の漢山で仏寺建立。
応神天皇は、建内宿禰に連れられて、福井県の気比神宮で禊をしました。
4世紀末葉が応神天皇朝である。新羅の国民が建内宿禰に連れられて、奈良県の百済池を造りました。応神天皇の御代は、とてつもない数の人が、朝鮮半島から移住しました。
391年、応神天皇朝の倭国軍が百済・新羅を臣民とした。高句麗好太王即位。
396年、高句麗好太王が倭国軍を退ける。
400年、朝鮮半島の倭国軍が高句麗に撃退される。
404年、倭国軍が帯方郡(ソウル)で撃退される。
5世紀初葉が仁徳天皇朝である。
仁徳天皇朝、インドから裸形上人がきて、倭国初寺・那智山青岸渡寺・補陀洛山寺開山。
サールナートの初転法輪釈迦像は、仁徳天皇から雄略天皇までの5世紀作。
常陸国の雨引山楽法寺と並んで日本三古寺である。
409年、仁徳天皇の御代、焼津神社創建。
413年、仁徳天皇が東晋に朝貢。
414年、高句麗好太王碑完成。
仲津山古墳が、仲津姫陵。
401年~420年、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)完成。
上石津ミサンザイ古墳が、仁徳天皇陵。
新治国造の墳墓が下館の芦間山古墳、筑波国造の墳墓が八幡塚古墳、茨城国造の墳墓が舟塚山古墳、那賀国造の墳墓が水戸の愛宕山古墳、久慈国造の墳墓が常陸太田市の梵天山古墳。
ひしあげ古墳は、仁徳天皇皇后にして葛城襲津彦の娘・磐之媛の墳墓。
うわなべ古墳は、仁徳天皇の妃・八田若郎女の墳墓である。
421年、履中天皇が宋に遣使。
425年、履中天皇、宋の文帝に貢物献上。
430年1月、履中天皇が宋に貢物献上。
大仙陵古墳が、履中天皇陵。
438年、反正天皇が即位・宋に遣使。
土師二サンザイ古墳が反正天皇陵。
443年、允恭天皇が即位・宋に遣使。
451年7月、允恭天皇が宋の文帝から安東大将軍に任ぜられる。
460年、允恭天皇が宋の孝武帝に貢物を献上。
市野山古墳が、允恭天皇陵。
462年3月、孝武帝が安康天皇を安東将軍と認める。
471年、雄略天皇がさきたま古墳群~江田船山古墳付近まで支配下に置く。
477年、安康天皇の弟・雄略天皇が即位。
478年、順帝が雄略天皇を安東大将軍倭王とする。
479年、雄略天皇が鎮東大将軍に進号。
岡ミサンザイ古墳が、雄略天皇陵。
5世紀初葉の仁徳天皇の御代に那須神社が創建され、延暦年間に坂上田村麻呂が応神天皇を祀りました。
441年~460年、仁徳天皇陵完成。
磐の媛陵は、ヒシャゲ古墳です。
471年、雄略天皇は辛亥の年に雄略天皇の東日本王朝(さきたま古墳群)におとずれている。
479年、雄略天皇崩御。
491年、山西省に釈迦・孔子・老子を祀る懸空寺創建
481年~500年、岡ミサンザイ古墳(雄略天皇陵)完成。
釈迦入滅の地・クシナーラーの涅槃堂には、5世紀作の涅槃像が祀られている。
531年、継体天皇崩御。欽明天皇(畿内勢力)と東国・北陸の血筋を強く引く安閑天皇即位。
継体天皇陵は、今城塚古墳。
534年、新羅の慶州で永興寺建立。
536年~570年まで蘇我稲目が大臣を務める。
537年、菩提達磨が面壁九年の修行に入る。
538年、百済扶余遷都。聖明王より倭国・欽明天皇へ仏教公伝と善光寺本尊を送る。この像を蘇我稲目が賜って自宅に持ち帰り、日本人が建立した初めての寺院・向原寺として安置しました。現在の向原寺の地に推古天皇が即位した豊浦宮がありました。
539年、平壌の東寺で千体仏造立。
555年、蘇我稲目が吉備に屯倉を置く。
570年3月、蘇我稲目他界。物部尾輿らが向原の仏殿を焼き、百済観音像と経典を難波の堀江に投げ入れるが、後に吉田善光が通ると浮いてきて、信濃の善光寺にまつられる。
571年、応神天皇が菱形池に姿を現し、宇佐神宮創建。欽明天皇崩御。マホメットがメッカで生まれる。物部氏が向原(むくはら)の仏殿を焼く。
欽明天皇陵は、見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)
572年、敏達天皇即位。蘇我馬子が大臣となる。
蘇我氏の邸宅は、甘樫丘東麓遺跡です。日本書紀の記述通り、蝦夷の邸宅が焼けていたことが判明しています。
574年、橘寺にあった馬小屋で蘇我馬子の長男として蘇我善徳誕生。新羅の皇竜寺金堂の金銅釈迦仏立像鋳造。
576年、2歳の蘇我善徳が東を向いて手を合わせ、南無仏と唱える。
577年、蘇我善徳が一瞬しか咲かない桃よりも枯れない松を讃える。
578年、4歳の蘇我善徳が進んで鞭打ちの罰を受ける。
579年、蘇我善徳が炊屋姫が推古天皇になることを予言。新羅が倭国(やまとのくに)に仏像を送る。
580年、6歳の蘇我善徳が百済の僧が持ってきた経典を読み始める。
581年、随建国。
583年、帰国した日羅が蘇我善徳を救世観音と讃える。
584年9月、蘇我馬子が百済の弥勒菩薩を祭るため石川の邸宅に仏殿を作る。司馬達等の娘・多須奈が出家・善信尼となる。
585年2月、蘇我馬子が仏塔を大野丘の北に建て、大法会を行う。物部守屋が蘇我氏建立の仏殿や仏塔を破壊、仏像を難波の堀江に投げ捨てたが、後に吉田善光が通りかかると仏像が善光を呼びながら浮かび、信濃の善光寺に安置されました。守屋が、善信尼たちを監禁。8月、敏達天皇崩御。9月、用明天皇即位。
587年(用明天皇二年)、用明天皇が病のため崩御。蘇我馬子・善徳軍、物部守屋を滅ぼす。梁の国の法輪独守居士が常陸国に楽法寺を建立。聖武天皇が光明皇后と共に安産子育ての祈願され、光明皇后は宸筆の法華経を奉納なさいました。神武天皇・景行天皇・聖武天皇・光明皇后・今上天皇と並んで常陸国と最も関係の深い嵯峨天皇も直筆の法華経を奉納され、雨が降り雨引山と改名なされました。徳川家康公は、慶長九年に祈願なされました。松山市の太山寺創建。
588年、法興寺建立開始。
推古天皇は、天皇になる前、神の食事を作っておられました。
592年12月、蘇我馬子の姪の推古天皇が豊浦宮(現向原寺)で即位の儀式。
593年、推古天皇の甥の蘇我善徳が摂政となり、推古天皇と馬子の共同政治が始まる。推古天皇の母も蘇我氏の堅塩媛である。豊浦宮は、蘇我稲目の善光寺本尊をオハリダの家より向原の家に移した場所である。蘇我善徳が物部守屋に勝利したことを感謝して四天王寺を建立。
蘇我善徳は、一度に十人の話を聞きました。
蘇我善徳の時代、ひたちなか市にミロに匹敵する芸術家がいて、虎塚古墳の壁画を描く。
596年12月、588年に蘇我馬子が仏教こそ日本の指針となるいう思いで発願した倭国で飛鳥時代最大の寺院・法興寺完成。馬子の長男・蘇我善徳が高句麗僧・慧慈と百済僧・慧そうを師に迎え、法興寺初代住職となる。釈迦が東方で仏教が花開くと予言した通り、日本は、蘇我善徳が仏教を日本の礎に据えてブータン・ネパールと並ぶ世界三大仏教国となりました。蘇我善徳は、夢殿の救世観音と法隆寺釈迦像が生き写しで身長179センチで6尺である。法興寺は、我が国初の公式寺院で、飛鳥寺とも言われました。本尊は、馬子の子・蘇我善徳が606年に渡来仏師・鞍作止利に造らせた金銅の釈迦如来坐像は、蘇我稲目をモデルとしました。飛鳥大仏と言われた日本で作られた最古の仏像である。飛鳥寺には、蘇我善徳立像が祀られている。
600年、蘇我善徳が第一回遣隋使を派遣。
601年(辛酉年)蘇我善徳が斑鳩宮の造営開始。
蘇我善徳、敬田院・悲田院・施薬院を建立。
603年、推古天皇がオハリダの宮に移ると、豊浦宮跡に豊浦寺が建立されました。その法灯を伝えるのが、明日香村豊浦の向原寺で、豊浦寺創建時の遺構と豊浦宮跡の遺構が発見されました。
606年、蘇我氏の氏寺・法興寺完成。鞍作止利が法興寺の大仏を完成。
川原寺の地に川原宮がありました。
607年、蘇我善徳が第二回遣隋使派遣。善徳が、斑鳩寺(若草伽藍)を四天王寺式で建立。法隆寺金堂壁画のもでるになったのが、紀元前2世紀~7世紀の足掛け九年かけて作られたインドのアジャンター石窟の壁画と日本に仏教が伝わった538年~539年に開削された敦煌莫高窟の285窟の壁画である。蘇我善徳の母の生き写しにして、世界三大微笑と讃えられ、地球史上最高の彫刻である弥勒菩薩半跏思惟像をまつる斑鳩尼寺(中宮寺)は、四天王寺式で蘇我善徳の母が建立。
7世紀初葉に作られた広隆寺の弥勒菩薩像は、蘇我善徳本願の像で、広隆寺を建立した秦河勝が賜ったものである。
つくばみらい市の聖徳寺は、蘇我善徳の創建で、蘇我善徳が彫った阿弥陀三尊像があり、蘇我善徳の夢告を受けた親鸞聖人が100日滞在しました。
620年、蘇我善徳は馬子と協議して天皇記・国記を編纂しました。
四天王寺縁起によると、空海が尊崇した蘇我善徳の手形が残っています。
622年二月二十日、蘇我善徳涅槃。妃の橘大郎女は嘆き悲しみました。以降、法華経が最も尊崇されました。最澄は、法華経を最も重要な経典とし、日蓮は法華経のみをを真理としました。宮沢賢治も日蓮宗です。葛城氏と共に渡来人・武内宿禰の子孫である仏教を信仰した善良な蘇我氏の記述は、敵対勢力の藤原不比等らが日本書記に記した改ざん・修正の物語で、100%酷いでっち上げの物語である。日本書記にだまされませんように。
蘇我馬子、推古天皇に葛城県の割譲を要求したが、推古天皇は拒否しました。
推古天皇は、民が飢えていることを憂いて、自らの葬儀を篤くすることを拒絶しました。
625年、高句麗僧・羅灌が元興寺に三論宗を伝える。
万葉集は、額田王から大伴家持まで、主に日本人の愛が詠まれていて、日本人の心のふるさとであります。
628年3月19日、武蔵国の浅草寺建立。法隆寺の釈迦如来像及び脇侍像が蘇我大臣のため作られた。
舒明天皇の630年頃、那須の湯開湯。
642年、信濃国に善光寺建立。
643年、蘇我入鹿が、蘇我善徳の子・山背大兄王と一族を滅ぼす。
645年、玄奘三蔵がインドより経典を持ち帰る。浅草寺開山。乙巳の変。
646年、改新の詔が出され、国造(くにのみやつこ)制廃止。
露通の先祖・斎部氏は、中臣氏と共に朝廷の祭祀を担当していました。
飛鳥水落遺跡は、中大兄皇子が斉明天皇6年に築造した漏刻台の遺跡である。
山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の発願。
660年、百済滅亡。
663年、義淵僧正が岡寺を建立。倭国が白村江の戦いで唐に大敗。
668年、高句麗滅亡。
669年、中臣鎌足他界。
670年、斑鳩寺炎上。
70種以上の枕詞を発明した歌の聖・柿本人麻呂(660~8世紀初頭)は、天武・持統朝に活世界最古の星宿・キトラ古墳は、、阿部御主人の墳墓。
675年、奈良の大仏のモデルとなった龍門石窟の唐の高宗の勅願によって創建された奉先寺洞の毘盧遮那仏が作られました。
680年、薬師寺開山。
681年、二上山当麻寺開山。
686年、長谷寺開山。
689年、古代法典・飛鳥浄御原令発令、倭国から日本となる。
広大な藤原宮は、持統天皇が完成。
701年、不比等らが大宝律令制定。大宝八幡宮創建。松尾大社創建。和歌山県最古の道成寺開山。
708年、元明天皇の御代、秩父聖神社の地で銅が発見され、和同開珎鋳造となりました。
710年(和銅3年)、平城京へ遷都。興福寺開山。行基43歳。常総線黒子駅の近くに、838年に慈覚大師が創建した安産子育て発祥の寺・福蔵院があり、十一面観音は行基作です。
万葉歌人・高橋虫麻呂が詠んだ下妻市の騰波之淡海(とばのおうみ)は海でした。
711年、法隆寺完成。
713年、楽山大仏造立開始。
730年、大己貴命を祀って神田神社創建。
739年、行信が夢殿を建立。
728年、聖武天皇と良弁が東大寺の前進・金種寺(山寺)建立。
行基菩薩が、日本初の日本地図を作る。
741年、東大寺開山。
743年、聖武天皇が廬舎那仏造立を発願。
752年、聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇が東大寺に行幸。良弁が東大寺初代別当職につく。
国中連公麻呂が、運慶の金剛力士像と並ぶ仏教美術最高傑作の東大寺の二体の広目天像と不空羂索観音菩薩像を彫る。常陸国分寺創建。
759年、唐招提寺開山。
768年、春日大社創建。
778年、北法相宗大本山清水寺建立。
780年、岩木山神社創建。
782年、最仙上人が桜川市真壁町椎尾山に薬王院創建。
守谷市の永泉寺は、相馬政安が延暦年間に創建。
796年、教王護国寺建立。北辰北斗信仰の密教には、3月3日と9月3日に、北極祭があります。
坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社を創建
800年、坂上田村麻呂が加波山神社に阿弖流為との戦勝祈願。
803年、楽山大仏完成。
空海は、熱田神宮で楠を植え、伊豆では超能力で独鈷の湯を発見し、日蓮のように常陸国を目指し、下総で自ら彫った仏像を安置して布施弁天を開き、自らが彫った不動明王を安置し、真言宗の東日本総本山・板橋不動尊を開き、つくば市で自ら彫った仏像を安置して泉子育観音を開き、筑波山大御堂を開き、都に帰りました。板橋不動尊の近くには、讃岐うどんのトップくらいこしがあっておいしいおおきやのうどんがあります。空海の縁でしょうか。
屠蘇は、茨城県とゆかりが深い嵯峨天皇の御代に蘇明が来日して伝えました。
807年、関東の清水寺・峰寺山西光院を奈良の法相宗・徳一大師が開山。流山市の諏訪神社創建。
空海が東国に旅立ち、修善寺、布施弁天の本尊を彫り、泊崎観音堂を経て、808年に東日本の真言宗総本山である願成寺・板橋不動尊を創建、空海が彫った仏像を泉子育て観音に安置、筑波山に大御堂を開きました。
821年、空海がよく決壊していた讃岐国の満農池を修築。
809年、常総市の一言主神社創建。嵯峨天皇が加波山神社に神宝を賜る。
822年、最仙上人がつくば市栗原乾島で、北斗七星から北斗妙見大菩薩を感得、北斗寺を創建。北斗の拳のトキを思わせる。現在は、長谷寺を総本山とする真言宗豊山派。
825年、世界三大美女・小野小町誕生。
828年、円仁が瑞巌寺を開山。
836年、栃木県で生まれた円仁が、唐へ出帆。五台山を初め、唐代の中国各地を十年巡礼。入唐求法巡礼行記を著す。帰国後、中尊寺(850年)と毛越寺(850年)、立石寺(860年)を建立。
884年、小野小町が新治村で他界。
901年、菅原道真左遷。防府に立ち寄った道真は、この地が気に入り、死んだら魂となって帰ってってくる言い、904年に墓がある大生郷天満宮・太宰府天満宮・北野天満宮と並ぶ日本四大天満宮の防府天満宮創建。
905年、古今和歌集編纂。
907年、唐滅亡。
谷和原村の禅福寺は、931年に平将門公が創建。
938年、空也が念仏を説く。
921年、宇佐・大宝・石清水と共に日本四大八幡宮である筥崎宮創建。
939年、重税に苦しんでいた東国の民を救おうと立ち上がった桓武天皇の子孫・平将門が新皇になるも、岩井市で他界。
988年、数奇の先達・能因法師誕生。

嵐吹く 三室の山の紅葉ばは 竜田の川の錦なりけり

都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

995年、藤原道長が摂政。
996年、枕草子完成。
1008年、源氏物語完成。
1052年、能因法師他界。
1180年、源平合戦開戦。
1185年、源義経・木曾義仲・那須与一の活躍で源平合戦終戦。
運慶、平氏の焼き討ちに遭った東大寺・興福寺修復に尽力。
宇都宮頼綱の希望から、嵯峨の頼綱の山荘の障子に貼る色紙として、藤原定家が小倉百人一首をしたためました。
1232年、奈良・鎌倉に次ぐ日本三大長谷寺の八千代町の八町観音・新長谷寺は、結城朝光が鎌倉から持ち帰った十一面観音菩薩像を安置するため建立されました。八千代町は、白菜生産量日本一です。
下館市の伊佐城は、南北朝時代の伊達行朝公(伊達政宗公の先祖)が南朝を助けて活躍した城です。
1333年、後醍醐天皇の祈りが奇跡を起こして鎌倉幕府滅亡、吉野に南朝を築き、野口雨情の先祖・楠木正成や新田義貞やつくば市の小田城で神皇正統記を記した北畠親房や北畠顕家らが活躍した。楠木正成の戦法が採用されていたら、足利幕府はありませんでした。

ただかりそめの宿と思ふに   後醍醐天皇

1238年~1438年、スコータイ王朝栄える
1423年、侘び茶を創始した茶聖・村田珠光が奈良に生まれ、大徳寺の一休宗純に禅を学び、閑寂な侘びの精神を強調した草庵の茶・侘び茶を創始し、足利義政の茶道師範となり、句聖・飯尾宗祇や画聖・雪舟と同時代を生きました。華聖・池坊専慶も登場し、正に日本文化のルネサンス・室町文化を築きました。茶道は、夢窓疎石と並ぶ日本二大作庭家・小堀遠州の綺麗さびまで昇華・洗練されました。

1489年、鹿島神宮の神官の子として塚原卜伝誕生。達人・国なずの真人から始まる上古流・中古流の鹿島の太刀を学び、香取神道流を取り入れて、新当流の開祖となりました。足利義輝・義昭・武田信玄・北畠具教・山本勘助・斎藤伝鬼坊が塚原卜伝の弟子となる。卜伝の奥義・秘剣一太刀や無手勝流は、戦わずして、相手に戦意を失わせるものであり、平和の天下泰平の世を築いた徳川家康の原点となりました。

剣は、人を活かすものなり   塚原卜伝

1502年、茶道の創始者・村田珠光他界。

魂の静けさを求めるのが侘び茶   村田珠光

二条関白良基公・観阿見・世阿弥・足利義政公・雪舟・宗祇・珠光の室町ルネサンスの直後、巨匠ミケランジェロ、ダ・ウ”ィンチ、ラファエロ、ティツィアーノ、ジョルジョーネのルネサンスが興りました。
長谷川等伯の松林図屏風は、同時代のダ・ウ”ィンチの最後の晩餐を超えています。

1351年~1767年、タイのアユタヤー王朝栄える。

1549年、フランシスコザビエルが種子島に上陸。

風景画というジャンルは、16世紀にネーデルラント(オランダ・ベルギー)で始まりました。

日本三大俳人・芭蕉・蕪村・一茶の近世古典派。

芭蕉と同時代を民に寄り添った作仏聖・円空が生きました。

1779年、高萩市の長久保赤水が正確な日本地図を完成させる。

伊能忠敬、1800年に測量開始。

1821年、伊能忠敬と間宮林蔵と日本人全員による日本地図完成。

江戸末期から明治35年に、仙台四郎。

幸田露伴・夏目漱石・正岡子規・尾崎紅葉が江戸時代最後の年に誕生。

明治元年、横山大観・小川芋銭誕生。(本年は明治維新150年)
(生々流転が神のおはからいで焼けず。)

明治26年、子規が三大俳人の一人・蕪村を発見する。

雨情・白秋・露風の明治ロマン。

明治39年、大日本史完成。

竹久夢二・高畠華宵の大正ロマン。

茨城三大俳人は、加倉井秋を・高野素十・原裕である。

1945年、終戦。戦争の正体は、軍事産業の欲と洗脳である。

蕗谷虹路・中原淳一・東郷青児・内藤ルネの昭和モダン。
人類史上最大のワンダフル世代誕生、ベースボール選手、ベースボール史上の最多安打記録保持者(4367本)・野球の神様・イチロー・大泉洋・室伏広治・野村忠宏・松井秀喜・上原浩治・黒田博樹・松中・国分太一・山本太郎・井浦新・日韓ワールドカップのアルゼンチン戦(札幌)で魅せたサッカー史上最高の精度を誇るフリーキックとパスの名手・ベッカム誕生。
1985年3月~9月の184日間、国際科学技術博覧会(科学万博つくば85)が人間・移住・環境と科学技術をテーマに開かれ、地球各国から半年で2000万人以上がつくば市に訪れたビッグイベント。
2011年3月11日、東日本大震災・大津波。
2012年5月、つくば市竜巻。
2015年9月10日、常総市洪水。
2016年4月、熊本地震。
スコットランドの歌・故郷の空と蛍の光は、日本人と共通の魂が宿っていて、子供の気持ちを取り戻せます。
2021年、旧暦の小正月(元旦)は、神武天皇即位1900年の節目である。
新世界史 (2017年~2018年4月)
縄文時代は、16500年前、青森県で始まり、弥生時代は、紀元前900年、福岡県の板付遺跡で始まりました。
15000年前、最古の犬登場。
世界最古の下水道は、インダス文明が栄えた紀元前2000頃のパキスタンの都市・モヘンジョダロ。レンガで作られてて川に流されていました。


五大史聖=司馬遷・ヘロドトス・稗田阿礼・徳川光圀公・シュリーマン
東洋思想の根幹をなす哲学書・易経。
最大の哲学者は、アリストテレスとプラトーン。
3600年前、モーセの十戒によるユダヤ教誕生。クレタ島には、4000年前に実在していたゼウスの遺跡があります。筑波山や三輪山に神が存在しているように、オリンポス山にも神々が存在します。日本では、蝉が儚い象徴でギリシャでは明るく永遠の象徴です。

閑さや 岩にしみ入 蝉の声  芭蕉

3450年前、アテネ誕生。

紀元前1342年、ツタンカーメン王誕生。エジプトでは、コブラが神で、マスクもコブラの形だ。1世紀に建立された日本最古の大神神社の神も白蛇だ。兄弟にうとまれたヨセフがエジプトに売られてから、モーセに導かれてイスラエルの民がエジプトうぃ脱出したのは、古代エジプト文明が最も栄えた新王国時代(紀元前1570~1070)であり、ラメセス2世の統治下だった紀元前1299~1225年とされる。。アブシンベル神殿は、日光が右から左へと移り、ラメセス2世が神になる過程を描く。エジプシャンブルーは、ギリシャやスーダンに伝わり、採用。紀元前8世紀から倭建命の4世紀にかけて栄えたスーダンのクシュ王国(250のピラミッドを誇るメロエの古代遺跡群)は、エジプトの文化を模倣しました。紀元前438年、ペルシャ戦争勝利に感謝して建築されたのが白大理石のパルテノン(乙女)神殿。古代ギリシャ建築で最も重要なものは柱で、法隆寺にもギリシャ人がもたらしたエンタシスが採用されました。ギリシャのゼウス神殿の土台などは法隆寺そのものである。ギリシャ人が奈良に来て、建築様式を伝授した証拠である。古代ギリシャ人は、オリンポス十二神を信仰、奈良にも十二神将立像がある。ゼウスから神功皇后のような戦いの女神・アテナが生まれ、イザナギから須佐之男命が誕生しました。紀元前408年、海神ポセイドンを祀ったエレクティオン神殿建築。ポセイドンは、三つ又の鉾を地面に突き立てて泉を湧かせました。ポセイドンは、日本の須佐之男命に匹敵する海神である。西暦50年頃、建御雷大神も、大国主命に国譲りさせるとき、布津御魂を浜辺に逆さに突き立てて、その上に胡坐をかきました。
古代ギリシャ人にとって神々や神話は、現実に起きた過去の出来事・歴史。過去は人間にとって非常に大切なものなのである。ギリシャ神話やホメーロスが描いている紀元前1250年頃のトロイア戦争が現実のものであったことは、19世紀末にシュリーマン(古代への情熱)が発掘した第7層から確定した。西洋の建築・芸術の原点は、アテネのアクロポリスだ。アクロポリスのドーリア式が、法隆寺・唐招提寺の柱である。東日本初之宮は、1900年前に神武天皇により創建された日本第二位の神宮・鹿島神宮。日本山岳信仰の始まりは、3000年前に信仰が始まった筑波山神社です。縄文晩期の東日本文化圏の中心だったのがつがる市の亀ヶ岡遺跡であります。卑弥呼に先立つエジプト初のの女王ハトシェプストが、紀元前1400年代に君臨していた。ハトシェプスト女王葬祭殿は、2009年に発見された女王卑弥呼の神殿のように壮麗である。紀元前900年には、板付遺跡で稲作の弥生時代が始まり、日本の東の果ての青森県と西の果ての福岡県・佐賀県が中心だったのです。
紀元前776年、第一回オリンピック開催。
紀元前1400年、アブラハムの孫・ヤコブがイスラエルになる。
紀元前1250年、モーセが民を率いてエジプト脱出。
紀元前1004年、ダビィデがユダの王になる。
紀元前1000年頃、日本初の神社である筑波山神社創建。
紀元前997年、ダビィデがイスラエルの王となる。
紀元前995年、ダビィデがエルサレムを首都とする。
紀元前963年、ダウ”ィデ他界してソロモンが王に。シウ”ァの女王。
日本は、紀元前900年に朝鮮半島から稲を携えて弥生人が来るまでは、他国との接触がありませんでした。
稲作は、貧富の差を生み、争いが始まり、環濠集落が作られる。
紀元前753年、古代ローマ帝国建国。日本では、板付遺跡ですでに弥生時代が始まっていた。
紀元前700年頃、東北地方で亀ヶ岡文化が栄え、遮光式土偶作られる。
老子(紀元前604年~531年)
釈迦(三大聖人・紀元前566~486)
孔子(三大聖人・紀元前551~479)
紀元前525年、アケメネス朝ペルシアがオリエントを統一
紀元前486年、第一回仏典結集。
孟子(紀元前372年~289年)
荘司(道教の始祖・紀元前369~286)
アレキサンダー大王(紀元前356~323年)
イギリスのストーンヘイジ(紀元前2500年~2000年)
紀元前300年、北部九州と北海道に鉄器伝わる。
紀元前3~4世紀、吉野ケ里に大規模な環濠集落誕生。
ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元16年)と同時代、倭国の出雲(投馬国)にイザナギとイザナミが出雲国の王・王妃として実在していました。ローマ帝国の最高神・雷神ジュピターに匹敵する神が鹿島神宮の建御雷大神です。日本サッカーのトップを走り続けてきた鹿島アントラーズがレアル相手に2-1となった理由です。鹿島神宮は、剣術・剣道発祥の地でもあります。太陽神アポロなど神話の神々は、パンテオンに祀られました。ローマ帝国は、倭国と同じ自然崇拝でした。ローマ帝国は、エトルリア人の建築様式を吸収して洗練させてゆきました。ローマ帝国は、地球の人口の4割に達し、1200続く。建御雷大神が、西日本を支配していた大國主命に国を譲らせた紀元73年、ベスビオ山噴火、紀元前80年から続き、現代と同レベルの生活をしていたポンペイが埋もれました。
ナポリにも、ナポリの江ノ島があります。街道があったから、ローマ帝国は発展しました。倭国の山の辺道や四道将軍もそうです。紀元前312年、アッピア街道、550キロに達しました。法隆寺・唐招提寺のエンタシスは、パルテノン神殿やローマ帝国の神殿からシルクロードを経由して、ギリシャ人やローマ人の協力のもと、建築したものである。司馬遷が記した中華第一王朝・殷が1920年に発掘され、青銅器が出土、考古学で裏つ‘けられました。
近年、中華最古の王朝・夏の二里頭遺跡が河南省で発掘され、司馬遷の史記の正しさが証明されました。
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一。
紀元前202年、前漢の劉邦が中国を統一。
伊弉諾と伊弉冉が出雲国(投馬国)に王・女王として君臨していた紀元前43年、星の王子様のサンティグジュベリを生んだフランスの古都・リヨン誕生。
神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は、出雲国にイザナギ・イザナミ・素戔嗚命・大国主命が王として君臨していたときのものである。
高千穂町の天岩戸神社に天照大御神が籠ってしまった天地創生以来最大の危機に、西日本の八百万の神々が集まって協議したのが、高千穂町の天安河原である。高千穂の女王・アマテラスが天岩戸神社から出た頃の紀元30年、イエスが布教開始。紀元32年、キリスト処刑。3日後に霊界へ昇天。1世紀半ば、聖パウロが伝道開始、キリスト教成立。大國主命が西日本の王となった紀元66年~73年にユダヤ戦争勃発。1~2世紀、新約聖書が成立。北部九州が弥生時代に突入した縄文時代最晩期の紀元前800年、イタリアの首都ローマが始まる。紀元前7世紀、イスタンブールの原点が誕生、景行天皇の330年にローマ帝国の新都となる。313年、コンスタンティヌス帝、キリスト教公認。応神天皇の392年、ローマ帝国がキリスト教を国教とす。キリスト昇天後の1054年、教会が東西に。西行の時代、リヒテンシュタインのファドゥーつ城完成。
古代には、ユダヤ人が日本に来ていたと思います。
伊弉諾命から高千穂町を追い出された須佐之男命は、出雲に来て、出雲を支配しようとしていた高志国(北陸地方)の豪族の首領・八岐遠呂智を平定して出雲国の王となりました。
日本初之宮は、2000年前に創建された須我神社で、須佐之男命が幸福に溢れてすがすがしい気持ちになり、和歌発祥の地となりました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣造る その八重垣を

紀元前4年、キリストと天照大御神が同時に降誕されました。キリストは、インドに渡って仏教を学ばれました。天照大御神は、伊弉諾命と日向国の女性の間に生まれました。素戔嗚命は、出雲の王になってから朝鮮半島を平定しました。根の国は、朝鮮半島か熊野です。茨城県は、常世国と呼ばれ、縄文時代から海の幸・山の幸が日本一多い県である。常世国に住んでいた神ムスヒの子が少彦名命です。
2700年前、叙事詩イーリアスを著したホメーロスの時代にはすでに情熱恋愛があり、その200年後に釈迦が悟り、梵天の説得により史上初めて悟りの教えを人類に説いて人類と共有財産としました。仏教は、シルクロードを通り、マトゥラー・デリー・ラホール・イスラマバード・ガンダーラ・カブール・バーミヤーンへと伝わり、さらにフンザ・カシュガル・楼蘭・敦煌と伝わりました。そして、仏教はお釈迦様の予言通りアジアの東の日本で開花して法華経が最高聖典となり、結晶しました。
1957年は、お釈迦様降誕2500年です。
1992年12月~1993年1月(旧暦十二月八日)は、お釈迦様の降魔成道より2500年です。
2057年は、お釈迦様降誕2600年です。2092年12月~2093年1月(旧暦12月8日成道会)は、菩提樹下でお釈迦様が己の中にわずかに残っていた一切の魔性と地球・幽限界・幽界に存在する数千臆人の魔界人を降伏(ごうぶく)なされて悟りを開かれ、如来=ブッダ(完全無欠の悟りを開いた人)となって、梵天の導きにより布教開始されて2600年周年です。西洋のキリストより500年早く東洋で慈悲が誕生したのは東洋共有の誇りとせねばなりません。
降伏=悟り
シルクロードを通った大乗仏教が真実の仏教であり、法華経で結晶しました。紀元前2年、中国に仏教伝来。紀元前432年、女神アテナを祀るパルテノン神殿完成。このエンタシスがシルクロードを経て法隆寺に採用されました。紀元前424年、アテナ・ニケ神殿完成。紀元前421~407年、エレクテイオン神殿完成。日本に青銅器が伝来したのは紀元前100年で、荒神谷遺跡の銅鐸が初めで、紀元前2世紀に銅鐸製造開始。楼蘭は、紀元前120~130年に始まり、紀元前77年まで続いたのです。紀元前108年に、現在の平壌の地に楽浪郡が置かれました。糸島市の遺跡から、楽浪郡の土器と硯が出土し、漢字が伝わっていたことが確定しました。
紀元前97年、史聖・司馬遷が史記を完成。
直後の紀元前1世紀の出雲国に現実の人である伊弉諾と伊弉冉が出雲国の王・女王として実在していた頃、ギリシャではダフニスとクロエの小説が誕生しました。古代においては、実在している人間のことを神と表現しました。伊弉諾命を黄泉比良坂で伊弉冉命から解放したのが、菊理媛命であり、巫女の元祖です。この後、伊弉諾命は出雲国から日向国に渡り、天照大御神・須佐之男命・月読命の三人の子供を授かりました。素戔嗚は、日向を追い出されて朝鮮半島を平定後、出雲の王となり、大國主命の父となり、晩年は熊野で過ごしました。最古の古事記真福寺本によると、イザナギが眠っている淡海の多賀の淡海は湖という意味であり、出雲で生まれて実在したイザナギが晩年を過ごして他界なされた地は、淡路島のイザナギ神宮ではなくて琵琶湖の辺の多賀大社であるます。1~2世紀、イラクで大隊商都市で巨大神殿遺跡で有名なハトラが栄えました。
紀元前3世紀、パリのシテ島に北方民族のパリシー族が定住したのがパリの歴史の始まり。シテ島には、聖母マリアに捧げられたノートルダム大聖堂があります。
弥生時代、近畿が銅鐸文化の中心・出雲が銅剣文化の中心・北部九州が銅矛文化の中心・青森が縄文文化の中心でした。
弥生時代の妻木晩田遺跡に次ぐ大規模な吉野ケ里は、紀元前3世紀~紀元3世紀の600年間続きました。吉野ケ里遺跡と同時代、シルクロードを金飾りが行き交っていました。北墳丘墓の一基から王冠かネックレスと思われる79個のガラス製の管玉が発見されました。
1世紀前半、出雲を出立した伊弉諾命は、日向国で結婚して、宮崎市の江田神社の地で天照大御神・大国主命の父須佐之男命・月読命の三貴人を授かりました。猿田彦命と天鈿女は日向国の高千穂町の荒立神社の地で結婚しました。
1世紀、高千穂のアマテラス女王と葛城の高皇産女王が相談して、葛城氏の先祖である高皇産神が建御雷男神と経津主神を出雲の大國主命の元に派遣したのです。伊勢神宮も東日本を代表する鹿島神宮も、太陽が昇る地に建立されました。紀元前1世紀に伊予の大三島に実在した瀬戸内海の王である大山津見神の子・足ナズチ・手ナズチは、出雲に引っ越しましたが、女性を捧げものにしていた八岐遠呂智という名の出雲の豪族にクシナダヒメを捧げねばならぬとき、素戔嗚が現れ、遠呂智を退治して姫と結ばれ、和歌を創造しました。須佐之男命の神魂は、日御碕神社背後の隠ヶ丘に止まりました。証拠として、神域から柏の葉を印した神紋石と呼ばれる化石が出土。さらに、伊予の大三島の大山津見神の娘・木花咲ヤ姫が日向国の王・二二ギに嫁ぎました。
1世紀初頭、日向国の火遠理命と対馬国の豊玉比売が結婚して神武天皇の父が誕生しました。
豊玉比売の墳墓は、対馬の和多都美神社にあります。
須佐之男命を祀る武蔵国一之宮・氷川神社の参道は、日本最長の二千メーターです。
奈良県の葛城地方の首長であったタカミムスヒが、建御雷之大神と経津主神を出雲の大國主の元に派遣したのである。
1世紀に実在した大國主命は、隠岐島から引っ越そうと海を渡っていた時、鮫に襲われ瀕死だった古代の人である因幡の白兎に傷の治療法を授け癒すと、八神姫と結ばれました。
大国主命は、三十六計逃げるが勝ちで一旦豪族達から逃れるために、和歌山県に行き、さらに父の須佐之男命が住んでいる熊野大社の地に向かいました。
1世紀中頃、キリスト教成立。
1世紀、中国に仏教伝来。
大國主命の国譲りが実現した頃の西暦79年、高度な文明を持った古代ローマのポンペイがベスビオ火山の大噴火で埋もれました。大自然を前に一人一人はなす術がなかったのです。2000年4月5日、大社(おおやしろ)の本殿を支えた巨大柱根が出土。1世紀に大国主命が日向国の女王天照大御神が遣わした側近建御雷大神・側近経津主大神・天鳥船神らに国譲りの代償として造らせた出雲大社は、高さ48メートル・階段170段・長さ109メーターであることが確定した。大國主は、言いました。地の底まで届くような太い柱を建て、千木が空に届くような宮殿を建ててもらえれば、国はお譲りして神事を司りましょうと。907年の書物に、出雲大社・東大寺大仏殿・平安京大極殿が三大高層建築と記されている。また、諏訪に逃れて、国譲りを認めた建御名方之神は、諏訪の縄文文化を吸収して、この地の王となり、冬場に諏訪湖を渡って下社の八坂刀売神のもとに通いました。
1世紀後葉~2世紀初頭の辺り、神武天皇は日向国の高千穂町~宮崎神宮の地から青山が四周をめぐらす美地を求めて東征に旅立ちました。河内の白肩津では長脛彦の抵抗で三人の兄を失いました。太陽に向かって進んではならぬと熊野の楯ケ崎に上陸した神武天皇は、吉野でイビカを、国見ケ丘でヤソタケルを、磯城でイシキを討つ。二二ギの兄の子・饒速日命が先に大和国に入り、大和国の豪族の娘・トミヤ姫と結婚しました。うましまじは、饒速日命の子で、物部氏と穂積氏の先祖であります。僕は、奈良の先祖の宿命で物部氏と穂積氏の子孫に宿命的に出会いました。神武天皇は、再び長脛彦とまみえ、そこに突然金色の鳶が現れて神武の弓に止まり、先に大和国に入っていた兄の饒速日命が長脛彦を討ったのです。

神武天皇の即位は、西暦61年か121年の古代歴の小正月元旦で確定しています。
東京オリンピックの翌年の2021年の古代歴小正月元旦は、神武天皇の即位1900年の節目であります。
神武天皇の即位が121年なら、倭国王スイショウは、大国主命で確定である。
神武天皇は、69歳で崩御。
神武天皇の孫の建磐龍命が九州の長官に就任したとき、宮崎神宮を創建しました。神武天皇宮と呼ばれてきました。2世紀、磯城(唐古・鍵遺跡)県主・葉江の娘が二代・安寧天皇に嫁ぎました。さらに、葉江の弟・猪手の娘が三代懿徳天皇・四代孝昭天皇・五代孝安天皇に嫁ぎました。大宮市の氷川神社は、2世紀の孝昭天皇の御代の創建。
日本が謎に包まれている2~5世紀、ガンダーラが仏教文化で栄えました。
滋賀県の白髭神社は、4世紀初頭の垂仁天皇の御代に創建された近江国最古の神社で、琵琶湖最大の沖の島を背景とし、近江の厳島と呼ばれ、猿田彦大神を祀っています。
筑波山の麓にて薨去なされた豊城入彦命の五世孫は、上毛野竹葉瀬で弟が新羅を平定そいた田道である。田道は、蝦夷平定の際、勝浦で命を落としました。
天皇を尊崇した徳川光圀は、水戸学を作りました。徳川光圀公は、大日本史の編纂を開始しました。水戸学は彰考館で育まれました。徳川光圀の水戸学は、尊王攘夷につながってゆきました。徳川斉昭は、にほんを代表する藩校である弘道館を作りました。史聖・徳川光圀の大日本史は、明治39年に完成しました。さらに、野口雨情の先祖・楠木正成が江戸後期の尊王思想の象徴となりました。万葉歌人・高橋虫麻呂が詠んだ常陸国の鳥羽之淡は、大宝八幡宮の東側から久地楽の坂下まで広がっていた湖である。
171年、卑弥呼こと倭トト日百襲姫命(日巫女)と桃太郎の父である孝霊天皇が邪馬台国こと大和国の王として即位しました。
第八代孝元天皇までは、葛城王朝でした。
巫女神楽は、卑弥呼が纒向の神殿で神託の際に行った神がかりの舞が起源。
邪馬台国は、100%纏向遺跡を中心とした大和国である
三輪山の山ノ神遺跡からは、卑弥呼が魏から賜った銅鏡と出雲の勾玉が出土。
山ノ神遺跡では、神の御座所である磐座祭祀が行われました。
投馬国は、現在の出雲・広島の鞆~妻木晩田遺跡~但馬にかけての地域である。
纏向遺跡の卑弥呼の宮殿の西側には、卑弥呼が祭祀で使用したものが埋められた場所です。卑弥呼は、顔を隠すため仮面を付けていました。卑弥呼の箸墓から出土した特殊器台は、吉備のもので、卑弥呼の兄弟・吉備津彦が温羅を平定後もたらしたものである。また、箸墓古墳は、吉備津彦命の墓である楯築墳丘墓と伊都国の平原1号墳から設計されたもので、伊都国の大型内行花文鏡などの祭祀を採用し、卑弥呼が纒向で八咫鏡を祀ったことは確実。邪馬台国(大和国)の服属国は、内藤湖南博士の比定地が確実である。魏志倭人伝に記された男性の巻布衣と女性の貫頭衣が日本人の衣服の始まりです。纒向で始まった大人に対する下戸の両手をついてひざまずいたのが日本のお辞儀の始まりである。
箸墓から出土した吉備の特殊器台は、卑弥呼の兄弟の吉備津彦命が吉備からもたらしたものである。
大神神社の南には、崇神天皇の磯城瑞牆宮がありました。古代、山の辺の道の西側には、大きな湖があったそうです。大神神社の三つ鳥居の脇に、台与こと豊鍬入姫宮があり、台与も三輪山を信仰していたことが分かります。
2009年に発見された天照大御神を祀る卑弥呼の宮殿の東北部の遺跡は、卑弥呼の後継者・台与(豊鍬入姫命)の宮殿跡である。巻向駅の東には、垂仁天皇の纏向珠城宮がありました。さrzに東には、景行天皇の纏向日代宮がありました。西殿塚古墳は、崇神天皇陵か台与(豊鍬入姫命)の墓である。
崇神天皇の御代、大彦と子が出会った福島と新潟の県境にイザナギ・イザナミを祀ったのが、会津の伊佐須美神社の始まり。
伊達政宗公の先祖の地は、下館市中舘の伊佐城で、八幡神社や観音寺がある美しい五行川の辺で、伊達町の阿武隈川を連想させます。大国主命が建速須佐之男命から奪ったのが祭祀道具が琴であることから、1世紀の出雲に琴が実在していたことが分かりました。奈良県の大和神社に祀られている倭大國魂神は、大和国の偉大なる国魂という意味で、大国主命の別名が大國魂神であり、実際に奈良を支配して自らを三輪山に祀っていることから、大国主命のことを表しているのである。建御雷之男神は、大国主命から天照大御神への国譲りを成功させたのです。1世紀実在100パーセントの大国主命の墳墓は、西谷墳墓群にあります。
大山積神を祀る愛媛の大山津見神社と三嶋大社は、1世紀の二二ギの御代の創建。
大伴氏の先祖は、神武天皇の東征の先鋒を務めた道臣命であります。107年、神武天皇朝貢。4月3日、神武天皇崩御。神武天皇以降。男子天皇とどまること70~80年。147~189年、古代戦国時代。
171年、大和国王として孝霊天皇即位。
189年、大和国王・孝霊天皇皇女・卑弥呼(倭トト日百襲姫命)共立。
倭建命は、弟橘姫入水の7日後に櫛を拾い、櫛を埋めて弟橘姫の陵墓を築いた。さらに、景行天皇40年に景行天皇がこの地を訪れて神社を創建したのが茂原市の橘樹神社の始まりです。倭建命と松尾芭蕉が訪れた名取市の道祖神社は、2世紀創建。3世紀、崇神天皇が疫病が流行って悩んでいたとき、夢に神が表れて大坂山口神社を建立しました。崇神天皇は、纒向で卑弥呼が祭祀していた八咫の鏡を皇女・豊鍬入媛命に託し、初瀬の笠縫邑で祀らせました。常陸国の筑波山と大和国の三輪山が日本二大神山であります。
伊勢原市の大山阿夫利神社は、崇神天皇の御代に創建。
崇神天皇は、318年(戊虎年)に崩御されたことが確定しています。
桜井市の纒向日代宮を出発した小碓命は、西征で周芳・穴戸(下関市)を経て、熊本県の熊襲建を平定しました。熊襲の穴は、鹿児島県妙見温泉の西側の山腹にあります。倭健命は、東北の東日本平定に向かう途中、日本平で周囲を見渡し、八溝山の麓の近津神社を創建し、福島県の棚倉町で八目鳴鏑で蝦夷を倒したときに矢の落ちた場所に創建したのが都都古別神社である。竹水門(塩釜神社付近)まで平定して、筑波山の男体山と連歌岳に登拝(古事記・日本書紀)され、山梨で連歌を創始して、秩父で三峯神社を創建し、帰路に碓氷峠から三重県の玉倉部・当芸(桑名市)を経て、能褒野(亀山市)で力つきました。
倭建命は、筑波山(連歌岳)に向かう途中、近代日本仏画の巨匠・木村武山先生と{上を向いて歩こう}を歌った坂本九さんを生み、合気道の開祖・植芝盛平先生が住んだ笠間市を通り、新治郡衙付近に立ち寄り、明野町成井の日本尊命神社の地に立ち寄りました。そして、筑波山の男体山に登拝して、つくば市の作谷に至り、大型小学校の山で泉を発見しました。4世紀創建の白河神社は、倭建命の創建。筑波を後にした倭建命は11月の酉の日に台東区の鷲神社に戦勝祈願し、武器の熊手を松の木にかけて勝ち戦のお礼参りをしました。酒折を発った倭建命は、秩父を目指し、秩父のオオカミに導かれ、故郷の纒向の大神神社の三ッ鳥居を三峯神社の鳥居にも採用したのです。そこから、碓氷峠で吾妻はやと自分のために命を捧げてくれた妻を偲びました。加佐登神社の地で他界された倭建命の魂は、白鳥に乗り移って、堺の大鳥神社の地に降り立ちました。倭建命終焉の地である加佐登神社の北に倭建命が眠っている三重県最大の古墳である白鳥塚古墳があります。草薙神社は、景行天皇が倭建命の東国平定の足跡を辿る旅の途中に、倭建命が九死に一生を得た地に建立したのが始まり。焼津神社は、反正天皇4年の創建。崇神天皇は、河内から大和に入る交通の要衝を防御するために大坂山口神社を建立しました。また、伊勢から大和への侵略を防ぐために宇陀の地に墨坂神社を建立しました。
近江八幡市の日牟禮八幡宮は、成務天皇の祭祀が始まり。
対馬国一之宮の海神神社は、神功皇后が新羅平定(364年)の帰途に創建した神社である。
364年、神功皇后が新羅平定後に、沖の島で祭祀を始め、8万もの国宝が出土している。
応神天皇朝には、阿知使主が来日、子孫が東漢氏となり、法隆寺金堂の広目天像や百済観音像や650年に千仏像を彫った山口大口費を輩出した。飛鳥大仏や蘇我善徳がモデルとなった法隆寺金堂釈迦三尊像は、司馬達等の孫・鞍作止利作である。
雄略天皇までの天皇のお年は、春と秋に一歳ずつお年を取られることになっていたのは、100パーセントです。これにより、正式な天皇のお年が判明しました。神武天皇69歳・綏靖天皇23歳・安寧天皇25歳・い徳天皇23歳・孝昭天皇47歳・孝安天皇57歳・孝霊天皇53歳・孝元天皇29歳・開化天皇32歳・崇神天皇84歳(318年戊寅年崩御確定)・垂仁天皇77歳・景行天皇69歳・成務天皇48歳・仲哀天皇27歳・応神天皇65歳・仁徳天皇42歳・反正天皇30歳・允恭天皇39歳・安康天皇28歳・雄略天皇62歳です。古代は、1年間に春秋と2歳年を取りました。古事記(712年成立)・日本書紀の雄略天皇までの崩御の大きい数字は、半分の年齢である。
白河神社の創建は4世紀で、4世紀前半に活躍した倭建命の創建と思われます。
4世紀半ばの成務天皇の御代、武内宿禰が大臣に、建御狭日命が多珂の国造となる。
364年、神功皇后の三韓征伐。
369年、高句麗3万軍が百済を襲う。神功皇后が朝鮮に出兵して伽耶諸国を支配下に入れる。
371年、高句麗が百済に来襲するが、肖古王が平壌城を攻撃、高句麗王死去。
371年、百済王世子が神功皇后に石上神宮に祀られている七支刀を送りました。
372年、高句麗に仏教伝来。
375年、百済肖古王他界。
376年、ゲルマン民族の大移動始まる。
応神天皇15年、百済より阿直伎が来て、良馬2匹献上。皇太子の教師となる。
応神天皇16年、百済の賢者・王仁が論語十巻と千文字などの優れた文化を日本にもたらした。
384年、百済に仏教伝来。
384年~385年在位の百済トムル王、倭国を絶賛。
386年、北魏建国。
389年、神功皇后薨去。
391年、百済の阿花王が他界すると、応神天皇は王の長子である直支王を擁立、葛城襲津彦が3年帰還しないため、平群宿禰らを派遣。倭国が百済・新羅を平定しましたが、高句麗好太王に敗れた。近代日本の満州国も朝鮮人民軍に敗れました。正に歴史は繰り返しているのです。楽浪郡は、紀元前108年に現在の平壌の地に置かれました。応神天皇陵は、体積日本最大である。
392年、直支王即位。
393年、百済・高句麗の戦い。倭人が金城を包囲。
395年の応神朝、ローマ帝国が東西に分裂。
5世紀初頭、新羅に仏教伝来。
405年、百済王即位。
420年、直支王他界。
5世紀、北インドで無著が法相教学を起こしました。
5世紀前半の仁徳朝、那須神社創建。
5世紀、芝丸山古墳。
大伴室屋は、允恭天皇から五代の天皇に仕えました。
高崎市の三ツ寺Ⅰ遺跡が、上毛野国の本拠です。
九十九里浜近くの芝山古墳群は、500基の規模を誇ります。
三島由紀夫の潮騒の舞台になった伊良湖町の神島の八代神社には、古墳時代からの神宝が100点以上収められ、4世紀からの沖の島と並ぶ。
仁徳天皇は、淀川下流に茨田の堤を建設しました。
5世紀中葉、面積世界最大の525メーターの仁徳天皇陵創建。
5世紀、唐楽・高麗楽(楽舞)が日本にもたらされて、日本上代からの神楽笛・和琴を使った古楽(神楽歌・大和歌・久米歌)や国風の歌舞(神楽舞・大和舞・東游「あずまあそび」久米舞・五節舞)と融合、世界最古のオーケストラにして世界的芸術の雅楽が誕生しました。雅楽は、法隆寺と同じ1400年の歴史を誇り、10世紀に完成。
507年、北陸の継体天皇即位。
福井市の毛谷黒龍神社は、継体天皇の創建。
欽明天皇朝(538年の仏教伝来の時代)、四回命の危機に遭った金色姫が北天竺から父王により桑の靭船に乗せられて霞ヶ浦から桜川を経て、つくば市に漂着、養蚕と絹糸を紡ぐ技術を伝えました。蚕影山神社総本社の由来です。
欽明天皇朝、京都の葵祭が始まりました。
578年、寺院建築・金剛組創業。
584年、司馬達等の娘・嶋が出家、善心尼と名乗る。
587年、常陸国の雨引観音楽法寺創建。光明皇后祈願寺である。
587年、蘇我馬子・善徳親子と初瀬部皇子が、物部守屋を滅ぼす。
593年、蘇我善徳が推古天皇摂政になる。
594年、三宝興隆の詔。
596年、法興寺完成。蘇我善徳こと聖徳太子が住職となる。
600年、蘇我善徳が第一回遣隋使。
イタリアのコンベルサーノの聖ベネヂィッド教会は、継体天皇・欽明天皇の時代には存在していました。6世紀後半の殿塚・姫塚からは、115体の大規模な埴輪が出土しました。柴又八幡神社の埴輪も同時期で、どちらも帽子を被っているのが特徴です。一方、土浦市の7世紀前半の武者塚古墳からは斑鳩宮と出土物が酷似しており、聖徳太子(蘇我善徳)と武者塚古墳の首長がつながっており、ガンダーラ~中央アジア(敦煌など)~隋~百済~飛鳥~武者塚古墳の地域の首長へとつながるシルクロードの壮大な文化交流があったことが判明しました。法隆寺の飛天と莫高窟の飛天は、同じものであり、神功皇后の新羅進出と同時期の366年、一人の修行僧が金の光を見たのが敦煌の始まりである。6世紀後半、イランから来ていた二人の皇子が藤ノ木古墳に埋葬されました。証拠は、イランの冠です。あるいは、穴穂部皇子と妻のものである。7世紀の飛鳥時代、クメール人がラオスのヒンズー教のワットプー寺院とカンボジアのアンコールワットを建立しました。日本最古の仏教は、聖徳宗(法隆寺)と法相宗(薬師寺)です。お釈迦さまは、仏教が日本で開花することを予言されていました。
聖徳太子は、蘇我馬子の子であり、推古天皇は蘇我馬子の姪である。
603年、蘇我善徳が冠位十二階制定。
604年、蘇我善徳が憲法十七条制定。
606年、蘇我善徳が法華経を講じる。釈迦の降誕会は、蘇我善徳(聖徳太子)の時代の606年から営まれています。蘇我善徳は、敬田院・悲田院・施薬院そして、国立大学病院の先駆けである療病院を作りました。四天王寺縁起には、蘇我善徳(聖徳太子)の手形が残っています。聖徳太子(蘇我善徳)の時代、スイス北東部にサンクトガーレンの町が誕生しました。実在した蘇我善徳は、法隆寺金堂の釈迦像で、身長が175センチか178,8センチである。釈迦像の後背の銘文もくらつくりのとりが釈迦像を作ったときのものと確定している。
607年、小野妹子遣隋使。
625年、三論宗が伝わる。
645年、仏法興隆の詔。
茨城県の大和村は、飛鳥と同じく石のモニュメントがたくさんあり、光明皇后が子供の祈願した雨引観音(関東の吉野)があります。大和村の大國魂神社は、8世紀初頭の新編常陸国誌に載っています。聖徳太子の時代、大江山に実在した三人の悪王のうち、二人は麿子親王が平定、一人は丹後町に逃げましたが平定されました。
593年、推古天皇が島自体を神として信仰されてきた厳島の厳島神社を建立。空海が、弥山を開山。
土舞台は、蘇我善徳が少年を集めて伎楽舞を習わせた場所。伎楽は、インドなどに伝わる仮面劇で、日本初の国立演劇研究所である。
京都最古の寺院・広隆寺は、蘇我善徳を全面的にサポートした秦河勝が創建しました。
604年、随の煬帝即位。
610年頃、イスラム教成立。
622年、蘇我善徳他界。
632年、ムハンマド他界。
645年、玄奘三蔵がインドより帰還。
651年、日本三大稲荷の笠間稲荷創建。
653年、道昭が唐へ渡り、玄奘三蔵から法相宗を学び、662年日本法相宗成立。
日本初の暦である飛鳥水落遺跡の漏刻台は、660年に中大兄皇子が作りました。
669年、中臣鎌足が興福寺造立。鎌足は、大鏡に記されている通り、鹿島神宮の鎮座する地である鹿嶋市宮中の鎌足神社の地で誕生。芭蕉も鹿島詣で根本寺を訪ね、常陸国で詠んだ名句を残しました。 月はやし 梢は雨を 持ちながら
670年、法隆寺全消失。
701年、聖武天皇誕生。藤原不比等らが中心となって文武天皇の御代、大宝律令が制定される。律令は、国家経営の基本となる法典で、明治維新まで日本の基盤でした。文武天皇は、生まれつき寛容で、怒りを面に出すことはありませんでした。薩摩・種子島を服属させ、遣唐使を再開しました。藤原時忠が大宝八幡宮建立。
711年、トレドがイスラムの支配下に入る。
717年、富士山・立山と並ぶ日本三霊山・白山開山。2017年、白山開山1300年。奈良時代に描かれた聖徳太子(蘇我善徳)の肖像画は、聖武天皇がモデルである。尺寸王身と銘がある法隆寺金堂の釈迦三尊像と法隆寺夢殿の救世観音像こそが聖徳太子(蘇我善徳)の肖像で確定である。聖徳太子は、救世観音の化身とされました。夢に聖徳太子の救世観音が現れた親鸞は、太子を尊崇し、皇太子聖徳奉讃を執筆した。奈良の金剛山は、役小角が寺を建立し、白秋と並ぶ日本二大童謡巨星・野口雨情の先祖にして英雄・楠木正成が千早城を建設。華厳宗は東大寺です。1300年前、日本最古最大の摩崖仏が京都の笠置山に造立。
724年、奈良時代~田村麻呂の802年にかけての大和朝廷の蝦夷征討の最前線だった陸奥国に国府・多賀城が開城。
上宮聖徳法王定説の存在から、聖徳太子の実在は確実です。推古天皇の政を補佐したのが、蘇我馬子・蘇我善徳(聖徳太子)親子です。天皇の側近は、葛城氏~大伴氏(先祖・神武天皇側近の道臣命)~物部氏(先祖・饒速日命)~蘇我氏(先祖・武内宿禰)~藤原氏(先祖・鹿島神宮禰宜の中臣鎌足)へと移ってゆきました。
740年、東大寺を総本山とする華厳宗成立。
749年、市原市の上総国国府の丈部大麻呂が宮城県で金を発見し、聖武天皇が天平感宝と改め、家持も祝いの和歌で讃え、4年後に廬舎那仏が完成しました。
759年、律宗成立。
766年、鑑真の時代に勝道上人が男体山の頂上に神を祀り、日光山に四本龍寺と日光権現を創建。
782年(延暦元年)、行方市の天台宗・西蓮寺建立。
784年、桓武天皇が長岡京に遷都。最澄は、より救済性の高い教えを求めて天台宗に辿り着きました。天台宗は、中国の智顗(ちぎ・538~598)によって大成された宗派で、日蓮へとつながる妙法蓮華経を根本経典とします。
唐時代の7世紀~10世紀、シルクロードをイラン系のソグド商人が行き交っていました。
689年に発令された古代法典・飛鳥浄御原令により、倭国(ヤマトノクニ)から日本に改名されました。奈良時代以前、日本に猫は存在しておりませんでした。我が国の奈良時代は、フランスより高度で、すでに水栓トイレがありました。
7世紀末、役小角が大峰奥駈道を開山。
徳道上人、長谷寺開創。
703年、利修仙人の文武天皇を祈祷した功徳により、三河の鳳来寺建立。
713年、稗田阿礼が記憶していた古代史(やまと言葉)を、太安万侶が漢字に変えて古事記を完成しました。稗田は、大和郡山市である。
718年、徳道上人が西国三十三観音霊場を開創されました。
718年、大山寺開創。
724年、多賀城完成。唐招提寺の柱の配列は100%パルテノン神殿を取り入れたものである。飛鳥の真目が大きく鼻の高い石造は、100%シルクロードからギリシャ人か中国西域の人かイラン人が日本に来ていた証拠である。
8世紀、モンサンミッシェルの始まり。
757年、箱根神社創建。
766年、勝道上人が日光山輪王寺開山。
767年、三輪の大神神社を勧請して、稲敷市の大杉神社創建。
787年、勝道上人が奥日光湯本温泉を発見。温泉寺を創建。
789年、坂上田村麻呂が武蔵野市吉祥寺の武蔵野八幡宮を創建。
790年、勝道上人が日光二荒山神社創建。
795年、南千住の素戔雄神社創建。
延歴元年(782年)、最仙上人が桜川市の椎尾山に薬王院を開山。
最仙は、822年につくば市最古の北斗寺を創建。
785年、最澄が比叡山に草庵を結ぶ。
比叡山・東寺などが北斗仏教、東大寺・薬師寺・唐招提寺などが南斗仏教。
8~9世紀神仏習合。
西暦802年、東南アジアにクメール王国が誕生、西暦1400年頃まで続き、首都アンコールの人口は、ロンドンの18000人・京都の10万人を抜いて、75万人に達しました。蓮の蕾をモチーフにしたアンコールワットは、1100年頃に築造されました。描かれているヒンズー教神話の踊り子が曼荼羅の踊りのモデルである。791年、18歳の空海は大学の明経科に入学し、土佐国室戸崎で虚空蔵求聞持法(百万遍唱える修行)を行いました。楽山大仏は、空海が唐に渡る1年前完成。
大同元年9月27日、守谷八坂神社創建。
阿弖流為平定の折、坂上田村麻呂が北茨城市の花園神社と青森の十和田神社創建。
空海は、804年に東大寺戒壇院で受戒なされて、空海に改名しました。
大同元年、藤原音麿が茨城県八千代町の鹿嶋神社を西向きに創建。
803年に坂上田村麻呂が東北を平定した後の806(大同元年)~809年、唐から戻った空海が東国に布教、修善寺で独鈷で湯を沸かし、柏市の布施弁天で弁財天を彫り、常陸国(つくば市)の泊崎観音堂を訪れ、つくばみらい市の板橋不動院の不動明王を彫り、つくば市の泉で子育出世聖観世音菩薩を彫り、筑波山の大御堂を中心に布教しました。
筑波山の裏のユートピア付近の峰寺山西光院は、関東の清水寺と呼ばれる吸い込まれるような舞台造で、807年に京都から東国に布教に来た法相宗の徳一大師の開基であります。徳一は、磐梯山慧日寺も開山しました。
807年、常陸大宮市の鷲子山上神社創建。水戸の六地蔵寺開山。
空海は、809年までの大同年間もしくは810年まで東国を遍歴しました。809年もしくは810年、空海が筑波山に密教道場を開く。伊豆国では、桂川で病気の父の体を洗う子供に心を打たれて、独鈷で川の中の岩を打って修善寺温泉を湧かせました。武蔵国の西新井村に疫病が蔓延した際、修善寺から武蔵国に来た空海が十一面観音像を彫り、護摩祈祷を実行、像を枯れ井戸に投げ入れると水が湧き、水を飲んだ村人が治ったのが西新井大師の始まり。空海は、常陸に入り泊崎観音堂・板橋不動院・筑波山大御堂を建立しました。809年、空海は神護寺に滞在。814年、空海が四国八十八ヵ所霊場を巡る。816年、空海が高野山に金剛峯寺を建立。822年、最澄涅槃。823年、東寺を根本道場にしました。当時の東日本の真言宗道場は、つくばみらい市の板橋不動尊と筑波山大御堂です。828年、庶民の学校・綜芸種智院を開校しました。835年、空海涅槃。845年6月25日、菅原道真生誕。同年、紀友則生誕。
 
ひさかたの 光のどけき 春の日に しつ`心なく 花の散るらむ  紀友則 

856年、少彦名命の故郷の常陸国の海岸に、大己貴命と少彦名命の神霊が降臨、大洗磯崎神社と酒列磯崎神社が創建された。朝鮮半島には、1世紀に朝鮮半島を平定した須佐之男命の神霊が現れました。
866年、紀貫之生誕、古今和歌集編纂。
859年~876年の清和天皇の御代の貞観年間に一の矢八坂神社創建。東日本大震災と同じ貞観地震発生。
869年、祇園祭開始。
9世紀のアラビアンナイト執筆時のバグダットの人口100万で当時世界最大都市である。バグダットは、762年アッバース朝イスラーム帝国の新都として建設。
876年(貞観18年)、小倉百人一首で昭和まで876メーターとされた筑波山を詠んだ陽成天皇が即位。
浄土宗は、空也・源信(恵心僧都)・法然によって完成しました。
菅原道真は、33歳で文章博士=文部大臣兼東大学長になられた。日本初の百科事典・類聚国史を完成させました。さらに、894年に遣唐使を廃止して日本独自の国風文化を開花させました。道真は、清廉潔白の象徴である白梅のような魂の持ち主でした。901年、大宰府に左遷させられた慈悲深い奉仕の政治家であらせられる菅原道真公の三男・景行公が、父の安否を尋ねて大宰府を訪れたとき、道真公は‘われ死なば、骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし‘とおっしゃられて903年2月25日他界に行かれました。菅原道真は、日本文化の核心的なものを作り、日本人の魂の原点となりました。景行公は、道真公の遺言通り遺骨を奉じて、家臣数人と20有余年諸国を巡り、常陸介に任命されました。景行公は、926年に真壁町羽鳥に塚を築き、源護・平良兼らと遺骨を納めましたが、929年に飯沼湖畔に浮かぶ島(現大生郷天満宮)を奥都城と定めて社殿を建立し、弟等と真壁町羽鳥より遺骨を遷してお祀りなされたのです。大生郷天満宮は、関東~東北にかけての最古の天満宮で、遺骨をご神体として遺族によってお祀りされたのは、日本の中で大生郷天満宮だけで、大宰府・北野と並び称される日本三天神であります。同市には、葛城に次ぐ一言主神社があります。隣の下妻市には、701年創建で、富岡八幡宮へ勧請された関東最古の大宝八幡宮があります。桜川市の月山寺は、徳一法師の開基である。椎尾山薬王院は、782年の開基である。782年、日光修験を開山した勝道上人により、華厳の滝が発見された。
794年、平安京遷都。
806年、塩原の湯開湯。
延暦年間、阿弖流為を平定しに来た坂上田村麻呂の八幡大菩薩へ祈願により、八幡平と名ずけました。
奈良県の大石不動院は、空海が創建しました。
808年、最澄が天台宗開創。
842年、空海が塩原の湯に入湯。
851年、大洗の海岸に神が出現し、大洗磯崎神社と酒列磯崎神社が創建されました。
938年、空海が彫った不動明王を祀るつくばみらい市の板橋不動院に次ぐ東日本第二位の真言宗の寺院・成田山新勝寺開山。
能因法師と蘇東坡は11世紀を代表する東洋二大詩人。
平将門が坂東市を拠点とし、守谷城を創建。
モアイは、10世紀から17世紀にかけて盛んに作られました。
11世紀半ば、蝦夷を支配していた阿部宗任が源頼義に敗れて阿部氏が滅亡しました。150年後、義経・弁慶と共に戦った奥州藤原氏も滅亡しました。
1052年も、末法到来の年とされる。
1051年、源義家の奥州討伐の途中、水戸市の隠井の湯を発見しました。日蓮も、水戸市の加倉井町の湯に湯治に向かう途中、他界されました。加倉井氏は、信玄の末裔で、武田氏もひたちなか市から始まっています。大子町袋田には、平安時代から続く温泉があります。1053年、藤原頼道が平等院鳳凰堂を創建。11世紀の地球を代表する詩人は、西行と蘇軾である。
ローマ帝国の宮殿を起源とするトレドのアルカサルは、1085年に、アルフォンソ6世により築かれました。しかし、1561年にマドリードへ遷都となりました。
1124年、奥州藤原氏初代清衡、平泉に中尊寺金色堂を建立。
12世紀、ディズニーと並ぶ世界的漫画・鳥獣戯画誕生。
1143年、ドイツのハンザリューベックの街誕生。
12世紀からカリブ海を臨むメキシコユカタン半島のトゥルム遺跡でマヤ文明が栄えましたが16世紀スペイン軍により陥落し、マヤ文明が終焉しました。なんと罪な! マヤ文明は、セノーテの水で発展し、息を呑むようなピラミッドが作られ、太陽を信仰しました。
源氏に敗れた平の国盛は、安徳天皇を奉じ、徳島県の祖谷山に入りました。
1185年、鎌倉幕府成立。
1186年、ミケランジェロを超える人類史上最高の彫刻師・運慶が鎌倉幕府成立の翌年に静岡県の願成就院の毘沙門天立像を完成させました。西行が西蔵王放牧場の西行桜を訪れる。
1190年、西行他界。日本人の美意識の象徴として畏敬されてきた西行の先祖の故郷は、鹿島神宮である。
源義経は、平泉を逃れた後、蝦夷に渡り、積丹半島でしらら姫と別れた後、大陸に渡ってチンギス・ハーンとなりました。義経の肖像画は、頭が丸く目が細くてチンギス・ハーンそっくりです。
親鸞が比叡山で学んでいた1193年、イスラムのゴール朝のムハンマドがデリーを拠点に北インド一帯を支配しました。インドは、8世紀頃から聖戦の名のもとにイスラムの支配を受けてましたが、継続的な支配は初めてでした。1203年、ムハンマドはベンガル地方へと侵略を進め、密教教学の中心だったウ‘ィクラマシラー寺院を破壊、インドでの仏教は衰退しました。インド南部にヒンズー教が残ったため、ヒンズー教の国となったのです。仏教は、ブータンと日本で最も花開きました。1211年、42歳の親鸞は恵信尼と共に常陸国に入り、笠間市稲田で20年過ごしました。西念寺で教行信証を書き上げたのです。大覚寺は、法難の地であります。親鸞は、日本三天神にして御廟天神である大生郷天満宮に訪れています。
1223年、南大門金剛力士を創作した史上最高の仏師・運慶が他界。
1275年、枯山水庭園の規範を作った庭聖・夢窓疎石が誕生。
後鳥羽上皇と同じく隠岐に流された後醍醐天皇の祈りが奇跡を起こして、1333年5月22日に鎌倉幕府が滅亡しました。後醍醐天皇は、天武天皇が決起した吉野に南朝を築きまいた。

     ただかりそめの 宿と思ふに  後醍醐天皇

南朝の楠木正成は、北原白秋と並ぶ日本二大童謡巨星の野口雨情の先祖です。楠木正成は、京都の笠置山と奈良の金剛山を拠点としました。楠木正成は、後醍醐天皇に忠誠を尽くし、大楠公と尊称されました。朝廷が楠木正成の戦略を受け入れていたら、楠木正成軍の勝利でした。吉野を脱出した後醍醐天皇は、北畠親房公が活躍した常陸国にある多可郡中郷村足洗の多賀陵で崩御されました。また、親鸞は、笠間市の西念寺で教行信証を執筆しました。史上最大の詩人である詩聖ダンテは、詩聖ウェリギリウスの影響を受けて神曲を書いてルネサンスを起こし、ペトラルカがルネサンス運動の首唱者となったのです。ダンテと同時代を生きたのが、日本最大の童謡詩人・野口雨情の先祖・楠木正成である。ペトラルカと同時代を生きたのが、南朝を率い、つくば市の小田城で神皇正統記を書いた北畠親房である。徳川光圀公は、神皇正統記から多大な影響を受け、大日本史を編纂しました。笠間市では、親鸞が教行信証を執筆しました。イタリア大詩人であるペトラルカと同時代を生きたのが、南朝第三代天皇であらせられる第九十八代長慶天皇であり、南朝が最も劣勢の時の天皇で、最後まで入京することはありませんでした。長慶天皇が皇位についてまもなく、楠木正成の長男の正儀が北朝に投降しました。長慶天皇は苦境に立たされ、住吉から吉野へ退却されました。1379年、大和栄山寺に移りました。在位15年で、後亀山天皇に譲位なされました。

 わが宿と 頼まずながら 吉野山 色になれぬる 春もいく年  長慶天皇御製
 

雪舟は、備中の生まれ、山口県に滞在。雪村は、常陸の生まれ、三春に滞在。侘茶道の開祖は、村田珠光(じゅこう)であります。華道の開祖は、池坊専慶です。能は、七五調で幽玄な情趣を好みました。二条良基公が足利義光に宮中の作法を教授されたのです。東山文化は、幽玄・侘びの世界を表現し、現代日本文化の基となりました。1431年、連歌を芸術に昇華させた飯尾宗祇と並ぶ15世紀二大詩人にして、近代詩の祖・ウ`ィヨン誕生。飯尾宗祇・ジャンヌダルク・ウ‘ィヨンは同時代を生きました。西洋も日本も乱世だった時代です。
アユタヤ王朝は、1351年~1767年にかけて栄えました。
長谷川等伯が生み出した水墨画の最高峰・松林図屏風は、幽玄の極みである。
1606年、オランダで世界最古の株券が発行。1612年、配当開始。近代人が欲に支配され始めました。現代地球の25億人が、アムステルダムの東インド会社文明が染みついています。
トヨタ・グーグル・ワーゲンは、影響が大きいグローバル企業50社に含まれている。江戸時代、日本の人口二千数百万。
1707年、富士山が宝永の大噴火を起こし、49日後に宝永の東海地震が発生しました。この後の時代、北斎富士の名作が誕生。
北原白秋と並ぶ二大童謡詩人の野口雨情(北茨城市)は、楠木正成の正統子孫であられます。日立市には、いつでも夢をなどで日本に希望を与えた大作曲家・吉田正先生がいます。
発句を芸術の域に高めた飯尾宗祇15歳の1436年、イタリアでサンタ・マリア・デル・フォーレ大聖堂が完成。
真の茶人は、村田珠光である。紹鴎の侘茶は、商人の道楽のようなものでした。利休の茶は、40歳まで紹鴎の真似・61歳まで紹鴎風と評されました。
ミケランジェロ(1475~1564)。1561年、トレドからマドリードへ遷都。
わび茶を創造した茶聖・村田珠光以降の真の茶人は、仙洞御所庭園・二条城・桂離宮を築造した夢窓疎石と並ぶ日本二大作庭家にして、茶の湯の綺麗さびを創造した大名文化人・小堀遠州である。

茨城三大俳人は、山王村の高野素十・水戸の加倉井秋を・下館の原裕である。

貧しい漁民の子に生まれながら、聖徳太子(蘇我善徳)に次ぐ日本の聖人にして、代表的日本人の筆頭であり、自力本願の妙法蓮華経を崇め、情熱的に布教し、蒙古襲来を予言し、立宗をひらいた日蓮聖人は、最晩年に療養のため、身延山を降り、先祖に武田信玄を仰ぐ茨城三大俳人・加倉井秋をの故郷である水戸市加倉井町のひたちの湯(現妙徳寺)での湯治を目指す途中、池上本門寺の地で他界されました。日蓮に隠井の湯での湯治を進めたのは、波木井実長で、子と母が妙徳寺に住みました。ひたちなか市の武田地区が、甲斐武田氏発祥の地である。
毘沙門天の化身を自認した上杉謙信は、戦国一の軍略家でした。
1616年、徳川家康・シェイクスピア・セルバンテス昇天。
安土桃山文化では、日本のレオナルド・ダ・ビンチ本阿弥光悦(~1637年)と俵屋宗達が活躍しました。室町時代の東山文化・北山文化に続く日本ルネサンスです。
17世紀、ヨーロッパ全土に水栓トイレがなく、パリではハイヒールが誕生、ルイ14世も愛用。
1746年、バッハがヒルでブラントのオルガンを鑑定。
永遠のキングオブスキーは、オーストリアのゴットワルトである。
1780年、常陸国筑波郡上平柳村(つくばみらい市)の農家に間宮林蔵が生まれる。
1795年、間宮林蔵が才能を認められて江戸行きの登竜門となったのが、福岡堰・豊田堰と並ぶ関東三大堰の岡堰治水の貢献。
1800年、林蔵が函館で伊能忠敬と子弟の契りを結び、後に蝦夷(北海道)の正確な地図を完成させる。
1808年、間宮林蔵が樺太探検を命ぜられる。
1809年、間宮海峡発見。
1810年、48歳の小林一茶が俳友の櫻井蕉雨と共に守谷市の西林寺の六十四世義鳳上人を訪ねました。十二月二十三日には、守谷の一茶の弟子・斎藤若雨と共に句会を開き、

行く年や 空の名残を 守谷まで   一茶

と詠みました。九度も訪ねて句会を開いた西林寺は、一茶の第二の故郷であります。

1822年、間宮林蔵が蝦夷地の測量を終える。
徳川斉昭が、間宮林蔵を招待する。
晩年の間宮林蔵は、本所深川で芭蕉のような簡素な生活を送った。
1973年、イチロー誕生。
1974年、室伏広治・松井秀喜・黒田投手・上原投手・国分太一誕生。
1975年、ベッカム誕生。
1985年、科学万国博覧会がつくば市で開催、世界中から200
平成筑波集
世にふるも さらに時雨の やどり哉    飯尾宗祇

雪ながら 山もとかすむ 夕かな      飯尾宗祇

月ながら うす雪くもる 朝かな      飯尾宗祇

花ざかり 雲井に見えぬ 山もなし     飯尾宗祇

関こえて ここも藤しろ みかさ哉     飯尾宗祇

春立つや 日本目出度き 門の松      斎藤徳元


一しほは うるしぬるでの もみち`かな           竹馬狂吟集

しも風に ふるひ落すや 松ふぐり                         `

越路より 霰やゆきの さきばしり                           `

山でらや ゑんかうしりへ かすむらん                  `

はなちれば 外法の神も しらが山                        `

我が足や 手洗の水の 月のかげ                         `

山かぜや 秋のしるしを おろすらん                     `


元日や 家内ながらも 客言葉         詠み人知らず

孝行をしたい時分に 親はなし         詠み人知らず



今朝国土 笑はせ初ぬ 俳諧師         伴天連社高政

風ぶくろ 口ぬいとめよ 糸ざくら       光貞妻

恐しや 女の眼鏡 としの暮          伊藤信徳

わが恋の まつ島もさぞ 初霞         井原西鶴


世にふるも さらに宗祇の宿り哉       松尾芭蕉

菊の香や ならには古き 仏たち       松尾芭蕉

春やこし 年や行けん 小晦日        松尾芭蕉

月ぞしるべ こなたへ入らせ 旅の宿     松尾芭蕉

時雨をや もどかしがりて 松の雪      松尾芭蕉

春風に ふき出し笑ふ 花も哉        松尾芭蕉

うかれける 人や初瀬の 山桜        松尾芭蕉

声すみて 北斗にひびく 砧哉        松尾芭蕉

秋風や 藪も畠も 不破の関         松尾芭蕉

しにもせぬ 旅寝の果よ 秋の暮       松尾芭蕉

年暮ぬ 笠きて草鞋 はきながら       松尾芭蕉

しのぶさへ 枯て餅かふ やどり哉      松尾芭蕉

くれくれて 餅を木霊の わびね哉      松尾芭蕉

河豚釣らん 李陵七里の浪の雪        松尾芭蕉

馬ぼくぼく 我をゑに見る 夏野哉      松尾芭蕉

夏草や 兵共が ゆめの跡          松尾芭蕉

古池や 蛙とび込 水のをと         松尾芭蕉

ほろほろと 山吹散るか 瀧の音       松尾芭蕉

あけぼのや 白魚白きこと一寸        松尾芭蕉

あら何ともなや 昨日は過ぎて 河豚汁    松尾芭蕉

春もやや 景色ととのふ 月と梅       松尾芭蕉

梅が香に のっと日の出る 山路かな     松尾芭蕉

梅若菜 丸子の宿の とろろ汁        松尾芭蕉

春なれや 名もなき山の 薄がすみ      松尾芭蕉

山路きて なにやらゆかし すみれ草     松尾芭蕉

草の戸も 住替る代ぞ ひなの家       松尾芭蕉

糸遊に 結びつきたる 煙哉         松尾芭蕉

かげろふの 我肩にたつ 紙子哉       松尾芭蕉

道のべの むくげは馬にくはれけり      松尾芭蕉

花の雲 鐘は上野か あさくさか       松尾芭蕉

唐崎の 松は花より 朧にて         松尾芭蕉

京は 九万九千くんじゅの 花見哉      松尾芭蕉

命二つの中に生たる桜哉           松尾芭蕉

暫は 花の上なる 月夜かな         松尾芭蕉

さまざまのこと思ひ出す 桜かな       松尾芭蕉

どむみりと あふちや雨の花曇        松尾芭蕉

日は花に 暮てさびしや あすならふ     松尾芭蕉

姥桜 咲や老後の思い出           松尾芭蕉

奈良七重 七堂伽藍 八重桜         松尾芭蕉

白げしに はねもぐ蝶の 形見哉       松尾芭蕉

草臥て 宿かる頃や 藤の花         松尾芭蕉

行春を 近江の人と 惜みける        松尾芭蕉

梅こひて 卯花拝む なみだ哉        松尾芭蕉

蘭の香や てふのつばさにたき物す      松尾芭蕉

よく見れば 薺花咲く 垣根哉        松尾芭蕉

おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉    松尾芭蕉

僧朝顔 幾死かへる 法の松         松尾芭蕉

此松の 実ばへせし代や 神の秋       松尾芭蕉

名月や 門にさしくる 潮頭         松尾芭蕉

月早し 梢は雨を 持ちながら        松尾芭蕉

寺に寝て まこと顏なる 月見哉       松尾芭蕉

俤や 姥ひとり泣く 月の友         松尾芭蕉

ちちははの しきりにこひし 雉の声     松尾芭蕉

義朝の 心に似たり 秋の風         松尾芭蕉

けふばかり 人も年よれ 初時雨       松尾芭蕉

初時雨 猿も小蓑を ほしげ也        松尾芭蕉

旅寝して 見しやうき世の 煤はらひ     松尾芭蕉

寒けれど 二人寝る夜ぞ 頼もしき      松尾芭蕉

星崎に 闇を見よとや 啼千鳥        松尾芭蕉

京までは まだ中空や 雪の雲        松尾芭蕉

馬をさへ ながむる雪の朝哉         松尾芭蕉

春立て まだ九日の 野山哉          松尾芭蕉

雲雀より 空にやすらふ 峠哉        松尾芭蕉

一つぬひで 後に負ぬ 衣がへ        松尾芭蕉

若葉して 御目の雫 ぬぐはばや       松尾芭蕉

いざよひも まださらしなの 郡哉      松尾芭蕉

行春や 鳥啼魚の 目は泪          松尾芭蕉

あらたふと 青葉若葉の 日の光       松尾芭蕉

暫時は 滝に籠るや 夏の初         松尾芭蕉

夏山に 足駄を拝む 首途哉         松尾芭蕉

木啄も 庵はやぶらず 夏木立        松尾芭蕉

田一枚 植て立去る 柳かな         松尾芭蕉

風流の 初やおくの 田植うた        松尾芭蕉

世の人の 見付ぬ花や 軒の栗        松尾芭蕉

早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺       松尾芭蕉

笠島は いつ”こ五月の ぬかり道        松尾芭蕉

桜より 松は二木を 三月越         松尾芭蕉

あやめ草 足に結ん 草鞋の緒        松尾芭蕉

五月雨の 降り残してや 光堂        松尾芭蕉

五月雨を あつめて早し 最上川       松尾芭蕉

五月雨に かくれぬものや 瀬田の橋     松尾芭蕉

蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな     松尾芭蕉

六月や 峰に雲置 あらし山         松尾芭蕉

まゆはきを 俤にして 紅粉の花       松尾芭蕉

涼しさを 我宿にして ねまる也       松尾芭蕉

有難や 雪をかをらす 南谷         松尾芭蕉

涼しさや ほの三か月の 羽黒山       松尾芭蕉

雲の峰 幾つ崩て 月の山          松尾芭蕉

語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな       松尾芭蕉

あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ      松尾芭蕉

象潟や 雨に西施が ねぶの花        松尾芭蕉

波こえぬ 契ありてや みさごの巣      松尾芭蕉

文月や 六日も常の夜には似ず        松尾芭蕉

秋十年 却つて江戸を指す故郷        松尾芭蕉

荒海や 佐渡によこたふ 天河        松尾芭蕉

一家に 遊女もねたり 萩と月        松尾芭蕉

わせの香や 分入右は 有磯海        松尾芭蕉

塚も動け 我泣声は 秋の風         松尾芭蕉

秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子        松尾芭蕉

しほらしき名や 小松吹萩すすき       松尾芭蕉

名月や 池をめぐりて 夜もすがら      松尾芭蕉

枯枝に 烏とまりけり 秋の暮        松尾芭蕉

あかあかと 日は難面も あきの風      松尾芭蕉

野ざらしを 心に風のしむ身かな       松尾芭蕉

石山の 石より白し 秋の風         松尾芭蕉

海くれて 鴨の声 ほのかに白し       松尾芭蕉

ものいへば 唇寒し 秋の風         松尾芭蕉

秋深き 隣は何をする人ぞ          松尾芭蕉

山中や 菊はたおらじ 湯の匂ひ       松尾芭蕉

庭掃て 出ばや寺に 散柳          松尾芭蕉

月清し 遊行のもてる 砂の上        松尾芭蕉

名月や 北国日和 定なき          松尾芭蕉

寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋      松尾芭蕉

波の間や 小貝にまじる 萩の塵       松尾芭蕉

蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ        松尾芭蕉

憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥      松尾芭蕉

鷹ひとつ 見つけてうれし いらこ崎     松尾芭蕉

きりぎりす 忘音に啼く 火燵哉       松尾芭蕉

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る      松尾芭蕉


髭宗祇 池に蓮ある 心かな          山口素堂

唐土に 富士あらば けふの月も見よ      山口素堂

春の夜は たれか初瀬の 堂籠         河合曾良

剃捨て 黒髪山に 衣更            河合曾良

かさねとは 八重撫子の名成べし        河合曾良

卯の花を かざしに関の晴着かな        河合曽良

卯の花に 兼房見ゆる 白髪哉         河合曾良

松島や 鶴に身をかれ ほととぎす       河合曾良

湯殿山 銭ふむ道の 泪かな          河合曾良

蚕がひする 人は古代の すがた哉       河合曾良

波こさぬ ちぎりありてや 鶚の巣       河合曾良

いつ”くにか たふれふすとも 萩の原      河合曾良

松風の空や 雲雀の舞わかれ          内藤丈草

大はらや 蝶の出て舞ふ 朧月         内藤丈草

町中の山や 五月ののぼり雲          内藤丈草

蚊屋を出て また障子あり 夏の月       内藤丈草

菜種がら 焼や野風の ほととぎす       内藤丈草

ほととぎす 滝よりかもの わたりかな     内藤丈草

呼声はたえて ほたるのさかり哉        内藤丈草

釣柿や 障子にくるふ 夕日影         内藤丈草

玉棚や 藪木をもるる 月の影         内藤丈草

幾人か しぐれかけぬく 勢田の橋       内藤丈草

着てたてば 夜るのふすまもなかりけり     内藤丈草

しつかさを 数珠もおもはず 網代守      内藤丈草

郭公鳴や 湖水のささにごり          内藤丈草

まじはりは 紙子の切を 譲りけり       内藤丈草

入月や しぐれの雲の 底光          内藤丈草

木がらしの 身は猶かろし 夢の中                 内藤丈草

ほこほこと 朝日さしこむ 火燵かな      内藤丈草

雪は申さず 先つ"紫の 筑波山          服部嵐雪

汐干くれて 蟹が裾引 なごり哉        服部嵐雪

我や来ぬ ひと夜よし原 天川         服部嵐雪

舟炙る とま屋の秋の 夕哉          服部嵐雪

松風の 里は籾する しぐれ哉         服部嵐雪

はぜつるや 水村山郭 酒旗風         服部嵐雪

簾に入て 美人に馴る 燕かな         服部嵐雪

木がらしの吹行 うしろすがた哉        服部嵐雪

雪の嶺 こころのたけを くつ”しけり      斎部露道

目にたつや 海青々と 北の秋         斎部露通

鳥共も 寝入ってゐるか 余呉の海       斎部露通

涅槃より 灌仏さすが あはれ也        斎部露通

ぼのくぼに 雁落ちかかる 霜夜かな      斎部露通

ながながと 川一筋や 雪の原         野沢凡兆

下京や 雪つむ上の 夜の雨          野沢凡兆

捨舟の うちそとこほる 入江かな       野沢凡兆

海山に 五月雨そふや 一くらみ        野沢凡兆

門前の 小家もあそぶ 冬至哉         野沢凡兆

呼かへす 鮒売見えぬ あられ哉        野沢凡兆

竹の子の 力を誰に たとふべき        野沢凡兆

念仏より 欠伸たふとき 霜夜哉        野沢凡兆

わびぬれば 身は埒もなき もつ‘く哉        野沢凡兆

わするるな 日々に福は内 鬼は外       広瀬惟然

梅の花 赤いは赤いは あかひわさ       広瀬惟然

のらくらと ただのらくらとやれよ 春     広瀬惟然

馬の尾に 陽炎ちるや 昼はたご        広瀬惟然

山吹や 水にひたせる ゑまし麦        広瀬惟然

朝起の 顔ふきさます 青田哉         広瀬惟然

石菖の 朝露かろし ほととぎす        広瀬惟然

更行や 水田の上の あまの河         広瀬惟然

きりぎりす さあとらまへた はあとんだ    広瀬惟然

松茸や 宮古にちかき 山の形         広瀬惟然

蜻蛉や 日は入ながら 鳰のうみ        広瀬惟然

時雨時雨 又一しぐれ 暁の月         広瀬惟然

空よそら さればぞ風の 只寒み        広瀬惟然

ひだるさに 馴てよく寐る 霜夜哉       広瀬惟然

水さつと 鳥よふはふは ふうはふは      広瀬惟然

蠟燭の うすき匂ひや 窓の雪         広瀬惟然

いなつ”まや どの傾城と かり枕        向井去来

手のうへに かなしく消る 蛍かな       向井去来

岩はなや ここにもひとり 月の客       向井去来

おくり火や 定家の煙 十文字         榎本其角

声嗄れて 猿の歯白し 峯の月         榎本其角

秋の雲 尾上の杉を はなれたり        榎本其角

西行の 死出路を旅の はじめ哉        榎本其角

春の日の 念仏ゆるき 野寺哉         江左尚白

ふりかねて こよひになりぬ 月の雨      江左尚白

さむしろや 衣うつ賤の 膝がしら       江左尚白

夜田かりに 我やとはれん 里の月       宗波

呑むほどに 三日月かかる 桜かな       生駒万子

稲妻や 海のおもてを ひらめかす       中村史邦

汲鮎の 網に花なし 桜川           天野桃隣

それぞれの 朧のなりや 梅柳            三上千那

秋たけて むし音深き 枯尾は`な        河野李由

秋の日や 南薗堂を 覗きける          浜田洒堂

をさな子や ひとり飯くふ 秋の暮        江左尚白

春風や 麦の中行く 水の音           木導

あひさしの 傘ゆかし 花の雨          淀水

大原女に 恋せば梅の 花ざかり         原田宇古

海山の 鳥啼立る 雪吹かな           乙州

鶯に 手元やすめむ 流し本           河合智月
 
霜やけの 手を吹てやる 雪まろげ        野沢羽紅

しがらきや 茶山しに行く 夫婦つ`れ      水田正秀

翠簾さげて たが妻ならん 涼み舟        秋色

名月や もたれてまはる 縁は`しら         梢風尼

朝顔に 釣瓶とられて 貰ひ水            千代尼

としの内に 日光はさぞ 初霞          松木淡々

松が寝に 千代をあやかる 野菊かな         知足母

我やどの かたじけなくも 花見かな       服部土芳

木枯の 一日吹いて 居りにけり         岩田涼兎

山寺の 春や仏の 水仙花            横井也有

大竹や 人はねむたき 五六月          桜井吏登

葛城の 神もおたちか 小夜しぐれ        露川

夏川の 音に宿かる 木曾路かな         重五

鷹狩や 侍衆の 蓑と笠             卯七

早苗みて 命のながき 心地せり         木因

折角と 床しがらせよ 月の雨          句空

名月や よひは女の 声ばかり          木節

おこし置いて ねられぬ伽に 炭火かな      未得

十分に 潤ふ空や 夏筑波            菊岡せん涼

吹かれ来て 畠に上る 千鳥かな         麦林舎乙由

小夜時雨 隣へはひる 傘の音          松倉嵐蘭

水と羽と 合せゆく鵜や 夕すずみ        水間せん徳

雁金も 追ひてに渡れ いせの海         大高源吾

春の野や 何につられて うわの空        萱野三平

うき事になれて 雪間の嫁菜かな         すて


雪解けや 深山ぐもりを 鳴くからす      加藤暁台

春さむし 貧女がこぼす 袋米          加藤暁台

初恋や 燈籠によする 顔と顔         炭太祇

女郎花 をるや観世が 駕篭の中       夜半亭宋阿(早野巴人)

耳目肺腸 ここに玉巻 ばせお庵       与謝蕪村

流れ来て 清水も春の水に入る        与謝蕪村

うつくしや 雲雀の鳴きし 迹の空      与謝蕪村

行春や むらさきさむる 筑波山       与謝蕪村

恋さまざま 願の糸も 白きより       与謝蕪村

鶯の あちこちとするや 小家がち      与謝蕪村

うぐひすや 家内揃ふて 飯時分       与謝蕪村

鶯の鳴くや ちいさき口開けて        与謝蕪村

鶯の 声遠き日も 暮れにけり        与謝蕪村

白梅や 誰が昔より 垣の外         与謝蕪村

梅遠近 南すべく 北すべく         与謝蕪村

今日のみの 春を歩いて 仕舞けり      与謝蕪村

まだ長うなる日に 春の限りかな       与謝蕪村

春の暮 家路に遠き人ばかり         与謝蕪村

遅き日のつもりて 遠き昔かな        与謝蕪村

春雨や 同車が君の さざめ言        与謝蕪村

春雨や 小磯の小貝 濡るほど        与謝蕪村

春雨や 暮れなんとして 今日も有      与謝蕪村

春水や 四条五条の 橋の下         与謝蕪村

春風や 堤長うして 家遠し         与謝蕪村

片町に 更紗染めるや 春の風        与謝蕪村

菜の花や 月は東に 日は西に        与謝蕪村

菜の花や 昼ひとしきり 海の音       与謝蕪村

海手より 日は照つけて 山桜        与謝蕪村

花に寝て 我家遠き 野道かな        与謝蕪村

行く春や 逡巡として 遅桜         与謝蕪村

愁ひつつ 丘に登れば 花茨         与謝蕪村

花茨 故郷の道に 似たる哉         与謝蕪村

夏河を 越すうれしさよ 手に草履      与謝蕪村

柳散り 清水かれ石 ところところ      与謝蕪村

行春や おもたき琵琶の 抱ごころ      与謝蕪村

うは風に 音なき麦を 枕もと        与謝蕪村

更衣 野路の人はつかに白し         与謝蕪村

絶頂の 城たのもしき 若葉かな       与謝蕪村

閻王の口や 牡丹を吐んとす         与謝蕪村

地車の とどろと響く 牡丹かな       与謝蕪村

麦秋や 何におどろく 屋根の鶏       与謝蕪村

柚の花や ゆかしき母屋の 乾隅       与謝蕪村

五月雨や 御豆の小家の 寝覚がち      与謝蕪村

紙燭して 廊下通るや 五月雨        与謝蕪村

鮒鮓や 彦根の城に雲かかる         与謝蕪村

寂まくと 昼間を鮓のなれ加減        与謝蕪村

飛蟻とぶや 富士の裾野の 小家より     与謝蕪村

百姓の 生きて働く暑さ哉          与謝蕪村

月天心 貧しき町を通りけり         与謝蕪村

門を出て 故人に逢ひぬ 秋の暮       与謝蕪村

山は暮れて 野は黄昏の 薄哉        与謝蕪村

さみだれや 大河を前に 家二軒       与謝蕪村

鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分哉       与謝蕪村

草の雨 祭の車 過てのち          与謝蕪村

夕立や 草葉を掴む 群雀          与謝蕪村

小原女の 足の早さよ 夕もみち"        与謝蕪村

このもより かのも色こき 紅葉哉      与謝蕪村

谷水の 尽てこがるる もみち"哉        与謝蕪村

凩や 広野にどうと 吹起る         与謝蕪村

遠山に 夕日一すち" 時雨哉          与謝蕪村

みの虫の ぶらと世にふる 時雨哉      与謝蕪村

古傘の 婆娑と月夜の しぐれ哉       与謝蕪村

しぐるるや 堅田へおりる 雁ひとつ     与謝蕪村

来迎の 雲をはなれて 時雨哉        与謝蕪村

時雨るや 我も古人の 夜に似たる      与謝蕪村

西吹けば 東にたまる 落ば哉        与謝蕪村

行年や 芥流るる 桜川           与謝蕪村

葱買て 枯木の中を 帰りけり        与謝蕪村

寒菊や 日の照る村の 片ほとり       与謝蕪村

易水に 根深流るる 寒さ哉         与謝蕪村

歳旦を したり顔なる 俳諧師        与謝蕪村

水仙や 美人かうべをいたむらし       与謝蕪村

水仙や 寒き都の ここかしこ        与謝蕪村

凧 きのふの空の 有りどころ        与謝蕪村

牡丹切って 気のおとろひし夕べかな     与謝蕪村

ほうらいの 山まつりせむ 老の春      与謝蕪村

我も死して 碑の辺せむ 枯尾花       与謝蕪村

しら梅に 明る夜ばかりとなりにけり     与謝蕪村

枕して 遅き日を行 のぼり舟          春泥舎召波

土舟や 蜆こぼるる 水の音           加舎白雄

筆とりてむかへば 山の笑ひけり       大島蓼太

わが影の 壁にしむ夜や きりぎりす      大島蓼太

蛤に つれなき汐の 行衛かな          田川移竹

門前の 雨は寝ている 十夜かな        月居

魁る 鶏は御慶の はつね哉           上田秋成

風ぶくろ 口ぬひとめよ 糸ざくら       光貞妻

木枯や 川吹もどす ささら波         百池

水鳥の 行くに従う 木葉かな         吟江

砂川や 枕のほしき 夕涼み           高桑らん更

山住の 友尋ねけり 西行忌         夏目成美

桃青霊神 託宣に曰く はつ時雨      小林一茶

はつ時雨 俳諧流布の 世也けり      小林一茶 

雪とけて 村一ぱいの 子ども哉      小林一茶

我春も 上上吉ぞ 梅の花         小林一茶

三日月や ふはりと梅に鶯が        小林一茶

目出度さも ちう位なり おらが春     小林一茶

山やくや 眉にはらはら 夜の雨      小林一茶

ゆうぜんとして山を見る蛙かな       小林一茶

痩蛙 まけるな一茶 是に有        小林一茶

雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る   小林一茶

なの花の とっぱつ”れ也 ふじの山     小林一茶

わんだれもさうじゃぞ 花の真盛      小林一茶

けろりくわんとして 雁と柳かな      小林一茶

世の中は 地獄の上の 花見哉       小林一茶

花散るや 呑みたい水も 遠霞       小林一茶

もたいなや 昼寝して聞く 田植歌     小林一茶

はいかいの 地獄はそこか 閑古鳥     小林一茶

涼風の 曲りくねって 来たりけり     小林一茶

蟻の道 雲の峰より つつ”きけり      小林一茶

夕立や けろりと立し 女郎花       小林一茶

蓮の花 虱を捨るばかりなり        小林一茶

うつくしや しようじの穴の 天の川    小林一茶

あの月を 取ってくれろと 泣子哉     小林一茶

僧になる 子のうつくしや 芥子の花    小林一茶

撫子や 地蔵菩薩の あとや先       小林一茶

段々に 朧よ月よ こもり堂        小林一茶

べったりと 人のなる木や 宮相撲     小林一茶

利根川は 寝ても見ゆるぞ 夏木立     小林一茶

蝉なくや つくつ”く赤い 風車       小林一茶

魚どもの 遊びありくや 菊の花      小林一茶

夕月や 流れ残りの きりぎりす      小林一茶

露の世は 露の世ながら さりながら    小林一茶

赤子から うけならはすや 夜の露     小林一茶

行あたりばったり 雁の寝所かな      小林一茶

したはしや むかししのぶの 翁椀     小林一茶

ずぶ濡れの 大名を見る 火燵哉      小林一茶

どんど焼 どんどと雪の 降りにけり    小林一茶

行く年や 空の名残を 守谷まで      小林一茶

行く年や 身はならはしの 古草履     小林一茶

行く年や 空の青さに 守谷まで      小林一茶

蚊の鳴くや 将門殿の かくし水      小林一茶

かはほりや 相馬の京も 小千年      小林一茶

三味線で 鴫を立たする 潮来哉      小林一茶

咲く花の 中にうごめく 衆生かな     小林一茶

山寺や 月も一間に一つつ”つ         小林一茶

古郷や よるも障も 茨の花        小林一茶

ほちほちと 雪にくるまる 在所哉     小林一茶

ぬくぬくと 雪にくるまる 小家哉     小林一茶

むまさうな 雪がふうはりふはり哉     小林一茶

心から しなのの雪に 降られけり     小林一茶

亡母や 海見る度に 見る度に       小林一茶

是がまあ 地獄の種か 花に鳥        鶴老

知らぬ火の 春も忽ちくれにけり       鶴老

牛馬の ねてくふ春の 野山哉        鶴老

ひと魂で ゆくきさんじや 夏の原       葛飾北斎

ゆきとのみ いろはに櫻 ちりぬるを      酒井抱一

木枯らしに 思ひたちかり 神の旅       曲亭馬琴

奈良坂や 畑打つ山の 八重桜         旦藁

追々に 塔の雫や 春の雪           二柳

夜神楽や 押ぬぐいたる 笛の霜        蝶夢

待宵や 翌の命は 翌のこと          加藤原松

奈良法師 若菜つむにゃ 白小袖        青木春澄

家二つ 戸の口見えて 秋の山         鈴木道彦

鶯の 日はくれにけり きじの声        松窓乙二

炭売って 余生を送る 角力かな        成田蒼きゅう

膝に身を 乗せて女や 栗をむく        池田青鏡

大蟻の 畳を歩く 暑さかな          井上士郎

声に身を持せて揚る雲雀哉           内田野帆

松の葉や 細きのも似ず 秋の声        伊藤風国

峠には 峠の風の とんぼかな         松永寒石

ほうと啼く 鶯遠し 峰の松          詠み人知らず

おもしろき事のなき世をおもしろく       高杉晋作

差し向かう心は清き 水鏡           土方歳三

早き瀬に 力足らぬや 下り鮎         土方歳三

動かねば 闇にへだつや 花と水        沖田総司

西東 山の錦や はなすまひ          木村庄之助

我道の 神とも拝め 翁の日        井上井月

山桜 古城の跡の あらしかな       井上井月

何処やらに 鶴の声きく 霞かな      井上井月

花は葉に もたれ合うてや 玉椿      井上井月

住ひよき家や 柳の下流れ         井上井月

葉桜となりても 山の名所かな       井上井月

気の合うて 道はかどるや 雲の峰     井上井月

はらはらと木の葉まじりや 渡り鳥     井上井月

俤の 眼にちらつくや 雪仏        井上井月

妻持ちしこともありしを 着衣始      井上井月

まだ月は 十三七つ 梅の花        井上井月

今日ばかり 花も時雨れよ 西行忌     井上井月

西方を こころに雪の首途かな       井上井月


初冬の 竹緑なり 詩仙堂         内藤鳴雪

水はりて 春を田に見る 日ざし哉     角田竹冷

ひらひらと こぼれて花の 真っ盛り    松島十湖

百姓に 雲雀揚りて 夜明けたり      村上鬼城

冬蜂の 死にどころなく 歩きけり     村上鬼城

生きかはり 死にかはりして 打つ田かな  村上鬼城

ゆさゆさと 大枝ゆるる 桜かな      村上鬼城

念力の ゆるめば死ぬる 大暑かな     村上鬼城

美しきほど哀れなり はなれ鴛鴦      村上鬼城

春や昔 十五万石の 城下哉        正岡子規

観音の 大悲の桜 咲きにけり       正岡子規

六月を 綺麗な風の 吹くことよ      正岡子規

赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり      正岡子規

いくたびも 雪の深さを 尋ねけり     正岡子規

鶏頭の 十四五本もありぬべし       正岡子規

糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな      正岡子規

をととひの 糸瓜の水も 取らざりき    正岡子規

菜の花を 通り抜ければ 城下かな     夏目漱石

肩に来て 人懐かしや 赤蜻蛉       夏目漱石

菫程な 小さき人に 生まれたし      夏目漱石

長き夜を たたる将棋の 一ト手哉     幸田露伴

枝少し鳴らして 二百十日かな       尾崎紅葉

早乙女の 蛙にわたす 日暮哉       尾崎紅葉

泣いていく ウエルテルに逢う 朧哉     尾崎紅葉

看病の 娘出しやる 踊かな        泉鏡花

行秋や ででむし殻の中に死す       森鴎外

君を訪ふて 雨の花野を 帰りけり     徳田秋声

初富や 芋庵の芋 角いだせ        小川芋銭

きらとする 鷹の瞬 焔なる        松瀬青々

人妻の 傘ふかし 花の雨         松瀬青々

山に花 海には鯛の ふぶくかな      松瀬青々

日盛りに 蝶のふれ合ふ音すなり      松瀬青々

いとしめば 紅よどむ 蘇芳かな      松根東洋城

横様に 雨白々と 牡丹かな        松根東洋城

絶壁に 眉つけて飲む 清水かな      松根東洋城

渋柿のごときものにては候へど       松根東洋城

麦刈て 近江の海の 碧さかな       石井露月

鷹の眼に うつる冬雲こくならね      佐藤紅禄

新涼の 北斗輝く 梢哉          村上せい月

大空に 羽子の白妙 とどまれり      高濱虚子

紅梅の 紅の通へる 幹ならん       高濱虚子

海女とても 陸こそよけれ 桃の花     高濱虚子

これよりは 恋や事業や 水温む      高濱虚子

くもりたる 古鏡のごとし 朧月      高濱虚子

さきみちて こぼるる花も なかりけり   高濱虚子

夏の蝶 日かげ日なたと 飛びにけり    高濱虚子

神にませば まこと美はし 那智の滝    高濱虚子

虹立ちて 忽ち君の 在る如し       高濱虚子

ふるさとの 月の港を よぎるのみ     高濱虚子

桐一葉 日当りながら 落ちにけり     高濱虚子

箒木に 影といふもの ありにけり     高濱虚子

佇めば 落葉ささやく 日向かな      高浜虚子

赤い椿 白い椿と 落ちにけり       河東碧悟桐

思はずも ヒヨコ生れぬ 冬薔薇      河東碧梧桐

木枯に 追はるるごとく 任地去る     永田青嵐

張りつめし 氷の中の 巌かな       石井露月

焚きつけて 尚広く掃く 落葉かな     西山泊雲

川上の空 まつ”焦げて鵜舟かな       籾山梓月

春寒や 机の下の おきこたつ       籾山梓月

飯粒して 封する文の 寒さかな      籾山梓月

屠蘇つげよ 菊の御紋の うかむまで    本田あふひ

ことごとく まことをうつし 雛調度    本田あふひ

しぐるるや 灯待たるる 能舞台      本田あふひ

うぐひすや 根岸の里の 侘住居      長塚節

こんこんと 水は流れて 花菖蒲      臼田亜浪

たくたくと 畦水の折れ 畳むかな     青木月斗

かたまって 薄きひかりの 菫かな     渡辺水巴

日輪を 送りて月の 牡丹かな       渡辺水巴

白日は 我霊なりし 落葉かな       渡辺水巴

冬山や どこまで登る 郵便夫       渡辺水巴

降りしきる 雪をとどめず 辛夷咲く    渡辺水巴

日輪は 筏のそそぎ 牡蠣育つ         嶋田青峰

もの書くに 夜はこのもし 金魚玉     嶋田青峰

蒲の穂や たまたま遠き 薄日射      北原白秋

正月や 宵寝の町を 風のこゑ       永井荷風

妙高に 雲動かねど 秋の風        大須賀乙字

還馬の 毛深き脛の 黄土あはれ      内田慕情

分け入っても 分け入っても 青い山       種田山頭火

から松の 梢の白し 秋の湖        会津八一

粟一粒 秋三界を 蔵しけり        寺田寅彦         

春寒や 恋は心の 片隅に         竹久夢二

夏の夜は わけて逢ふ夜は みち‘かきに    竹久夢二

あし音を まつ明暮や 萩の花       竹久夢二

秋ふかく 男たるものの ものおもひ    竹久夢二

原っぱを ひとりぽっちの 風がふく    竹久夢二

汽車はいま 上野をいつ‘る 青嵐       竹久夢二

落人の 奈良をいでたつ 時雨かな     竹久夢二

初夏や 奈良の小家の わかき妻      竹久夢二

よき家の 妻とうまれし 暑さ可那     竹久夢二

乾坤に 砕けし濤や 時鳥         癖三酔

松蝉や 白根颪に 鳴き揃ふ        前田普羅

雪解川 名山けつ`る 響かな         前田普羅

乗鞍の彼方 春星かぎりなし        前田普羅

湖に 夏草を刈り 落しけり        前田普羅

梅雨の海 静かに岩を ぬらしけり     前田普羅

立山の かぶさる町や 水を打つ      前田普羅

しみじみと 日を吸う柿の 静かな     前田普羅

茅枯れて みつ‘がき山は 蒼天に入る      前田普羅

霜つよし 蓮華とひらく 八ヶ嶽      前田普羅

茅ヶ嶽 霜とけ径を 糸のごと       前田普羅

駒ケ嶽 凍てて巌を 落しけり       前田普羅

うしろより 初雪ふれり 夜の町      前田普羅

奥白根 かの世の雪を かがやかす     前田普羅

秋風の 吹きくる方に 帰るなり      前田普羅

春めきて ものの果てなる 空の色     飯田蛇笏

ほど遠く 深山風きく 雪解かな      飯田蛇笏

短日の時計の午后のふり子かな       飯田蛇笏

小野の鳶 雲に上りて 春めきぬ      飯田蛇笏

山風に ながれて遠き 雲雀かな      飯田蛇笏

旧三盧訪へば 大破や 辛夷咲く      飯田蛇笏

石狩の 雨おほつぶに 水芭蕉       飯田蛇笏

木瓜嚙むや 歯の尖端に 興うごく     飯田蛇笏

鈴おとの かすかにひびく 日傘かな    飯田蛇笏

山中の 蛍を呼びて 知己となす      飯田蛇笏

かりそめに 灯籠おくや 草の中      飯田蛇笏

くろがねの 秋の風鈴 なりにけり     飯田蛇笏

農となって 郷国ひろし 柿の秋      飯田蛇笏

山寺の 扉に雲あそぶ 彼岸かな      飯田蛇笏

芋の露 連山影を 正しうす        飯田蛇笏

つぶらなる 汝が眼吸はなん 露の秋    飯田蛇笏

をりとりて はらりとおもき すすきかな  飯田蛇笏

梵妻を 恋ふ乞食あり 烏瓜        飯田蛇笏

いわし雲 大いなる瀬を さかのぼる    飯田蛇笏

秋の雪 北嶽たかく なりにけり      飯田蛇笏

山国の 虚空日わたる 冬至かな      飯田蛇笏

落葉ふんで 人道念を 全うす       飯田蛇笏

死病得て 爪うつくしき 火桶かな     飯田蛇笏

霜とけの 囁きを聞く 猟夫かな      飯田蛇笏

みつ”どりに さむきこころを 蔽ひけり   飯田蛇笏

わらんべの 溺るるばかり 初湯かな    飯田蛇笏

ある夜月に 富士大形の 寒さかな     飯田蛇笏

冬滝の きけば相つぐ こだまかな     飯田蛇笏

ふるさとの 雪に我ある 大炉かな     飯田蛇笏

極寒の ちりもとどめず 巌ふすま     飯田蛇笏

雪晴れて わが冬帽の 蒼さかな      飯田蛇笏

鍵かけて 去るや落葉の 奥の院      ひょう雨

頂上や 殊に野菊の 吹かれ居り      原石鼎

花娑婆娑と 踏むべくありぬ そばの月   原石鼎

高々と 蝶こゆる谷の 深さかな      原石鼎

盤石をぬく燈台や夏近し          原石鼎

青天や 白き五弁の 梨の花        原石鼎

諸ろ鳥の 渡り了せし 夜となりぬ     原石鼎

秋風や 模様の違う 皿二つ        原石鼎

声すれど 禽樹を出でず 雲の峰      高田蝶衣

山神を すずしむ桜 咲きにけり      高田蝶衣

ころがりて居れば日暮るる田螺かな     高田蝶衣

春風や 国の真中の 善光寺        原月舟

掘りあてし 井戸の深さや 竹の秋     長谷川零余子

赤とんぼ とまってゐるよ 竿の先     三木露風

坐りだこ 囲炉裏に痛し 稗の飯      高村光太郎
 
秋雨や みちのくに入る 足の冷      木下杢太郎

炬燵今日なき 珈琲の熱さかな       久米正雄

まだたりぬ 踊り踊りて あの世まで    尾上菊五郎

花衣 ぬぐや纏はる ひも色々       杉田久女

こだまして 山ほととぎす ほしいまゝ   杉田久女

足袋つぐや ノラともならず 教師妻    杉田久女

たんぽぽを 折ればうつろの ひびきかな  久保より江

緑陰や 矢を獲ては鳴る 白き的      竹下しつ`の女

凌ぜんの 花暮れがたく あでやかに    高橋淡路女

鴛鴦の水 古鏡のごとく 夕つ"きぬ      高橋淡路女

旅二た夜 一と夜時雨れて たのしくて   高橋淡路女

細枝に とびおもりたる 寒雀       高橋淡路女

雪柳 さらりと女盛り過ぐ         高橋淡路女

句を知りて 四十年の 春の宵       高橋淡路女

春の夜や 寝れば恋しき 観世音      川端茅舎

花杏 受胎告知の 羽音びび        川端茅舎

翡翠の影 こんこんと遡り         川端茅舎

水晶の 念珠に映る 若葉かな       川端茅舎

まひまひの 水輪に鐘の 響かな      川端茅舎

白露に 阿吽の旭 さしにけり          川端茅舎

白露に 金銀の蠅 とびにけり       川端茅舎

ぜんまいの のの字ばかりの 寂光土    川端茅舎

まひまひや 雨後の円光 とりもどし    川端茅舎

ひらひらと 月光降りぬ 貝割菜      川端茅舎

一聯の 露りんりんと 糸芒        川端茅舎

ひろびろと 露曼荼羅の 芭蕉かな     川端茅舎

露の玉 蟻たち‘たち‘と なりにけり     川端茅舎

御空より 発止と鵙や 菊日和       川端茅舎

白樺の 霧にひびける 華厳かな      川端茅舎

朴散華 即ちしれぬ 行方かな       川端茅舎

白雲の 如くに氷る きりぎしや      川端茅舎

氷る夜や 抱きしめたる 菩提心      川端茅舎

雪満ちて 華厳の煙 あたたかき      川端茅舎

かそけくも 咽喉鳴る妹よ 鳳仙花        富田木歩

和讃乞ふ 妹いとほしむ 夜短き      富田木歩

桜草 灯火に置いて 夕餉かな       富田木歩

鬼灯や いでおろぎいと 噛みつぶす    栗林一石路

神田川 祭の中を ながれけり          久保田万太郎

ぬかあめに 濡るる丁字の 香なりけり   久保田万太郎

竹馬や いろはにほへと ちりち"りに     久保田万太郎

なにがうそで なにがほんとの 寒さかな  久保田万太郎

湯豆腐や いのちのはての うすあかり   久保田万太郎

一茶忌の 句会すませて 楽屋入      中村吉右衛門

ゆきふると いひしばかりの 人しつ`か    室生犀星

子供らや 墨に手洗ふ 梅のハナ      室生犀星

鉄条に似て 蝶の舌 暑さかな         芥川龍之介

井月の 瓢は何処や 暮の秋        芥川龍之介

花はみな 四方に贈りて 菊日和      宮沢賢治

水霜を たもちて菊の 重さかな      宮沢賢治

狼星を うかがふ菊の あるじかな     宮沢賢治

ごもごみと降る 雪ぞらの暖かさ      宮沢賢治

遠岸の 真菰さやげり 船のあと      川端龍子

春潮や 渚におきし 乳母車        岸田劉生

ふるさとは お灯まつりの 寒さかな    佐藤春夫

熱き目に 紫うすき 擬宝珠かな      飯島みさ子

たんぽぽや 一天玉の如くなり       松本たかし

チチポポと 鼓打たうよ 花月夜      松本たかし 

眼にあてて 海が透くなり 桜貝      松本たかし

赤く見え 青くも見ゆる 枯木かな     松本たかし

とっぷりと 後ろ暮れゐし 焚火かな    松本たかし

夢の舞ふ 能美しや 冬籠         松本たかし

元朝や 未だつくろわぬ 妹が髪      柴田宵曲

人待てば 鏡冴ゆなり 青落葉       横光利一

いなびかり 北よりすれば 北を見る    橋本多佳子

蛍籠 昏ければ揺り 炎えたたす      橋本多佳子

おそるべき 君等の乳房 夏来る      西東三鬼

水枕 ガバリと寒い 冬がある       西東三鬼

水に入る ごとくに蚊帳を くぐりけり   三好達治

切干や いのちの限り 妻の恩       日野草城

雪融くる 苔ぞしもとぞ 山始       芝不器男

永き日の にはとり柵を 越えにけり    芝不器男

ぬばたまの 寝屋かいまみぬ 嫁が君    芝不器男

まのあたり 天降りし蝶や 桜草      芝不器男

乞食の めをとあがるや 花の山      芝不器男

白藤や ゆりやみしかば うすみどり    芝不器男

松にゐて 潮騒とほき 暮春かな        芝不器男

人入って 門のこりたる 暮春かな       芝不器男

麦車 馬におくれて 動き出つ‘        芝不器男

滝音の 息つ‘きのひまや 蝉時雨       芝不器男

まながひに 青空落つる 茅花かな     芝不器男

泳ぎ女の 葛隠るまで 羞ち‘らいぬ      芝不器男

あなたなる 夜雨の葛の あなたかな    芝不器男

一片の パセリ掃かるる 暖炉かな     芝不器男

大舷の 窓被ふある 暖炉かな       芝不器男

あち`さいの 花よりたゆく みごもりぬ   篠原鳳作

しんしんと 肺碧きまで 海の旅      篠原鳳作

満天の星に旅ゆくマストあり        篠原鳳作

幾日はも 青うなばらの 円心に      篠原鳳作

春宵の きんいろの鳥 瞳に棲める     富沢赤黄男

黄昏は 枯木が抱いてゐる竪琴       富沢赤黄男

ひろびろと 稲架の日なたの 日のにほひ  長谷川素逝

しつ‘かなるいちにちなりし 障子かな     長谷川素逝

海鼠腸が 好きで勝気で 病身で      森田愛子

木犀に とほき潮の みちにけり      石橋秀野

風花や かなしびふるき 山の形      石橋秀野

短夜を 看とり給ふも 縁かな       石橋秀野

裸子を ひとり得しのみ 礼拝す      石橋秀野

朝焼の 雲海尾根を 溢れ落つ       石橋辰之助

白日の夏炉を天にちかく焚く        石橋辰之助

繭干すや 農鳥岳に とはの雪       石橋辰之助

さやに咲く 芙蓉の朝は たふとかり    五十崎古郷

老いそめし 身の紅かねや 今朝の寒    太宰治

枯滝を見上げて着きぬ 移民船       上塚瓢骨

マラリアの 修羅ぼうぼうと 開拓地 
続平成筑波集
遠くきてみて かひありや 花盛     足利義政

しげりあふ 松や千枝の 村かしは    飯尾宗祇

松に小松 千代にいく世の 秋の陰    飯尾宗祇

またで見よ 萩は風こそ 秋のいろ    飯尾宗祇

吹きかはす 風やはま松 庭の荻     飯尾宗祇

ひかりさへ 月を玉江の 夕すずみ    飯尾宗祇

月を今朝 たもとにかくす 扇哉     飯尾宗祇

あひにあひぬ をばすて山に 秋の月   飯尾宗祇

あやめまつ 木下ぞめの露の色      飯尾宗祇

あしの葉は ましほも知らぬ紅葉哉    飯尾宗祇

吹もこぬ 風の秋しる 木の葉哉     飯尾宗祇

菊はただ 梅にしたしきにほひかな    飯尾宗祇

木がらしに 水の秋たつもみち”かな   飯尾宗祇

そめて先 心や木々の初時雨       飯尾宗祇

染やらで 松風になる 時雨哉      飯尾宗祇

冬がれを 人はなを見ん 草木哉     飯尾宗祇

木々の霜 こほるも水のひびき哉     飯尾宗祇

いかにふく嵐ぞ 雪のむらかしは     飯尾宗祇

草も木も 花の春待 都哉        飯尾宗祇

松に小松 千代にいく世の 春の色    飯尾宗祇

たくのみか この比の風に 梅の花    飯尾宗祇

色々の 花の春たつ 草木哉       飯尾宗祇

まつ人を 花にかすめよ とりのこゑ   飯尾宗祇  

花を見ば こころもまよへ 嶺の雲    飯尾宗祇

花に鳥 ほころびあへる 色音哉     飯尾宗祇

花に老をわすれ 草つむ 春野哉     飯尾宗祇

さかぬ木に 花まちいつ”る わかば哉  飯尾宗祇

花の木とみれば 千しほのわかば哉    飯尾宗祇

かげすずし 山にかさなる 軒の松    飯尾宗祇

天の原 ふじやかすみの よもの春    宗長

かぜや春 磯の花さく おきつなみ    宗長

うつすとも 鶯や 我宿の梅       宗長

沢の上の 山たちめぐる 春田かな    宗長

夏の雨 こけのまをなる岩木かな     宗長

夏や時 卯月ばかりの 宿の藤      宗長

卯の花は きよする波の かきね哉    宗長

郭公 しげる木の葉まのわたりかな    宗長

朝かしは ぬるやしののめ 郭公     宗長

五月雨は 雲のこなたの柳かな      宗長

堤ゆく 家路はしげる あし間かな    宗長

うす紅葉 松にあつたの 若葉かな    宗長

朝露に 照日をうつす あふひかな    宗長

常夏の 外はこころの 千種かな     宗長

秋冬を 常盤木のまつ さかり哉     宗長

かひがねは 雪に時雨るる 山路かな   宗長

春やとき 冬ごもらする 今朝の雪    宗長


雲なびく 遠の山本 風寒えて      じょう永

かめにさす 柳のさけや つくりばな  竹馬狂吟集

夕がほの 花はふくべの 手向かな     ”

なでしこを かたにのせたる 岩ほかな   ”

かつ散るも 風に負けたる もみち”かな   ”

西浄へ ゆかむとすれば かもなつ”き    ”

見えすくや 帷雪の まつふぐり      ”


渋柿も 甘柿もともに 役立てよ    武田信玄

薪能 松を見つつぞ 急ぎける     佐久間法師


一僕と ぼくぼく歩く 花見哉     北村季吟

雪や先 とけてみつ”のえ ねの今年   斎藤徳元

種なふて みつ”から咲や 雪の花    高島玄札

木食や 梢の穐になりにけり       菅野谷高政

さざれ蟹 足はひ上る 清水哉     松尾芭蕉
秋近き 心の寄や 四畳半       松尾芭蕉
有明も みそかに 近し 餅の音    松尾芭蕉
猿を聞く 人すて子に 秋風いかに   松尾芭蕉
びいと啼く 尻声悲し 夜の鹿     松尾芭蕉
木枯の 身は竹斎に 似たるかな    松尾芭蕉
水取の 氷の僧や 沓の音       松尾芭蕉

渡りかけて 藻の花のぞく 流れかな  野沢凡兆

小団子も 小粒になりぬ 秋の風    森川許六

明くる夜も ほのかに嬉し よめが君  榎本其角

いざや霞 諸国一衣の 売坊主      大淀三千風

歌よまず 詩作らず 自然と夜着に 雪を聞く  三井秋風

松原は 飛脚小さし 雪の暮      芳賀一晶

進み来て 春日に峰の ふとりかな    南部畔李

夢の中 古里人は 老ひもせず      前田雀朗

日本記を ひねくり廻すくせありて    夏目成美

暁や 鯨のほゆる 霜の海        加藤暁台

鶏は羽 はつねをうつの宮柱       与謝蕪村
御経に似て ゆかしさよ 古暦      与謝蕪村
一日の 春を歩いて仕舞けり       与謝蕪村
春雨に 小磯の小貝 ぬれにけり     与謝蕪村
ゆく春や むらさきさむる 筑波山    与謝蕪村
富士ひとつ 埋みのこして 若葉かな   与謝蕪村
さみだれや 美豆の小家の 寝覚めがち  与謝蕪村
涼しさや 鐘をはなるる かねの声    与謝蕪村
雨乞の 小町がはてや おとし水     与謝蕪村
拾ひ残す 田にしに月の夕かな      与謝蕪村
静さに 堪えて水澄む たにしかな    与謝蕪村
秋の灯や ゆかしき奈良の 道具市    与謝蕪村
山鳥の 枝踏かゆる 夜長かな      与謝蕪村
三椀の 雑煮かゆるや 長者ぶり     与謝蕪村
うつつなき つまみごころの 胡蝶かな  与謝蕪村
蕭条として 石に日の入 枯野哉     与謝蕪村

けふははや 一夜のむかし 春の草   きとう


河音の 時雨の亭や 屋形船      石田未得
卯の花の 落つるは風のおこりかな   高島玄札
時は今 天が下しる 五月哉      明智光秀
風冴ゆる 夜はまた春の ぬくめ鳥   牧野貞喜公
霞みても 思ひは捨てず 遠筑波    牧野貞明公
親の杖 よはりし果や 棚麻木     田中常矩
雪折れや 昔にかへる 笠の骨     田代松意
入相の 鐘聞きつけぬ 花がな     田代正友
白菊の そろふた畑や 九月尽     舎羅
亭主の夜 すこし残りて ほととぎす  高野百里
梅が香や わきてしののめ 井の煙り  深川湖十
人丸の さぞ杜宇 沖は帆に      紀文
割りすそや 八乙女神楽 男より    敬雨
花に来よと 笠叩かるる 一葉かな   大淀三千風
庭訓は 春のはじめの 試筆かな    池田正式
上を下 えいとう山の 花見かな    荒木加友
春たつと 空やゆふげの うらうらら  半井卜養
短夜は 子にそふ母の 昼寝かな    芳賀一晶
日の本や 秋津すだちの とりの年   中島貞宣
元日や 何に喩へん 朝ぼらけ     神野忠知
鴛鴦よ ひと夜わかれて 恋をしれ   大伴大江丸
梅散るや なにはの夜の 道具市    建部巣兆
一声の 其後ひさし 郭公       高野幽山
うつつなく 水を見てゐる 柳哉    斎藤如泉
海老肥て 野老痩たるも 友ならん   田中常矩
種なふて みつ`から咲や 雪の花     高島玄札
枯れ芦の 日に日に折れて 流れけり  高桑らん更
九月尽 遥かに能登の 岬かな     加藤暁台
旅寝せし 春はむかしよ 武蔵坊    岩間乙二
ゆさゆさと 桜もてくる 月夜哉    鈴木道彦
梅散るや なにはの夜の 道具市    建部巣兆
瓢箪で 鯰おさへて としくれぬ    井上士郎
わが子なら 供にはやらで 夜るの雪  とめ女
香に匂へ うに掘る岡の 梅の花      川口竹人
手のとはぬ 雲に樗の 咲く日かな   高須久子
一声を いかで忘れん ほととぎす   吉田松陰
松島や さて松島や 松島や      田原坊
もてはやし 過て踏こむ 清水かな   桜井梅室
鳥は雲に 浪はかすみに入りにけり   田川鳳朗
きのふから 坊も町屋も 新茶哉    豊嶋由誓
たちめぐる 陰は一木か 夜の花    菅沼奇淵
啼かれて みな地につくや ぎゃふぎゃふし 黒川惟草
目高浮く 最中へ落る 椿哉       素丸


我もけさ 清僧の部也 梅の花     小林一茶(1798年・長谷寺にて)
門の木も まずつつがなし 夕涼み   小林一茶
寒き夜や 我身をわれが 不寝番    小林一茶
かたつむり そろそろ登れ 富士の山  小林一茶
世直しの 竹よ小藪よ 蝉時雨     小林一茶
そよそよと 世直し風や とぶ蛍    小林一茶
夕顔や 世直し雨の さばさばと    小林一茶
世直しの 夕顔咲ぬ 花さきぬ     小林一茶
世が直る なをるとでかい 蛍かな   小林一茶
世なをる なをると虫も おどり哉   小林一茶
世直しの 大十五夜の 月見かな    小林一茶
世の中を ゆり直すらん 日の始    小林一茶
蝶行や しんらん松も 知った顔    小林一茶
蓬莱に 南無南無といふ 童哉(文化八年・1811年・守谷の西林寺にて)小林一茶

やすらひの 花よ踏れな あとなる子  加藤暁台

松の葉や 細きにも似ず 秋の声    伊藤風国

夕虹や しつくの田井に 啼蛙      亀遊

枯野哉 筑波ひとつを 沖の石      百里

筑波嶺の 花や積りて 桜魚       風虎

もつこに子を 寝せて結城の 糸車   

日の本の 日の出の本や 岩に波

立よれば 雪もながれて さくら川

雲の果か 波のはじめか 八重霞

注連結ぶ 妹背の春ぞ 常陸帯

日の添ふて 照るやつつじの 鹿島山

うぐひすの 初音に向や つくば山

明月や ひとすち雲の さくら川

春風や 枝もならさぬ 鹿島山

門松や つつく二木に つくば山

陽炎や 筑波眠れば 朧富士

いつもいつも 春の夜明や 筑波山

けしきたつ 田伏の上の 柳かな

柏木の もるる木の間や 秋の月   亭々

鐘の音や 残る雲なき 秋の暮    千秋

雁なびく 出嶋は芦の しらべかな  不老

涼しさや 真帆引かけて 帰る舟   風五

きぬきぬに 十二の橋の 時雨かな  二峰

海を出る 初日にむかふ 常陸かな

かけ稲に 月の出這入 潮来かな

冬の日の 一時はさす 木立かな

耳洗ふ はじめの夜なり ほととぎす

ふるき世の 名をよぶ塚の 時雨かな


八の字の ふんばり強し 夏の富士   葛飾北斎

ほうと啼く 鶯遠し 峰の松      詠み人知らず


雲きりや 別るる時の 潔し      三森幹雄
矢ひしぎの 音にはかへて 筆はじめ  鳥越等栽
皿鉢の ふとなまぐさし 蘭の花    橘田春湖
赤椿 維摩の珠数に まいらせむ    其角堂永機
生きのびる 心うれしや 春の膳    岡野知十
山をさく ちからも折れて 松の雪   大高源吾
汐奥を 雰も有るあり 舟の中     詠み人しらず
浦里の 人空見るや 渡り鳥      詠み人しらず
魚屋に 手柄はしくや 初ざんま    詠み人しらず
盛込みや 隅にまします 小殿原    耐雪
後ろから 前から水を 祝ひけり    両渓


百姓に 雲雀揚つて 夜明けたり     村上鬼城

川底に 蝌蚪の大国 ありにけり     村上鬼城

美しきほど哀れなり はなれ鴛鴦     村上鬼城

残雪や ごうごうと吹く 松の風     村上鬼城

雹晴れて 豁然とある 山河かな     村上鬼城

どこからか 日のさす閨や 嫁が君    村上鬼城

その人の 足あとふめば 風薫る     正岡子規

暁や 北斗を浸す 春の潮        松瀬青々

舷や 手に春潮を 弄ぶ         松瀬青々

朝夕に うす霧のぼる 葎かな      松瀬青々

相むかふ 夏山低し おしまつ”き     松瀬青々

元朝や 隣鶯 若夫婦          松根東洋城

稲妻や 白旗山の 尾上より       松根東洋城

盆浪といふ あの音や庵の夜       松根東洋城

蜩の 上は松吹く お山かな       松根東洋城

秋の海も 戸塚の芋も 見晴れけり    松根東洋城

淋しさは 網曳くあとの 秋千鳥     松根東洋城

わが庵は 裏の冬木の 落葉かな     松根東洋城

楼閣の 草の扉や 杜宇         角田竹冷

散る花に 灯して妻と 夕餉かな     渡辺水巴

水無月の 木陰に寄れば 落葉かな    渡辺水巴

昼寄席に 晒井の声 きこえけり     渡辺水巴

ひとすち”の 秋風なりし 蚊遣香     渡辺水巴

桶に咲きし 桔梗は秋や 冷奴      渡辺水巴

蓼酢つくる 妹が浴衣 着そめけり    渡辺水巴

そこら少し 片つ”きしけふ 蓮活けぬ   渡辺水巴

行燈に 妻は物縫ふ 無月かな      渡辺水巴

提灯に ほつほつ赤き 野萩かな     渡辺水巴

寂蒔と 湯婆に足を そろえけり     渡辺水巴

われよりも 妻の寒さ 寒さや ちちろ虫  渡辺水巴

うすめても 花の匂ひの 葛湯かな    渡辺水巴

大空に 羽子の白妙 とどまれり     高濱虚子

畑打つて 俳諧国を 拓くべし      高浜虚子

音たてて 春の潮の 流れけり      高濱虚子

春潮や 海老はね上る 岩の上      高濱虚子

白牡丹と いふといへども 紅ほのか   高濱虚子

からからと 初湯の桶を ならしつつ   高濱虚子

鎌倉を 驚かしたる 余寒あり      高濱虚子

道のべに 阿波の遍路の 墓あはれ    高濱虚子

春雨の 衣桁に重し 恋衣        高濱虚子

海女とても 陸こそよけれ 桃の花    高濱虚子

春風や 闘志抱きて 丘に立つ      高濱虚子

山門も伽藍も 花の雲の上        高濱虚子        

海に入りて 生れかはらう 朧月     高濱虚子

昼寝して 覚めて乾坤 新たなり     高濱虚子

日をのせて 浪たゆたへり 海苔の海   高濱虚子

夏痩もせず 重き荷を 背負ひけり    高濱虚子

虹立ちて 忽ち君の 在る如し      高濱虚子

俳諧の 大緑陰や おのつ”から      高濱虚子

虹を見て 思ひ思ひに 美しき      高濱虚子

風が吹く 仏来給ふ けはひあり     高濱虚子

ふるさとの 月の港を よぎるのみ    高濱虚子

敵といふもの 今はなし 秋の月     高濱虚子

彼一語 我一語 秋深みかも       高濱虚子

コスモスの 花あそびをる 虚空かな   高濱虚子

魂の 一と揺るぎして 秋の風      高濱虚子

秋天に われがぐんぐん ぐんぐんと   高濱虚子

一人の強者 唯出よ 秋の風       高濱虚子

深秋と いふことのあり 人も亦     高濱虚子

ほこほこと 落葉が土に なりしかな   高濱虚子 

天地の 間にほろと 時雨かな      高濱虚子

冬帝まつ” 日をなげかけて 駒ケ岳    高濱虚子

冬山路 俄かにぬくきところあり     高濱虚子

我が庭や 冬日健康 冬木健康      高濱虚子

暖かき冬日あり 甘き空気あり      高濱虚子

地球一万余回転 冬日にこにこ      高濱虚子

雪解の 俄に人の ゆききかな      高濱虚子

年を以て 巨人としたり 歩み去る    高濱虚子

傷一つ 翳一つなき 初御空       高濱虚子

おのつ”から 極楽へとる 恵方道     高濱虚子

爛々と 昼の星見え 菌生え       高濱虚子

虚子一人 銀河と共に 西へ行く     高濱虚子

忘るるが 故に健康 ほととぎす     高濱虚子(昭和32年8月4日)


秋風の 吹きくる方に 帰るなり     前田普羅

梅雨の海 静かに岩を ぬらしけり    前田普羅

雪晴れて 蒼天落つる しつ”くかな    川端茅舎

初湯出し ししむら湯気を はなちけり  飯田蛇笏

小野の鳶 雲に上りて 春めきぬ     飯田蛇笏

雪峡に 累代の墓 うるほひて      飯田蛇笏

老ゆるほど 祖母なつかしや 茄子汁   飯田蛇笏

夕月に 七月の蝶 のぼりけり      原石鼎

春の水 岸へ岸へと 夕かな       原石鼎

鳥雲に 入るおほかたは 常の景     原石鼎

夕立や 馬の腹ふく秋の風        原月舟

秋風や 謎のやうなる 古酒の壺     原月舟

リリリリリ チチリリリチチ リリリと虫  原月舟

秋風や よろこび飛べる 露の虫     原月舟

風の子の一むれ過ぎぬ 虎落笛      川端茅舎

風吹けど 風吹けど花曇りかな      川端茅舎

霧の中 清水あふれて 流れけり     川端茅舎

雪満ちて けごんの煙 あたたかき    川端茅舎

細やかに 萩の影さす 障子かな     永田青嵐

震災忌 我に古りゆく 月日かな     永田青嵐

鎌倉に 都の春を 惜しみけり      岸田劉生

春風や つくともなしに 長谷の寺    岸田劉生

初湯出て 青年母の 鏡台に       三橋鷹女

鞦韆はこぐべし 愛は奪ふべし      三橋鷹女

春暁や ひとこそ知らね 木々の雨    日野草城

けふよりの 妻と来て泊つる 宵の春   日野草城

夜半の春 なほ処女なる 妻と居ぬ    日野草城

枕辺の 春の灯は 妻が消しぬ      日野草城

をみなとは かかるものかも 春の闇   日野草城

薔薇匂ふ はじめての夜の しらみつつ  日野草城

湯あがりの 素顔したしく 春の昼    日野草城

永き日や 相触れし手は 触れしまま   日野草城

春の夜や 檸檬に触るる 鼻の先     日野草城

ものの種 にぎればいのちひしめける   日野草城

くちびるに 触れてつぶらや さくらんぼ 日野草城

薔薇匂ふ はじめての夜の しらみつつ  日野草城

湯あがりの 素顔したしく 春の昼    日野草城

高熱の鶴 青空に漂へり         日野草城

ものの種 にぎればいのち ひしめける  日野草城

うららなる 筑波を見しが 夜の雨    斎藤空華

とち”し眼の うらにも山の ねむりけり  木下夕爾

夕東風の ともしゆく燈の ひとつつ”つ  木下夕爾

家々や 菜の花いろの 燈をともし    木下夕爾

君の瞳に みつ”うみ見ゆる 五月かな   木下夕爾

遠雷や はつ”して光る 耳かざり     木下夕爾

繭の中も つめたき秋の夜あらむ     木下夕爾

枯れいそぐ ものに月かく ほそりけり  木下夕爾

藁塚や さざめきわたる 磯しぐれ    木下夕爾

枯蔓の つかみそこねし 物の距離    木下夕爾

寒林に 日も吊されてゐたりしよ     木下夕爾

わが声の 二月のこだま まぎれなく   木下夕爾




筑波百人一句

あなにやし ゑをとこを          伊弉冉命   
(あなうれしえや うましをとこにあひぬ)

あなにやし えをとめを         伊弉諾命(紀元前1世紀)
 (あなうれしえや うましをとめにあひぬ) 


新治 筑波を過ぎて いく夜かねぬる      倭建命(4世紀中葉)

日日並べて 夜には九夜 日には十日を   御火焼之翁


佐保川の 水塞き上げて 植ゑし田を       尼

刈る初稲は ひとりなるべし        大伴家持


歩行人の わたれどぬれぬ えにしあれば  斎宮

又逢坂の 関はこえなん          在原業平


さ夜ふけて いまは眠たく なりにけり  村上天皇

夢に逢うべき 人や待つらん       滋野内侍


空さえて 雪は花にや まがふらん      清少納言

咲満ちて 花より他の 色もなし     足利義政

かれがれに 誰まつ蟲の 思ひ草     善阿法師
 
月は山 風ぞしぐれに にほの海     二条関白良基公

いたずらに 花のさかりも 過ぎぬらん  良阿法師

御吉野の 夏見るまでの 遅櫻      十佛法師

真実の 花とは見えず 松の雪      伝阿法師

そことなき 汐瀬の波の ひと霞み    夢窓疎石

花にゆく 心や我を 忘るらん      救済法師

玉だれの 小瓶にさせる 花の枝     信照法師

音聞かぬ 雨知る花の 雫かな       心敬法師

雨風も 花の春をば さそひけり      宗ぜい

星の名も 一夜は立し 天の川         専順

世にふるも さらに時雨の やどり哉   飯尾宗祇

薄雪に 木の葉色こき 山路哉       肖柏

鶯は 霧にむせびて 山もなし       宗伊

花落つる 池の流れを せきとめて     里村じょう巴

行末も 今宵や幾夜 秋の月        宗長

わくやいかに 野は浅緑 花の雨      宗養

山や花 色なる花の 薄曇         昌休

光をも 天に満たる 月夜かな       生阿

水草の も中の秋は 月清し        玄幸


すずむしの 震ひごゑなる よさむかな  竹馬狂吟集

風寒し 破れ障子の 神無月         山崎宗鑑

小松生ひ なでしこ咲る いはほ哉      荒木田守武      

睦月てふ いつ`れ始めの 御ん時        松永貞徳

春立や にほんめでたき 門の松        斉藤徳元

去り来る 年の歩みや 魚千里       野々口立圃

松陰や 月は三五や 中納言        安原貞室

天地の 噺とだゆる 時雨かな       北村季吟

蝶かろし頃は 着日のひとへ哉       北村湖春

影たのめ 慈悲は上より 下り月      松江重頼

年なみの 瀬ごしはけふや あすか川       鶏冠井令徳

東より 世はをさまるき 初日かな     高瀬梅盛

児ざくら ならぶや文殊 ふげんざう    山本西武

夜のあけて 花にひらくや 浄土門     長頭丸判

春たつと 空やゆふげの うらうらら    半井卜養

うつり行く はやいかのぼり 紙幟     西山宗因

元日や されば野川の 水の音       小西来山

思ひ出て 物なつかしき 柳かな      椎本才麿

八朔や 町に行燈の 一つずつ       北条団水

木枯の 果てはありけり 海の音      池西言水


閑さや 岩にしみ入 蝉の声          松尾芭蕉

目には青葉 山ほととぎす 初がつを    山口素堂

終宵 秋風聞くや うらの山        河合曾良

雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと    田捨女

にょっぽりと 秋の空なる 富士の山    上島鬼貫

むめ一輪 一りんほどの あたたかさ    服部嵐雪

我事と 鯲のにげし 根芹哉        内藤丈草

火桶抱て をとがひ臍を かくしける      斎部露通

上行と 下くる雲や 穐の天          野沢凡兆

水鳥や むかふの岸へ つういつい       広瀬惟然

時鳥 鳴くや雲雀の 十文字        向井去来

昼寝して 手の動きやむ 団扇哉        杉山杉風

蚊をやくや 褒似が閨の 私語       榎本基角

馬はぬれ 牛は夕日の 村しぐれ         坪井杜国

この頃の 垣のゆひめや 初しぐれ        野ば

冬の日を ひそかにもれて 枇把の花         菅沼曲翆

心から 雪うつくしや 西の空       小杉一笑

菜の花の 中に城あり 郡山        森川許六

はる風に 帯ゆるみたる 寝貌かな       越智越人

妻にもと 幾人思ふ 桜狩         小川破立

春めくや 人さまざまの 伊勢参り        山本荷けい

元日や 畳のうへに 米俵         立花北枝

鶯の 鳴くやくまなき 大座敷       浪化

鼻紙の 間にしほるる すみれ哉         斯波園女


春の海 ひねもすのたり のたり哉    与謝蕪村

春寒し 泊瀬の廊下の 足のうら        炭太祇

名月や 汐満来れば さざれ蟹         大島りょう太

あらし吹 草の中より 今日の月        三浦樗良

天地を しばらくたもつ 時雨かな       高井几董

降をさへ わするる雪の しつ‘かさよ      素檗

新月や 海をはなるる 一雫         琴風

天目に 小春の雲の 動きかな         菊舎尼


我と来て 遊べや親のない雀       小林一茶


あふむけば 口いっぱいに はる日かな    夏目成美


春寒し 見おろす海の 果てしなさ     鈴木牧之

焚くほどに 風がもて来る 落ち葉かな   良寛


象潟の 雨なはらしそ 合歓の花      井上井月


元日や 一系の天子 不二の山       内藤鳴雪

柿喰えば 鐘が鳴るなり 法隆寺      正岡子規

遠山に 日の当りたる 枯野かな      高濱虚子

てのひらに 落花とまらぬ 月夜かな      渡辺水巴

春更けて 諸鳥啼くや 雲の上         前田普羅

かりがねに 乳はる酒しの 婢ありけり     飯田蛇忽

鐘ついて去る 鐘の余韻の中        尾崎放哉

金剛の 露ひとつぶや 石の上       川端茅舎

天平の 甍の上の 小春かな        美和山紫峰

美和山 紫峰 俳句集

美和山 紫峰の前世  八十村露通


白鷺の 澄みし青天 舞ひにけり  (16歳高二作・担任の国語授業にて特々選)

山道を 我と下りし やまかがし  (21歳作・NHK俳壇特選十句)

草笛や 四方八方 山ばかり    (22歳作・NHK俳壇入選句)

上は西 下は東へ 秋の雲     (23歳作)


            (2017年11月23日、俳句のメッカ開演・迄8848句成)



    協奏曲 (~現在)


    「愛の歌」

想像の 膨らんでゆく春の午后
大空を つきぬけてゆく 燕かな
暖かな 光あふれし テラスかな
月の夜も 光の午后も 花見かな
ひしひしと 夏の予感や 君の声
ドラマ見て 夏あふれ出す 今日この頃
君となら行ってみたいな 夏の海
 恋をしてシャララ あなたに夏来る
手を取って 忽ち君の 夏来る
恋をして また煌めきし 牡丹かな
夏の来て 君への想ひ クレイジー
ほとばしる 恋の想ひや 初夏の風
ときめきの 恋の予感や 夏の海
両の手に 広がってゆく 夏の空
赤々と ポピー華やぐ デートかな
あなたとの おもひでの橋 初夏の風
君つれて 麦の夕暮れ 碧き空
優しげな ピンクローズのやうな女
君が瞳の 潤ひ光る 夏の暮
夏色の 胸に焼きつく 乙女かな
夏の夜の ラストダンスは 六本木
あるがまま 君の見つめし 夏の夜
恋をして 遥かな夏を想ひけり
愛の夏 やうやう高く立つ波ぞ
夏を経て 淵となりぬる 吾が恋路
つぶらなる瞳に映るあやめかな
朗らかな あやめ娘に恋をして
浮島や 湖水を泳ぐ 乙女あり
梅雨晴れに あなたと歩く 海辺かな
アイリスのごと麗しき乙女かな
滝壺に うねりあふれし 想ひあり
夏草に 坐るふたつの着物かな
いち早く 湖に漕ぎ出す ボートかな
芝の上に そろひ浴衣や 花火影
緑陰の包むにあまる乙女かな
浄蓮の 瀧にふたりや 天城越
天城路や 瀬音滴る 恋の宿
蚊帳のなか 抱き合ひたる ふたりかな
蚊帳の奥 ふたり寝る夜ぞ 頼もしき
涼しさに ふたり佇む ベンチかな
氷つくローツェを登りゆくふたり
フローラの 涼しき風に 抱かれをり
どこまでも 恋人たちの 夏の海
口つ‘けの 恋人たちや 虹の島
溶けてゆく 南国ムード 君のなか
あいの風 夕暮れ通ふ 二人かな
逆光に 君が笑顔や 炎天下
スコールの アモーレ誘ふ 椰子の下
岩肌に 愛刻まれし 炎暑哉
鷗とぶ波と戯れゐる水着
やはらかな 素肌を波に 泳がせて
解けてゆく 南国ムード 君の中
灼熱の 恋のメロディー 鳴りにけり
黄昏の 哀愁誘ふ サンビーチ
黄昏の ヨット見てゐる 二人かな
常夏や 夜明けのキスは 渚にて
常夏や ラー迫り来る サンセット
サンセットビーチに沈む 西日かな
あかあかと 珊瑚に沈む 西日哉
満ち足りて 声にならない 夏の暮
僕たちに 教えてくてし 熱帯夜
鴨川に 座るふたつの 浴衣哉
七夕の 星の逢ふ夜と 思はずや
笹の葉に 祈りを込めし 天の川
飛行機に 幸せ乗せて 飛ぶ秋ぞ
心から 実りの秋と なりにけり
鶺鴒の いと睦み合ふ 朝かな
恋人と 我が名呼ばれん 秋時雨
見つ合ひ 信じ合ひたる 炬燵哉 
 
    「四季の歌」
 
天平の甍の上の小春かな (代表句)

初富士や雲を貫き聳え立つ
わくわくと捲る月日や初暦
年明けて センター試験 瞬く間
麗しき 春の二峰 ありにけり
西の富士 東の筑波 春来る
法華経と啼く鶯や身延山
阿耨多羅三藐三菩提の花
春の来て 空の明るくなりにけり
春の来て 期待に胸を膨らませ
一様の春となりぬる朝かな
梅咲きて 瀬音ゆかしくありにけり
麗しき 春の双峰ありにけり
白梅のふところ深く紅ほのか
とこしへに 読まれし文や 漱石忌
飛鳥より遠く建国記念の日
東征の 神武の春も思はれし
雄大な 阿蘇の野焼きや 命の芽
耕して 休む祖父母や 野辺の道
種物に 祈る祖父母や 筑波山
ものの芽に 人間小さきものと知り
もの芽に 希望の光 差しにけり
春の野を 華やぎ駈ける 子供たち
若鮎の ふたてに別れゆく朝
凄まじき 雉の叫びや 奥の山
風ふれて いとあどけなき 仔猫哉
琴の音に 誘ひ込まれし 日永哉
発句はや 十七年の 春の山
神々は 霞の中や 筑波山
東雲の まうへ聳えし 春の富士
椿より 開眼したる 発句哉
まなかひの まうへ山ある 蛙哉
武蔵野を 朧にしたる 煙霧哉
鎌倉に 法のともしび 灌仏会
木瓜を見て 何をぼけっとしてるのよ
登り来て ほっと一息つく長閑
はつらつと 凧追ひかけし 童かな
挨拶は 俳諧の花 春深し
長閑なる 鐘の余韻や 寒山寺
暖かな 西方浄土ありにけり
暖かき 軒端のまへの 日の光
暖かな モンマルトルの 日暮哉
ブータンに 幸せの花 咲きにけり
裏庭や ほのぼの匂ふ 雪柳
やはらかに 散りし柳の 一葉舟
寄り添ひぬ しをりの藤や 四畳半
東征の 大和櫻や 春の風 
花満ちて めくるめく夜の 宴かな
みよし野の 花の便りに 酔ひにけり
みよし野の 庵の中に 花狂ひ
みよし野に みほとけの花 咲きにけり
思ひやりの 満ち溢れたる 桜哉
花の気を吸つて 色即是空かな
染まりゆく 吉野千本櫻かな
朗らかに 人を癒して 花は葉に
一堂を 取り囲むかに 蝶あふれ
ぶらんこで 空に飛び込む子供たち
ひらひらと 風に吹かれし スイートピー
夢路より 遠く八十八夜かな
凄まじき 上昇気流 夏来る
上空は スーパーセルや 旋風
心臓も 踊り出したる 立夏かな
古都発ちて 木々のざわめく 立夏かな
祖母の手の 絵筆うち振る 立夏かな
夏来る つつじヶ丘の 向かう山
侘び寂びは 日本のものや 棕櫚の花
一筋に 夏の伸び行く フィジーかな
やはらかな 風に吹かれし 夏の海
青々と 南アルプス ころもがへ
草笛や 四方八方 山ばかり(22歳NHK俳壇入選)
学生に 阿吽の空や 初夏の風
さざなみに 酔いしれ歩く 夏の暮
ほほゑみに 満ち溢れたる 牡丹かな
おほどかに 笑ふ牡丹や 当麻寺
白牡丹 寄り添ひながら 咲きにけり
太陽へ 見ひらかれたる 牡丹かな
薔薇ながら 牡丹のごとく 開きけり
潤って かすかに靡く 鉄線花
しんしんと歌ふ 卯の花腐しかな
しんしんと 色変わり行く 柿若葉
ひらひらと 若葉を揺らし 躍らせり
にょろにょろと 上りゆくゆくなり 夏の鯉
夏の猫 盥に頭 つっこむや
蟻の目に とつて草木も宇宙なり
さまざまの ジューンブライドありにけり
高みより 轟き落つる 那智の瀧
遠海に 日の当りたる 夏野かな
奥入瀬の瀧 轟轟と流れけり
イグアスの滝に驚く童哉
新緑の通り過ぎたる羅臼哉
幸せのブータンを舞ふ 揚羽哉
神鳴りに 人間小さきものと知り
万緑を 轟き渡る 木霊哉
晴明の故郷に茅の輪くぐりあり
雷の 轟き渡る 筑波山
雨だれて まことゆかしき 杜若
うなだれて 雨傘のやう 花菖蒲
朝咲き 夕べに散って 沙羅の花
白南風に 喜び躍る ダリアかな
渓谷を はたりと返る 岩魚かな
溌剌と 虹の立ちたる 襟裳崎
浜茄子や 潮の音とほき 金華山
安らかに 釈迦入滅や 蓮の上
青空に 吸い込まれさう 夏の海
青々と マングローブや 炎天下
赤々と ハイビスカスも ほほゑむや
たましひの 大回転の 虹の島
夏潮の 随に沈む 西日哉
夕月に 阿吽の西日 伸びにけり
アイガーも 谷川岳も 涼しさう
夏山を 掴む両手に 命懸け
夏休み 泣いて笑って 生き生きと
編笠の 恥ち”らひながら 風の盆
笠ふせて いと奥ゆかし 風の盆
指先に 高き気品や 風の盆
山の端を そろりそりと けふの月
柿一つ 貰ってうれし つくば山
侘び寂びの 中の真っ赤や 烏瓜
満月の 如くに母の 笑顔あり
名月や 雲もそなたに 吹き晴れて
コスモスの 華やぎ笑ふ 路傍哉
道へだて 咲くコスモスや 通学路
月夜野の 虫囀りぬ 旅寝哉
爽やかな 道を辿りて 真理へと
手をつなぐ 兄いもうとや 林檎狩
陸奥は 九万九千九衆の 紅葉狩
篳篥の 澄み渡る空 冬に入る
木枯の 吹きのこしてや 法隆寺
初空に 聖なる光 ありにけり
神々の 力あふれし 破魔矢かな
懐かしき友や 歌留多のうらおもて
妙高を 覆ひつくすや 春の雪
経蔵に入って 智慧海のごとく春
穏やかに 春の光の そそぐ日々
清水の如き舞台や 春の峰
法華経と 啼く鶯や 身延山
大空を つきぬけてゆく 燕かな
城跡に 春の嵐の 啼きやまじ
天地へ 流るる花や 吉野山
暖かな サンジェルマンの カフェテラス
一面に 敷きつめられし 桜哉
花散って 夢まぼろしの ごとくなり
をりをりに 潮の香りや 菜種梅雨
悠然と 中空ゆくや 鬼やんま
大らかな つくばの上の 鬼やんま
楽しげに 天体廻る 夜長哉
清らかな 月の雫で ありにけり
魂の たとへば月の光かな
名月に たましひ清められにけり
愁思して いざやふ月の光かな
侘びに寂び まことゆかしき 庵の月
水墨の 月に漂ふ 詩情哉
雁啼きて 澄みし御空へ 上りけり
峰寺を 包みし竹の 秋深し
ひと雫 こぼれ落ちたる 露の玉
京凌ぐ 西光院や 竹の秋
行春や モンマルトルの丘の上
凄まじき 上昇気流 夏来る
しんしんと 卯の花腐し 始りぬ
走り来て ほっと一息つく卯波
日を浴びて 泳いでゐるや 鯉のぼり
侘び寂びは 日本のものや 棕櫚の花
眼前の 明るくなりぬ 栗の花
ときめきて 初夏の光を 浴びにけり
両の手に 広がってゆく 初夏の空
百姓が 発句するとき 青田風 
凄まじき 上昇気流 夏来る
みつ`うみに 家族の群や 初夏の午後
ほほゑみに 満ち溢れたる 牡丹かな
卯の花に 金環の影 落ちにけり
山路来て つく一息や ほととぎす
閑かさや 寺にしみ入る ほととぎす
凛として この一輪や しゃがの花
一面を 明るくしたる しゃがの花
六月を 轟きわたる木霊かな
かたつむり 雨のまにまに 歩きけり
遠海に 日の当りたる 夏野かな
雷鳥や 室堂高く 遊ぶ雲
円虹を 通り抜けたる ハーモニー
田舎より てんたうむしの 着いて来し
みちのくの 宵を楽しむ 団扇かな
潮騒の 奏でしままに 泳ぎけり
熱帯の 瑞々しさの 女神かな
舞ひ降りて 炎ゆる自然の 女神かな
火の神の 燃え尽きたるや 熱帯夜
マリアナの 海に眠るや夏の恋
智慧の目のブッダや 汗のカトマンズ
蚊帳の子を 包む夫婦や 筑波山
おのつ`から 輝き放つ 蓮華かな
白川に 祭の宵も 更けゆくや
千年の 都の夏も 更けゆくや
おのつ‘から 輝き放つ 蓮華かな
富士山の 彼方美はし 天の川
下京の秋 行燈の影深し
パリの秋 ロートレックの 香りあり
万葉の頃は 今より秋めきて
哀愁を呼ぶ 蜩とたわむれて
人偲ぶ 祈りの歌や 原爆忌
二十一世紀最大詩人秋
ひぐらしや 先祖は奈良の大歌人
花笠の みめ麗しき踊りかな
ひらきたる 後の余韻の 花火哉
ぴーひゃらと まつりつくばの 賑やかさ
あさがほに 祖母の笑顔に 見おくられ
きらきらと 窓一面の 星月夜
百三十七億万の 星月夜
蓮華蔵世界の中や 星月夜
天堂へ 導かれたる 星月夜
きらきらと 窓一面の 星月夜
七夕を 通り過ぎたる ハーモニー
麗しき 水の都や 阿波踊り
あさがほに 祖母の笑顔に 見送られ
あをあをと ゆれうごきたる へちまかな
これよりは 月の雫に 酔ひしれむ
清らかな 月の雫に 酔ひしれむ
月に吠え 海のあなたに 駆けぬける
月の夜の まこと親しうなりにけり
月と日に 阿吽の呼吸 ありにけり
飛鳥路を 今宵も月の 照らさうぞ
まったりと 古代の月を 歩きけり
満月の ごとくに母の 笑顔あり
土浦の花火の頃や 素十の忌
菊たちも をのをのにして 生るるかな
爽やかな 揺るぎなきもの 流れけり
爽やかな 精進料理 いただきます
山に出で からりと晴れし 紅葉狩
緋のごとく 燃ゆる錦や 谷紅葉
曼荼羅の 宇宙の中や 秋の風
せせらぎに はらりと落つる 紅葉かな
ちらほらと 瀬にもたゆらに 浮く紅葉
夕紅葉 ひらりはらりと 落ちにけり
暮れなつ`む  奥の山河や 雉の声
ふる里は 煙の中や そぞろ寒
小春日の筑波 むらさき濃く暮れし
みつ‘うみに 包まれてゐる 小春かな
世にふるも 更に讃岐の 時雨かな
枯れ散つて 栗の木白し 冬の郷   
一瞬の 冬日さしたる 鞍馬寺
祖母が愛 一身に受け 一茶の忌
きくとして 過ぎし生涯 一茶の忌
一茶忌や 信濃の雪も あと僅か
凍てつくも 尚煌めきし 星ひとつ
降る雪に 五十塔も 舞ひにけり
はらはらと 雪うつくしき朝哉
祖母逝きて こんなに白く 雪化粧
やすらかな 名残の雪で ありにけり
龍太忌の 其の跡を継ぐ 私哉
  
   『三陸』
遠近に うぐひす歌ふ 御崎哉
松原に すみれ満ちたる 散歩哉
巨釜に 木洩れ日落ちて 長閑なる
磯松に 蟻弾かるる 朝かな
三陸の 夏潮遠し 崖の上
紺碧の 涼しき海や 金華山
七月の 澄む暇なき 波間かな
巨釜を 涼しくさせよ 大理石
浜菊の 晴れ渡りたる 御崎哉
七月の 波の随に 朝日哉
松風や ほのぼの白む 今朝の秋
島々に 砕けてゆくや 秋の浪
道ゆけば 薄ばかりや 道の奥
爽やかに 湧き来し浪や 姉ケ崎

    「地震」
釜石の 大観音と 泣く雲雀
余震なほ 彼岸過ぎまで 残りけり
赤松の ひとつぽつんと 浜の夏
はまなすの 海にひとりの 男あり
みどりごの 母はと聞けば 秋の風
松原の あの子は何処に 浜の秋
被災地を 癒してゐるや 赤とんぼ
朗らかな 千里の海に 夏来る
はまなすの 日向に顔を 向けにけり
はまなすの 精一杯に 笑ひけり
はまなすや 人に寄り添ひ 温かく
ふるさとの 潮の遠音や 夏休

 喜びに 哀しみに添ひ 除夜の鐘
除夜の鐘 まこと三千世界あり
年あけて また新星の 生るる夜
年あけて あまねく照らす 仏あり
やわらかな まどろみの中 年来る
新春の 母なる峰や 筑波山
富士山の 息吹聞こえし 千代の春
初富士や 雪のいただき 雲を出つ`
 年あけて 朝な夕なと 富士眺め
夕焼けの 地平の彼方 雪の富士
青空に 光り輝く 雪の蔵王
年あけて 三十億の 笑顔かな
年あけて 皆兄弟の 新世界
初筑波 祖母のやうなる たたずまひ
連歌成る 郷里は雪と なりにけり
降りしきる 雪に情の ありにけり
初筑波 天上高く 昇りけり
山越えて 幾人ゆくや 細雪
年あけて センター試験 瞬く間
ひとときの 安らぎほしき 真冬かな
宗派なく 真実ほしき 真冬かな
大雪の 浄化の神や 筑波山
雪といふ 白き天使の 舞ひ降りし
東雲に 筑波隠れし 千代の春
しんしんと 雪降る夜を 旅の人
寒雀 ぶるぶる水を 弾きけり
頼もしき 四駆で走る 雪の道
凍てつくも なほ煌きし 星ひとつ
大空に 春待気流 ありにけり
行く春や モンマルトルの 丘の上
夏の日の 沈む愁ひは 酔ふがごと
爽やかな 発心の道 ありにけり
西国に 別れ告げたる 霜の夜
美和山 紫峰 詩集
          「和歌」

すめらぎの 民に寄り添ひ 日の本の 永きいしずゑ 築きあげにし
東征の 遠き昔の 酒折の 宮の跡にぞ そよぐ風かも
神奈備の 御諸の山に 腰掛けて 奈良の都を 遠く偲ばむ
淑気満つる 二月堂より 見はるかす 奈良の都の 神に守られ
大美和の 丘に登りて 眺むれば いにしゑよりの 大和三山
高みより 見下ろしゆけば いつ`こまで つつ`く水面や みほとけの中
箸墓の 水を湛えつ 遥かなる 遠き時代に 思ひ巡らし
麗かな 御芝の上に 寝ころびて 城を染めにし 松の緑を
家康の 古きいしずゑ 後にしつ 緑あふれし 故郷に向かふ
たつ`ぬれば 畑も田圃も なかりけり 雉鳴く山の 秋の夕暮
健やかな 足の三里に灸を吸え 松尾桃青 遠く旅ゆく
とり急ぎ 己が任務に 明け暮れて 春を忘れし 人もありけり
親鸞を 仰ぐ法難 大覚寺 其の志 泪ぐましも
今生を 振り向き見れば なんとなく われ平成の啄木と思ふ


   「唐遠望」

大河遥かに流る 巫峡の朝
幽明遥けく隔つ 剣門の関
瀑布遥かに落つる 廬山の裾
彼の黄山までの万里の航
峨眉山に入日沈むを見れば遥かに落つるや異郷の瀑布
杜甫を思へども遠く
いにしゑ偲ぶ蜩の声
彼の鳳凰の夢 知るや君
    
    「愛の俳歌」

抱き合ふ 恋人たちの 宇宙かな
巡り会ひ たましひ震へ 奉る
君ゐれば すべて明るく 微笑むよ
此の旅の 一言主の告げし恋
みつ‘うみに ムーランルージュ 滲みけり
恋をして 我うつくしくなりにけり
目を閉ち‘て ふと浮かみをる 瞳かな
こんなにも 気品あふるる 乙女あり
傷つきしふたり近寄り しのぶ川
真夜中に 手をふる君の いじらしさ
止めること 誰にも出来じ 親和力 
君のゐて 元気となりし 心哉
だんだんに 光り輝く 山羊座かな
抱きあふ 恋人たちの 宇宙かな
筑波山 こんなに晴れて 嬉しいね
嬉しくて 泪泪の 日曜日
雨音の間に間に はしゃぐ二人かな
君抱きて ひと夜更けゆく 小樽かな
情念の おもむくままに 抱き合ひぬ
愛を知り ダンテのごとく 昇りけり
喜びの シラーのごとく 溢れけり
龍のごと 昇る今年と なりにけり
人生の 晴れっぱなしと なりにけり
僕たちの 驚くような 未来かな



    「俳歌」

巫女纏ふ 朱に日本の 美しさ
かたくなな 心を開き ゆきにけり
適職に 精一杯を 尽くしけり
一瞬に 流れ去りゆく 人たちよ
厩戸に 明日の香りし 飛鳥哉
蕭条と 鐘が鳴るなり 寒山寺
能を見て 夢まぼろしの 如くなり
大地震や 人間小さきものと知り
生きていること ありがたく ありがたく
どの道も わが道なりと 思ひけり
陽の気を 吸って 色即是空哉
オリオンの 下に夢見る 子供たち
ウクレレや 太平洋は 一つなり
梅花藻や 水の流れに 透きにけり
きらきらと イルミネーション 回りけり
人生の 処々に ゲーテあり
親鸞の 尊き慈悲や 大覚寺
法則の 真っ只中に ゐる私
ふる里を 離れずにいて よかったね
正に是 カルマ刈り取り なりしかな
ともかくも 己が波長を 省みる
今あるは 星野椿の 選あって
文芸の 奈良の遺伝子 ありがたし
家持や 鰻を喰うて 精をつけ
御先祖に 天才歌人 ありにけり
人生の あっといふ間に 過ぎにけり
赤ちゃんの 頃の自分に もどりけり
ひしひしと 六畳ひと間 有難き
英雄に 連歌授くや 筑波山
いつの世も 天才たちは 恵まれず
ラ・トゥールの 忘れ去られて 二百年
余が発句 夢二のごとく 駈け抜ける
年寄れば 去りゆきし人 ただ近し


 「一行詩」

がりがり手をむしる
九歳まではあいうえお
十歳にして恋を知る
さらさらと星が流れてゐます

 
      「自然破壊」

一分間にドーム10倍の森が消えてゐる泥炭湿地林
先進国の紙消費が削ってゆく
森は無償の愛で酸素を与えてくれているのに
先進国や新興国のシュレッダーの紙まで徹底リサイクル
気温が上がります
地球全体が紙リサイクルシステムを作って世界リサイクル法を作って協定・条約締結
350万tのCO²が立ちはだかる宇宙に戻れない紫外線
紫外線による地球温暖化
温暖化で100人を奪った西日本台風
最大のレイテスーパー台風 
関東・東北豪雨 
五十人も奪われた九州豪雨
スーパーサイクロンハリケーン
海面上がって沈みゆく芸術のベネチア
水温上がって消えゆく魅惑の珊瑚礁
気温上がって熱中症
中国よ CO²を削減せよ
インドよ PⅯ2.5を削減せよ
 
  
    「親和力」

海は安らかに湛え
波は生き生きと飛び跳ね
何もかもが溶け合ってゐる
一つだ
幸福なる親和力よ
そなたの力でいかに多くの結婚が早められたことよ

 
    「歓喜の歌」

遠い遠い昔、赤い帽子の家に王子様とお姫様が住んでおりました。
また新しい風が吹いてきます
緑の風が吹いてきます
世界が幸福に満ち溢れてゆきます
氷が解け始めます
太陽が戻ってきます
大地が輝いています
空が澄みきっています
白樺たちが微笑んでいます
鶯たちが朗らかに歌っています
白い魂が緑の丘を越えて地平線の果てまで飛んでゆきます
両手いっぱいに青い海が広がっています
太陽の波が生き生きとうねりを上げています
花たちも言葉を話して木々たちも歌い始めます
五感から愛が溢れてきます
なんと自然の燃え滾ってゐることよ
緑なす輝きの大地よ
初夏の光よ
せせらぎよ
生まれいつ”る喜びよ
きらきらと瞬いている星たちよ
あなたはいいしれない幸福の泉です
命の再生よ
生まれ変わりよ
また水鳥たちのさへつ`りが聞こえてきます
あなたの住んでいる街があなたの優しさに包まれてゆきます
世界が愛に満たされてゆきます
愛がふたりの朝を満たしています
魂の奥深くにあなたが住んでいます
あなたの微笑みが近つ`いてくると時間が永遠に止まる最大の幸福に包まれるのです
地球を去ったあともそなたの幸いを永遠に願い続けるのです
ふたりは手を取り合ってどこまでも広がる果てしない大空と太陽の光の中で永遠の愛を誓い合うのです
ふたりは天国で永遠に生き続けます
 
     「フランス」

ブローニュの森に入りて乙女らと戯れるゴーギャンに逢ふ
ムーランルージュにゐる胸躍るロートレック
モンマルトルのカフェテラスにモネたちの語らひ
宵のエッフェル塔を酔ひどれ歩く詩人
宝石をちりばめたやうな夜景

    
  「情熱の国」

麗しきモンペリエよ
レモンとオレンジの生る麗しき国よ
やさしき乙女よ
オリーブの実の生る国よ
慈しみに満ちた乙女よ
そなたは太陽の力で尊い情熱と思いやりを育んだのです


    「沖縄」

空が澄んでいる喜び
鮮やかに踊る熱帯魚たちの歓迎
無限の色を海の中で燃やす珊瑚礁
魚たちを追いかけてこのまま永遠でいい
南の島は時間が止まってゐる
都会は一瞬に流れ去る

 
    「都会」

星たちが青白く燃えている下の永遠に誰もいない近代ビルたち
遠くが見えないコンククリートの風景
途切れない騒音の車
不機嫌
誤りも正しいと信じ込んでいるエゴイスト 
洗脳の あと堕天使や 神無月 
人の価値に有名無名なし 
文明、なんという退屈

  
 「橋場の天使へ」

君は僕を理解してくれた
君と僕はソウルメイト
君の瞳に本当の僕が写っている
君のおかげで生きる力が湧いたんだ
幸福とは分かち合える魂と結ばれること



   「戦争」 (俳体詩)

日清に 愚かな政治 始まりぬ

戦争に真実は存在しない

自民党 第九条を 破りけり

戦争の正体は軍人と理系が手を組んだ欲と思い込み

悪政や 霞が関と自民党

戦争は大量殺戮以外の何物でなし
報復は愚かな魔性の仕業
戦争に正義など存在しない
廃仏毀釈・文化大革命も真実にあらず
真実は慈悲の心
真実は真心
真実は人を愛すること
ロヒンギャ差別は、自分の宗教しか認めない小さな心
今も天上高く存在している釈迦本人・キリスト本人は絶対戦争など絶対しない
五年の戦争とスラム文化が生んだ現代日本人
万葉集こそ真の日本人

永久に 戦争せずと 決めにけり

地球上のすべての本物の宗教はすべて同じ愛の光に帰結する

 
「ある境地」

 静かだ
 静かだ 
雨が降ってゐる
秋霖がささやいてゐる
月がさらさらと歌ってゐる
 静かだ
 静かだ

    
   「宇宙」

どうして天体は球体なの
円は魂の理想
芸術は魂の形
太陽が僕らを照らしてゐる

  
 「涙」

僕は泣くぞ
これからもどんどん泣くぞ

   
  「恋」

遠き湖より我たちて
筑波の山を見上げれば愛しき女のありにけり
愛高らかに歌ひ
高貴なる淑女にまみえし吾、限りなき喜び
君想ふとき 我が胸明るくなれり
われ永久に君を愛す


  「土浦」

懐かしき土浦よ
思い出の土浦よ
母なる土浦よ
母なる霞ヶ浦よ
母なる大地よ
母なる大空よ


          「愛の和歌」

街路樹の 色つ`き染めし 故郷の 恋の想ひも 風に乗るかな
いにしゑの 筑波の道を ゆく私 待つ花影に ゆかしき乙女
いにしゑの 歌がゐの宵も 思われて筑波嶺深く 山桜かな
神奈備の 三室の山の 紅葉葉に 愛しき君を 重ね偲ばむ
大神の 御助けのある 日々もありな 狂ふばかりの恋ごころこそ
白梅の 甘き匂ひの 立ち込めて 君を思はん 我が心かな

     
   「川柳」

愚かなる富国強兵ありにけり
戦後まで北朝鮮と同レベル
九条を破っちゃったよ 自民党
九条を強引に曲げ 自民党
戦争に向かってゆくや自民党
憲法に戦争放棄ありにけり
日本国憲法破り 自民党
戦争の 悲惨も知らず 自民党
戦争は お馬鹿さんよね 自民党
自民党 選んでしまった 国民よ 
悪政の はびこるところ 自民党
アメリカにペコペコしたる阿部総理
協力は 九条違反 自民党
朝鮮を威嚇したるは 違反なり
アメリカと威嚇したるは 違反なり
九条を また破ったよ 自民党
アメリカよ 日本のことも 考えよ
ガンジーは 攻撃せずに 勝ちにけり
ガンジーは 無抵抗にて 勝ちにけり
釈迦ならば 戦わずとも 勝ちますよ
零戦や 四十年の 夏愚か
愚かなる 零戦の夢 砕け散る
純真も 過ち信じ 愚かなる
永久に 戦争せずと 決めにけり


「日本国憲法」

戦争放棄
永遠に戦争しない


  『童謡』

 「なわとび」

なわとび なわとび 
ぴょんぴょんぴょん
なわとび なわとび
ぴょんぴょんぴょん
ぴょんぴょんぴょんぴょん ぴょんぴょんぴょん
なわとび なわとび たのしいね
ぴょんぴょんぴょんぴょん ぴょんぴょんぴょん
ぴょんぴょんぴょんぴょん ぴょんぴょんぴょん


 「赤ちゃん」

赤ちゃん 泣く泣く
ねむたいヨ ねむたいヨ
赤ちゃん 泣く泣く
ねむたいヨ ねむたいヨ

赤ちゃん 泣く泣く
ねむたいね ねむたいね
かあさんのお胸にねんねしな


 「おいも」

おいも おいも
ふかしたおいも 温かい
おいも おいも
ふかしたおいも やわらかい
おいも おいも
ふかしたおいも おいしいね


      「マイクの歌」

マイマイマイマイ マイクの舞
マイマイマイマイ マイクの舞

   (繰り返し)


 「ピノキオ」

コキン コキン
女王様のゆく先に
コキン コキン
ピノキオたちが待っている

 (繰り返し)


 「お猿の音頭」

山からお猿が飛び出して
ズンドコドッコイショ
ズンドコドッコイショ

山からお猿が飛び出して
ズンドコヨッコラショ
ズンドコヨッコラショ


  「座右の銘」

気にしない 気にしない

 お気楽 お気楽

 放念  放念

いにしへの道(2010/3/21)

筑波山の梅祭りに行きました。
斜面を鮮やかに染め上げており、甘い香りが漂っていました。世界三大花香は、梅・藤・百合です。
今は、桜が日本の国花ですが、奈良時代までは‘花といえば梅‘で、万葉集にも数多く詠われています。さらに、梅の匂いや幹・枝の芸術性は、桜の比ではありません。万葉集の中で最も詠まれている日本百名山は筑波山で、富士山の二倍以上の二十五首詠まれ、小倉百人一首の十三番目にも登場します。
筑波山が紫峰と呼ばれる所以は、服部嵐雪の

まつ‘むらさきの筑波かな の発句からです。 

筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる  陽成院   
          
常陸国風土記は、石岡市の国府もしくはつくば市の平沢官が遺跡で記されたと思われます。金田官が遺跡は、8~9世紀の河内郡の役所でした。坂東市の沓掛のけやきとつくば市栗原の鹿島神社のけやきが茨城を代表するけやきであります。日本一の梅の名所は、水戸にある日本三名園の一つ‘偕楽園‘であります。水戸といえば、近代日本画の大御所である横山大観が生まれた地であります。さらに、十年連続日本一美しい庭園に選ばれた島根の足立美術館は、水戸出身の横山大観の最高傑作‘紅葉‘を所有し、別名大観美術館といわれています。大観の画は‘春の如く夏の如く、盟友の菱田春草の画は‘秋の如く冬の如しであります。笠間出身の木村武山や下村観山らと、岡倉天心の元、北茨城の五浦の地で修行したのです。北茨城には、北原白秋と並んで日本二大童謡巨星と呼ばれている野口雨情も誕生しました。三木露風の‘赤蜻蛉‘と共に日本人の心を慰めてきた‘七つの子‘を作曲した人です。他に、シャボン玉や青い目のお人形・赤い靴・証誠時の狸囃子・うさぎのダンス・十五夜お月さんなどを作詩しました。
世界地図に唯一日本人の名を遺す間宮林蔵はつくばみらい市に生まれ、北海道の地図を作り、樺太が島であることを突き止めました。間宮林蔵の像が建つ稚内から枕崎まで鉄道3626キロの旅です。
高島易断の祖・高島嘉右衛門は、かすみがうら市牛渡の出身です。牛渡は、縄文時代の勾玉が出土しています。嘉右衛門は、横浜に日本初のガス灯を建て、明治天皇から文書を賜りました。
茨城県は、5年連続最下位となりましたが、日本一偏差値の高い公立中学校は、つくば市の竹園東中ですし、ここ数十年の統計で、日本一の東大進学者を輩出し、日本トップクラスの高校教師であふれている公立校は土浦一校で、15年前まで事故日本一を争っていた北海道や京都にすべての魅力において負けていないのである。
足利義政によって礎を築かれた日本の‘侘び寂び‘が、フランスを初め世界中で注目されている現代ですが、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる日本詩上最大のレジェンド・松尾芭蕉が晩年に到達した‘軽み‘の境地をもっとも良く表現しているの発句が、

むめが香に のっと日の出る山路かな  芭蕉

という御来光の句です。梅の甘い香りに誘われて、お日さまが山からのっと顔を出したと歌っています。芭蕉は、一人の庶民として平俗的な日常生活をさらりと詠みました。
芭蕉の前世は宗祇であり、曾良の前世は宗長である。
美濃の荷けいや凡兆などは、芭蕉の真意も分からずして芭蕉を非難しましたが、三百年以上の長きに渡って大衆から賛美され支持され愛され続けてきた芭蕉の名句は、誰が何と言おうと王道なのであります。松尾芭蕉を越えるには、人格・紀行文・連句・発句の全ての於いて越えなければならず、現代までの草創たる俳句の精鋭たちが越えられなかったことを思えば、芭蕉に並ぶのは到底不可能であります。さらに、蕉風俳諧は、侘び・寂び・細み・しおり・かろみであり、繊細な男性にしかその真理を解することは出来ません。史聖・徳川光圀と俳聖・松尾芭蕉は、同時代を生き、誇り高い日本人です。現代日本の俳人は、俳聖・松尾芭蕉を目指しつつ、二番手・三番手の与謝蕪村・小林一茶、4番手以降の飯田蛇笏・前田普羅と格調の高さに於いて並ぶよう努力せねばなりません。発句における中道(正道)は、松尾芭蕉であり、凡兆から子規以下へと続いている写生や秋桜子・誓子以下の新興俳句は極端であります。いずれも元禄が育んでいた切れ字を駆使した格調の高さを見習うべきです。俳句は韻文であり、文語を基調とした五・七・五の調べが最も大切であります。明治以降では、‘調べ‘を忘れずに‘切れ字‘を重んじ、元禄に匹敵する格調を維持し続けたのは飯田蛇笏のみであります。また、俳諧の発句は四季の豊かな日本の自然が育んだ‘季吟‘の文芸でもあります。さらに、俳諧の連句は‘松尾芭蕉が骨髄‘であります。発句の方も平成の今日まで芭蕉を越えた俳人は一人も出現しておらず、芭蕉は正に‘空前絶後の俳聖‘であります。中国の詩聖杜甫のような存在です。
琳派のごとき連綿と続く数奇の系譜は、能因・西行・宗祇・芭蕉・井月・放哉であります。
詩聖・杜甫が詩における、能因・西行が和歌における、宗祇が連歌における疎石が庭における、俳聖・芭蕉が俳諧における、茶聖・珠光が茶における、陶聖・波山が陶芸における、その貫道するもの一なり。幽玄は、新古今和歌集・連歌より芭蕉まで続いた日本の伝統文化である。
蕪村の

愁ひつつ 岡にのぼれば 花茨   蕪村

の発句とゲーテの野ばらは共通のポエジーです。正に、シラー・ゲーテの前に蕪村ありです。
常陸三大偉人は、徳川光圀・雪村周継・野口雨情である。雪舟と並ぶ水墨画の二大巨匠・雪村周継(常陸大宮市出身)の雪村イズムは、狩野芳崖・橋本雅邦によって継承されました。歌川国芳は、スカイツリーを予見・予画しており、宇佐美大奇は、霞ヶ浦真景図で、筑波山系の宝篋山が削られるのを予見・予画しています。
マッセも韓国語で、迎えようという意味です。平昌オリンピックが楽しみです。祭りのワッショイのかけごえは、韓国語です。近江八幡の日牟禮八幡宮の祭りのかけごえの
松尾芭蕉と浮世絵の祖・菱川師宣は同時代を生きました。尾形光琳が他界した1716年に、池大雅と並ぶ日本南画二大巨匠・与謝蕪村とスーラより早く点描に達した伊藤若冲が誕生しました。錦絵の創始者・鈴木春信も同時代を生きました。1875年、近代美人画の巨匠・上村松園が誕生。1835年の俳諧集・麻かり集から土浦で俳諧が盛んだったことが分かります。1853年の四友集では、土浦の内田野帆が筆頭です。下館の波山・農夫雄やアールヌーボーのミュッシャは、故郷をこよなく愛しました。下館には、武田信玄公の子孫であられ、富安風生の愛弟子である水戸市加倉井町の加倉井秋を・高浜虚子の俳句の後継者である藤代町の高野素十と並び、常陸三大俳人の原裕(原石鼎の後継者)がおります。正に、芸術家の町です。下館市中舘は、伊達政宗公の先祖の地です。文学の源流は、詩であるます。西洋文学の源流は、2700年前のホメーロスの叙事詩で、日本文学の源流は、キリストと同時代を生きた建速須佐之男命が発明した和歌であります。歌聖(うたのひじり)が柿本人麻呂なら、歌仙は山部赤人であります。詩聖が杜甫なら詩仙は李白であります。
世界初の長編小説は、紫式部の源氏物語です。
世界三大詩人は、ダンテ・松尾芭蕉・ゲーテです。
西洋三大詩人がダンテ・ゲーテ・ハイネなら、東洋三大詩人は陶淵明・杜甫・松尾芭蕉であります。西洋文学の四天王がダンテ・ヘンリー・ネウ`イル・ゲーテ・スタンダールなら、東洋文学の四天王は、柿本人麻呂・杜甫・清少納言・松尾芭蕉です。世界三大文豪ヘンリー・ネウ`ィル」とスペイン最大の作家セルバンテスは、共に命がけの文学を書き、同じく命がけの徳川家康と同時代を生き、同1616年に他界した。徳川家光が築いた江戸の世は、半世紀後に松尾芭蕉が活躍した元禄の世を迎えました。家光が築いた幕藩体制が迎える最初の黄金時代でした。‘日光を見ずして結構と言う勿れ‘と歌われ、ここから江戸の世は大きな戦が一度も起きませんでした。そして、室町・安土桃山以来の大きな‘元禄文化‘が花開いたのです。
日本文学・文芸は、紀行文の最高峰・奥の細道と名句を残した松尾芭蕉以降、蕪村・一茶・井月・漱石・子規・虚子・鬼城・蛇笏・泉鏡花・志賀直哉・芥川龍之介・島崎藤村・石川啄木・与謝野晶子・高村光太郎・中原中也・萩原朔太郎ら明治の黄金時代を経て、昭和の文豪川端康成・三島由紀夫・谷崎潤一朗など昭和まで輝き放ったのであります。
マルコポーロは、東方見聞録で日本を‘黄金の国ジパング‘と紹介しておりますが、これは、当時日本最大の金の産地で、大陸と交易していた黄金の都‘平泉‘とみて間違いないと思います。平清盛が栄華を誇っていた11世紀末の秀ひらの時代には、人口10万人に膨れあがり、平安京に次ぐ規模の東日本最大の都市でありました。松尾芭蕉が、

五月雨の 降り残してや 光堂  芭蕉

と詠んだ金の絢爛豪華な中尊寺金色堂に感激して、アジア大陸から交易に来ていた人がマルコ・ポーロに‘黄金の国ジパング‘と伝えたのだと思われます。日本は、シルクロードの終着駅だったのです。大航海時代の立役者‘コロンブス‘も‘ジパング‘に憧れて海に乗り出しアメリカ大陸を発見しました。また、芭蕉は高館で、

夏草や 兵どもが 夢の跡  芭蕉

と詠んでいます。‘兵どもが夢‘とは、仏教文化を花開かせて平和な奥州を築いてきた清衡・基衡・秀衡三代の夢と数々の文学や芸能に取り上げられてきた義経らの儚い‘夢‘なのです。北海道各地に義経伝説が残っておりますが、平泉から逃れた義経は日高の首長のもとに身を寄せ、首長の娘チャレンカが義経を慕うようになりました。しかし、義経はさらに北に出帆し、悲しんだチャレンカが海に身を投げ、その姿が神威岩になりました。実際、北海道の厚真町で昭和30年代に見つかった土器が12世紀後半の常滑産陶器だったと判明し、北海道内初の仏教施設だった可能性もある。義経は、さらに大陸に渡ってチンギスハーンとなり、息子のフビライが父義経の仇もあって元寇で日本を襲ったのかも知れません。実際、義経の頭部は円く目は細くチンギスハーンの肖像画に確かに似ております。松尾芭蕉が源義経以上に慕い、同じ義中寺に眠っている木曾義仲は、‘志は同じはずではなかったのか‘と従兄弟の頼朝と対立し敗れた悲劇の武将であります。芭蕉は、この薄幸に心を寄せたのではないでしょうか。しかしながら、義仲は、自分の器を省みずに無謀なことをしてしまいました。巴御前と幸せに暮せたものを天下まで手に入れようとしてしまったのです。さらに、頼朝の次に天下を取ったのが平氏の末裔である北条氏、北条氏のあと天下を取ったのが源氏の末裔である足利尊氏、戦国最強とうたわれた武田信玄公の先祖は常陸平氏であり、室町幕府を倒したのも平氏の末裔である織田信長、その信長を倒したのが源氏の末裔である明智光秀、明智光秀を倒したのが源氏の末裔である秀吉、最後に関が原で勝利し天下泰平の世の中を築いたのが徳川家康。ここまで、源氏と平氏の戦いは繰り返されたのです。ちなみに、関が原は約千年前の古代日本最大の戦いである‘壬申の乱‘の前に大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子との決戦に備えた不破の関跡であります。歴史は繰り返されるのです。戦いに勝利した大海人皇子は、初めて‘天皇‘と‘日本‘という言葉を使い始めたのです。それまで天皇は、大王とよばれていました。北に位置していて動かない北極星を‘天の王‘と見立て、中国の古代思想である‘天子が北に座って南を向く‘を取り入れたと思われます。(空海は北斗七星を信仰しておりました。)さらに、天武天皇は日本全国の道路を整備し、日本初の貨幣の製造や律令制を定めました。また、明日香のキトラ古墳などから伺えるように、天文学の研究にも力を入れました。古代日本は卑弥呼や神功皇后など女性が力を発揮しましたが、推古天皇や聖徳太子が活躍した飛鳥時代から奈良時代にかけては、天皇を中心とした日本国家形成への激動の時代であり、天武天皇の兄である天智天皇による大津遷都など‘遷都‘という‘産みの苦しみ‘があったからこそ千年の都となった平安京が建設され、長く安定した時代が続いたのであります。この芭蕉の一句は、こうした日本の歴史を全て含んでいるような壮大なドラマチックな一句なのです。

閑さや 岩にしみ入 蝉の声

は、現在の関東では7月上旬にひぐらしが啼き始め、万葉伝統の蜩も似合う句ですが、江戸時代の東北のこの時期ならば、にいにい蝉であります。
正岡子規の代表句が僕の故郷と先祖の地を詠んでいるのは、嬉しいことです。  赤とんぼ 筑波に雲もなかりけり   子規  柿喰えば 鐘がなるなり 法隆寺   子規
現在、世界一危険な町と言われているイラクの北部にあるモストは、農耕発祥の地であり、戦争発祥の地であることから、稲という‘所有物‘を手にしたことが人類を自己中心主義にしてしまい、醜い戦いを生んだことが伺えます。
イスタンブールは、キリスト教とイスラム教が仲良く共存している理想的な街なのです。ここから海を渡った地では、両教会が同じ敷地内に共存しているのであります。ガンジーのいうように、宗教は違っても人間が目指す境地は一つなのであります。
日本人の祖先は、縄文人であり、日本文化の基礎は縄文文化である。縄文時代の日本は東高西低であることは、東日本に豊かな海と森と食があり、圧倒的に遺跡の数が多いことからも伺えます。常世国とは、現在の茨城県とされています。大国主と共に国造りをしたのは、常陸の少彦名大神であり、弥生時代に出雲と常陸が交流があったことを物語っております。稲作は、福岡市の遺跡の発掘調査などから紀元前10世紀には、朝鮮半島から日本に稲作が伝わっており、弥生時代は紀元前10世紀付近まで遡るのであります。紀元前600年には、佐賀県唐津市の菜畑遺跡にも稲作が伝わっており、キリストの時代には津軽平野まで到達しております。ちなみに、人類史上最古の宗教施設といわれるのが、1995年に発見されたトルコのギョベックリ・テペ遺跡で、小麦など食物の争奪などを原因とする戦争を避けるために‘宗教‘が誕生したことが伺えます。
カンボジアのヒンズー教ピラミッドやエジプトやインカのピラミッドを見ても、交渉がなくとも人類の想像力が共通していることが伺えます。人類は、20万年前に誕生しましたが、南アフリカのブロンボス洞窟からは、10万年前の化粧(ボディーペインティング)の痕跡が発見され、オシャレの原点と思われます。貝殻に穴が開いていて、人類最古の首飾りです。首飾りは、自分を飾るための道具ではなく、贈り物であり、助けてくれる人がいる証だったのです。ちなみに、日本の信仰の原点は、三千年前から信仰されている筑波山だと思われます。日本の弥生時代の紀元前327年に、アレキサンダー大王の大遠征がありました。
1910年から地球の温度が0,8度上昇しており、それに伴って海水が膨張して、太平洋のツバルが沈みかけている状況です。その原因は、我々先進国が消費している大量の紙製品で、森林伐採とそれに伴った二酸化炭素を発生する泥炭湿地林の存在であります。地球温暖化を食い止める道は、ごみ収集の要領で、ごみ袋やごみ捨て場みたいに紙袋と紙置き場というシステムを設けてシュレッダーにかけたものまで汚れていない全ての紙製品を回収し、日本が培ってきた徹底的なリサイクルを繰り返すのがいちばんです。一つの市からでも地方自治体からでも始めてもらいたいものです。そうしないと地球温暖化を食い止められません。リサイクル=エコロジーであります。リサイクルの国である日本から発信していくべきです。アメリカやエチオピアのようなリサイクルの国になるべきです。また、スーパーやコンビニなどの廃棄食品も回収し、家畜のエサとしてリサイクルすれば無駄になりません。日本人が培ってきたリサイクル精神を発揮する時代なのです。

熱帯の 消えゆく緑 見ゆる哉
紙ゴミを リサイクルとす 去年今年  
南風吹く 難民の国 見ゆる哉  

武士の原点は皇族から出た源氏と平氏であります。平氏は、関東で勢力を拡大しました。平清盛の先祖ともなる常陸平氏は、茨城県で誕生した平氏一族の祖であります。そして、平安時代末期に、茨城県の坂東市に拠点を置いていた平将門が朝廷に反旗をひるがえしましたが、同じ平氏一族に滅ぼされました。その100年後には、東北を治める役人として源義家が派遣され名を上げました。そして、平氏も源氏も朝廷の警護に取り立てられていきました。平氏の拠点は、京都の中でも辺境と云われる六波羅にありました。源頼朝の代には、天然の要塞土地である鎌倉を拠点とした源氏が勢力を拡大しました。その勢力は、十数万もの大軍でありました。栄華を誇った平氏も、松尾芭蕉が慕った木曾義仲や源義経の活躍によって滅ぼされてしまいます。
松尾芭蕉は、和歌の影響も受けており、

春やこし 年やゆきけん 小晦日  芭蕉

という俳句も、伏見天皇が書写している閑院の和歌の‘春やこし秋やゆきけん‘からきています。また、ビートルズの名曲‘アクロスザユニバース‘は、ジョン・レノンが日本文学の最高峰である‘松尾芭蕉‘の影響を受けてインド滞在中に書いた曲であります。和歌・連歌・俳諧と連綿と続いてきた日本の詩は、松尾芭蕉で結晶いたしました。愛の三大詩人は、ダンテ・ゲーテ・ハイネである。西洋のルネサンスがラファエロで結晶したように。俳諧は‘芭蕉の文学‘であります。釈迦の如く地位と名誉の一切を捨て深川で‘侘び‘の詩情を追い求めた芭蕉は、1684年の冬、「野ざらし紀行」の旅の途中、名古屋に立ち寄り、岡田野水ら土地の青年俳人らと、俳諧を芸術の領域まで向上させたといわれた連句集(七部集の第一集「冬の日」の歌仙を興行したといわれる地に「蕉風発祥の地の碑」が建てられています。遊戯色が強く博打的要素もあった俳諧を詩情豊かに詠んで真の純文学へと昇華・革新させ、蕉風と呼ばれる幽玄で閑寂な風雅を獲得したのです。蕉風開眼の句として有名なのが、

古池や 蛙とびこむ 水のをと  芭蕉

正風俳諧は、芭蕉の名によって引き継がれてきたのです。
正岡子規によって切り開かれた俳句の原点を辿って参りますと、連歌に辿り着きます。1650年前(4世紀)、倭タケルが古代からあった日本語の発音の旋頭歌の調べで連歌に開眼しました。その連歌発祥の地が山梨県の酒折です。
筑波山は連歌岳と呼ばれており、白河法皇の院宣によって成った金葉集に連歌の部が設けてあります。温故知新とは、連歌や蕉風俳諧の幽玄であります。。また、二条良基公が求済に命じて編まれた准勅撰連歌集である‘筑波集‘の発句の条に単独で五七五を詠んだものがあります。即ち、二条良基公が単独発句吟の開祖であります。1190年、松尾芭蕉が慕った西行の山家集が完成。1205年、新古今和歌集が完成。1135年、小倉百人一首が完成。鎌倉新仏教は、武士や庶民が文化の担い手に変わる象徴のような出来事でしたが、室町時代にさらに加速しました。1364年、二条関白良基公による勅撰集である筑波集が完成。最初の俳諧之連歌集は竹馬狂吟集で、正当な和歌や連歌のしきたりに反し、風流で雅な和歌や連歌では詠まれない‘滑稽‘を連歌に取り入れたものでした。そこで、‘筑波‘ではなく‘竹馬‘としました。正風連歌の開祖は、連歌の最高傑作と呼ばれている新選筑波集を編んだ最強の連歌師‘飯尾宗祇‘であります。古くは、善阿・救済・二条良基公・心敬などの大御所が綺羅星の如くひしめき合っていました。最初の俳諧之連歌集も、宗祇の時代(室町後期)に‘竹馬狂吟集が成立しており、宗祇も連歌に反する漢語をとりいれたものも詠んでおり、宗祇の時代には既に俳諧が独立していました。宗祇が俳諧の開祖といってよいと思います。山崎宗鑑や荒木田守武は俳諧之連歌の開祖とは言い難く、俳諧之連歌の大御所という存在です。初期の俳諧之連歌は、滑稽な狂連歌でした。西山宗因の談林俳諧は、風雅よりも俗を好むもので、衰退してゆきました。それを、松尾芭蕉が‘蕉風俳諧‘と呼ばれる芸術の域に高めたのです。蕉風俳諧の根本理念は侘び・寂び・しをり・細み・軽みであります。芭蕉の後、与謝蕪村の時代から平成に至るまで何千万と俳諧や俳句を作った人がいたと思いますが、芭蕉の域に到達した人はありません。芭蕉は杜甫に並び、蕪村は王維に並びます。芭蕉の句は、平明であると同時に味わい深く、簡素さと奥深さが同居した正に日本文学の粋なのです。芭蕉の真骨頂は、飯尾宗祇と並び史上最強の歌仙・連句の名手であったことです。芭蕉自身も‘発句は門人の中、予におとらぬ句する人多し。俳諧(連句)においては老翁が骨髄‘といっております。発句・連句共に史上最強であり、平成の今日まで誰一人及ばない空前絶後の俳聖でありました。繊細な蕉風俳諧は、男性にしか到達できません。筑波山は、連歌・俳諧・俳句の聖地・メッカでありますが、俳諧・俳句は、芭蕉の文学でありますから、奥参りも目的の一つであっまた、白河法皇の院宣によって成った金葉集に奥の細道の旅で立ち寄った出羽三山も俳句の聖地とされております。

連歌六歌仙     倭建命・二条関白良基公・善阿法師・救済法師・心敬法師・飯尾宗祇

俳家六歌仙     松永貞徳・北村季吟・松尾芭蕉・内藤丈草・与謝蕪村・小林一茶

俳句六歌仙     内藤鳴雪・村上鬼城・正岡子規・高濱虚子・飯田蛇忽・中村汀女

三十六句仙     倭建命・二条関白良基公・善阿法師・良阿法師・救済法師・心敬法師・
          飯尾宗祇・荒木田守武・山崎宗鑑・松永貞徳・北村季吟・松尾芭蕉・山口          素堂・内藤丈草
             服部嵐雪・杉山杉風・河合曽良・広瀬惟然・野沢凡兆・向井去来・  上島鬼貫・炭太祇
             与謝蕪村・小林一茶・井上井月・内藤鳴雪・正岡子規・村上鬼城・松瀬青々
             高濱虚子・渡辺水巴・飯田蛇笏・原石鼎・高野素十・川端茅舎・中   村汀女
          

室町時代は、日本文化の源流であります。今日、日本文化の代表とされる茶の湯・生け花・能・狂言などは、この時代に地方を問わず、庶民の別なく洗練されながら確立していったのであります。‘幽玄‘を基調とした東山文化は庶民の文化であり、宗祇の新撰筑波集や宗鑑の犬筑波集が編まれ、雪舟や狩野派を打ち立てた狩野正信・元信親子、土佐派の土佐光信を輩出しました。雪舟に次いで日本第二位の水墨画家である雪村周継は茨城県常陸大宮市出身で、晩年は三春で過ごしました。古典では、古今和歌集が和歌の聖典として重んじられ、秘事口伝の風潮の元で神聖化され、特定の人だけに伝授されました。これを古今伝授と呼び、東常縁によって整えられ、飯尾宗祇によってまとめらてゆきました。南北朝文化は、茨城県つくば市小田城で書き上げられた‘清く・正しく・美しく‘の神皇正統記や二条良基公の連歌の筑波集や応安新式など正に連歌・俳諧・俳句と連綿と連なる日本文化の基調を成しているのであります。今、フランスを初め、世界が注目している侘び・寂びの原点を生んだのは、東山文化の足利善政公であります。一切の華美をやめたものが‘侘び‘であります。東山文化は、禅の精神に基ずく簡素さと伝統文化の幽玄・侘びを基調としておりました。足利義政公が建立した銀閣寺は、日本が世界に誇る文化「侘び・寂び」の源流であります。足利義政公は、東山文化を生んだ大文化人でありまして、慈照寺の東求道の同仁斎の書院造は、近代の和風住宅の和室の原型であり、日本建築の革命である日本初の四畳半の書院の美を生み出し、ここで‘侘び茶‘の原型を生み出し、床の間に花を飾るという華道の原点を始めました。足利義政公は、晩年の孤独を見事に楽しみました。また、藤原定家公も足利義政公も連歌を嗜んでおります。この時代、禅の精神で統一された枯山水も生まれ、竜安寺石庭や大徳寺大仙院が有名です。茶道を初め、日本の‘おもてなし‘の原点は、‘和を以って貴しと成す‘という聖徳太子の仏教のこころであります。松尾芭蕉は、深川に隠棲した後の野ざらし紀行で、名古屋の青年俳人達と編んだ七部集第一集‘冬の日‘の歌仙を興行しました。これは、杜国らと共に俳諧之連歌を初めて芸術の領域に向上させたものでした。この地は、蕉風発祥の地となっております。高濱虚子も、‘要するに俳句は芭蕉の文学と言って差し支えない‘と申しております。
日本の伝統文化を代表する茶道と花道の基礎もこの時代に整えられました。茶の湯では、村田珠光が出て、茶と禅の精神統一を目指し、茶室で‘心の静けさ‘を求める‘侘び茶‘を創りました。生花も、床の間を飾る‘立花様式‘が定まって、花そのものを観賞する形が作られてyゆきました。立花(たてはな)の名手としては、京都六角堂の池坊専慶がおりました。侘びは、足利義政公が大成し、侘び茶は臨済宗大徳寺の一休宗純のもとで茶の湯を極めた村田珠光(むらたじゅこう)が大成し、武野紹鷗へと引き継がれ今井宗久・津田宗及・千利休などの名人を輩出し、古田織部・小堀遠州などの個性を開花させました。室町時代は、正に日本文化のルネサンス期で、雪舟が水墨画を革新し、観阿弥・世阿弥が能を大成し、宗祇が連歌の芸術性を高めました。雪舟の後継者である雪村周継は、雪村団扇」を作り、後に徳川光圀も愛用しました。茶道の原点は、平城京あとから736年(天平8年)の木簡が発見され、‘にがな‘の文字が記されています。そして、815年には、入唐僧が嵯峨天皇に茶を煎じて献上しております。安土桃山時代は、町衆が文化の担い手になりました。
松尾芭蕉も侘びの芸術に目覚め、蕉風俳諧の根本理念になりました。侘びとは、完全でないものや古びたものを愛し、もの寂しく静かな趣に美を見出すことです。芭蕉は、予が俳諧は、西行の歌に・宗祇の連歌に・雪舟の絵に・利休が茶に、その心に流れているものは一つと言っております。雪舟の跡を継いだ茨城県岩間の雪村・水戸の大観・笠間の武山・下館の波山で東日本芸術の四天王であります。
蕉風俳諧のもう一つの根本理念である‘寂‘は、古びて趣のある美しさのことで、寂びを代表する一句があります。

古池や 蛙とび込 水のをと  芭蕉

蕉風俳諧の根本理念の一つである‘枝折‘とは、日本独特の繊細さのことです。

あけぼのや 白魚しろきこと一寸  芭蕉

‘細み‘は、‘幽玄‘で奥深い余韻のことです。

静かさや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

この蝉は、句境と夕方に詠んだことから日暮が最も似合います。実際、芭蕉が訪れた頃に近い西暦七月十日につくば市で日暮の初音を聞きました。日暮は万葉の頃から和歌で最も好まれた蝉であり、風流と情緒を兼ね備えており、童心を誘うのです。また、奥の細道の日本海で詠んだ句に  

あかあかと 日はつれなくも 秋の風  芭蕉  

という句がありますが、これは、モネの印象派の原点である‘印象・日の出‘とその流れる芸術の精神は朝夕対称的に一つであります。
芭蕉が辿り着いた軽み(かろみ)は、庶民の日常生活の俗な題材に美を見出して平淡にさらりと表現することです。

梅が香に のっと日の出る 山路かな  芭蕉  

松尾芭蕉は、奥の細道の旅で訪れることが出来なかった歌枕があります。日本三名瀑‘袋田の瀧‘であります。関所があったため、やむなく諦めたのだと思われます。西行法師がここを訪れた時、‘この瀧は四季に一度ずつ訪れてみなければ、真の風趣は味わえない‘と‘四度の瀧‘と命名したと伝えられております。日本三大美林は、秋田の杉・青森のひば・木曾の檜であります。白神の山毛欅・八甲田の水楢・京の杉などもこれに次ぐ美しさです。
芭蕉の次の時代の大俳諧師は与謝蕪村ですが、絵画の方が超一流で、池大雅と共に日本南画の大成者であり、京都ルネサンスを形成した円山応挙・池大雅・伊藤若冲・曾我蕭白・長沢芦雪と並び称されていますが、俳諧は松尾芭蕉に奥深い余韻に到達できませんでした。生誕200年の時に、蕪村の220句が新たに発見され、蕪村の発句は、おおむね出揃いました。三大俳人蕪村の代表句を紹介します。

春の海 終日のたりのたり哉  蕪村
菜の花や 月は東に日は西に  蕪村
行春や おもたき琵琶の抱ごころ  蕪村 

俳諧と云う言葉が誕生したのは、古今和歌集で‘俳諧歌‘というものがあります。高尚で雅な和歌や連歌とは、別物であります。松尾芭蕉の頃は、連句を楽しむのが主流でした。連句は、‘変化‘を重んじ、一句で簡潔した句である必要はありませんでした。松尾芭蕉も、俳諧の醍醐味は連句とおっしゃっております。しかし、時代が江戸後期に進むに従って単独の発句だけを詠むことが盛んになり、正岡子規らの「俳句革新運動」よって完全に発句だけを一人で詠む‘俳句‘という新しい形式になったのです。
即ち、俳諧は連句・俳句は発句で別の文芸なのであります。
こうして、新たな日本文学として定着した俳句は、‘俳諧之連歌の発句‘を簡略化した呼称で、榎本其角が編んだ‘みなし栗‘で初めて登場した言葉でした。それを、正岡子規が連句はやらないで発句だけを詩のように一人で詠みましょうということで俳句という言葉を広めたのです。俳諧は、‘座の文芸‘で、仲間と連句を楽しむことが主流の別の文芸です。連句(‘俳諧之連歌‘を簡略化した呼称)という言葉は、高濱虚子によって広められました。
高濱虚子は、‘俳句は芭蕉の文学‘と明言し、最晩年、芭蕉への一層の親近感を深められました。
虚門十哲は、村上鬼城、飯田蛇笏、原石てい、高野素十、阿波野青畝、山口青邨、富安風生、川端茅舎、松本たかし、星野立子です。

日本の詩の歴史を紐解きますと、古代から平安時代までが和歌や旋頭歌の全盛期で、鎌倉から戦国時代までが連歌の全盛期で、江戸時代が俳諧連歌の全盛期で、明治が和歌や近代詩の全盛期で、大正から平成が俳句の全盛期となりました。
正岡子規は、1889年(明治22年)4月、水戸の友人を訪ねる水戸紀行の途中で、土浦市真鍋の高台にあった‘総宜園‘という茶屋に立ち寄りました。その時、霞ヶ浦を眺めて

霞みながら 春雨ふるや 湖の上  子規

と詠みました。現在の億萬山七福尊真延寺からは、霞ヶ浦・筑波山・富士山・土浦市外を見渡せ、子規が眺めた景色を楽しむことができます。土浦の礎を築いた方は、関が原の戦いで功を挙げ、常陸の大名・佐竹氏を牽制するため土浦城主となった松平信一(のぶかず)です。甲冑の胴とはいだてに描かれた浮く三つ葉葵の紋は、早くから徳川家康の名代として仕えた信頼の篤さを物語ります。松平家が土浦を治めた16年間には、水戸街道を整備するなど、今も残る土浦城周辺の基礎を築きました。また、土浦市では大正11年から続く日本を代表する土浦全国花火大会が開かれ、全国の花火氏たちが一同に会し、質・規模・内容共に最高峰の花火大会であります。十月の花火とあり、季語の誕生が待たれます。江戸俳諧の大御所が松尾芭蕉なら、明治の大御所が正岡子規、大正・昭和の俳壇大御所は、高濱虚子であります。正岡子規の短歌の後継者は、茨城県常総市の長塚節であります。節は、子規の後、千葉県成東の伊藤左千夫と共に馬酔木を創刊し大活躍しました。さらに、健康回復のため、西行や芭蕉の旅に憧れ、全国行脚がはじまりました。そして、明治41年アララギを創刊して、小説に意欲を燃やしました。特に「土」は、夏目漱石からも絶賛され、近代日本文学の一大傑作と高く評価されております。
蕉門十哲にはいろいろな説がありますが、実力や芭蕉の信頼度・芭蕉への忠誠心から服部嵐雪・榎本基角・杉山杉風・内藤丈草・向井去来・森川許六・志太野ば・広瀬い然・立花北枝・河合曾良で確定であります。発句は、五七五の音楽である。現代俳句は、調べをおろそかにしていないだろうか。
虚門十哲は、村上鬼城・飯田蛇笏・前田普羅・原石鼎・高野素十・阿波野青畝・星野立子・中村汀女・川端茅舎・松本たかしであります。虚子が唱えた客観写生も俳諧と俳句の一系統で、内藤鳴雪が見出し、純客観写生の本尊と尊崇た野沢凡兆から、内藤鳴雪・正岡子規・高濱虚子・高野素十と引き継がれてゆきました。高濱虚子は、本物の守旧派にあらず。凡兆派・蕪村派・子規派・写生派であります。俳句も俳諧も連歌も原点は和歌であり、歌会初で採用される‘題詠‘こそ本物の守旧派であります。我々は、日本の詩の原点に立ち帰らねばなりません。俳諧と俳句における真の温故旧派は松尾芭蕉以外ありません。短歌の方は、子規の最も純粋な愛弟子である常総市の長塚節が、子規の写生短歌の正統な後継者となりました。長塚節は、明治を代表する詩人の一人である下妻市の横瀬夜雨と親戚であります。節は、農民文学の最高傑作である‘土‘を残し、漱石から‘娘に読ませた‘と絶賛されました。長塚節は、常総市が育んだ常陸国の偉人であります。

句は虚子に 歌は節に 獺祭忌  紫峰

天才は、共通している。富田木歩の、その歩行困難の境涯は横瀬夜雨に、その貧困は石川啄木に、その境涯俳句は村上鬼城に似ている。近代俳句四天王は、人格第一位が内藤鳴雪・格調第一位が飯田蛇忽・中道第一位が富安風生・境涯俳句第一位が村上鬼城であります。
連歌の開祖は、旋頭歌を二人で詠み合った倭タケルと御火焚の翁であります。倭タケルが詠んだのは五七七五七七の旋頭歌を二人で詠み連歌としたのです。筑波山の神様が、連なる歌を倭タケルに授けたのでしょう。倭タケルは、急峻な筑波山の男体山に参拝しております。ここに、連歌岳が今も残っております。旋頭歌も和歌と同じく漢字の無かった1700年前に日本語の発音だけで成立していたのです。倭タケルが、連歌の開祖であることから、連歌も俳諧も俳句も‘遊行の文学‘と言ってよいのではないでしょうか。古い俳句を破壊して新しい俳句を作る時代は終わりました。新しいものには限界があり、これまでにあらゆる俳句の表現方法は出尽くしました。これからは、作った俳句の質が良いか悪いかが大切でありまして、新しさが俳句の価値基準ではありません。松尾芭蕉の発句は永遠普遍なのですから。松尾芭蕉に‘不易流行‘の教えを授けたのが出羽三山の神々であり、倭タケルに連歌を授けたのが、国見の山でもあった筑波山の神様であります。連歌の隆盛期に活躍したのは、遊行寺(時宗)の僧侶達でした。五七五・七七の和歌の調べでで最初に連歌を詠んだのは、和歌の最高傑作である万葉集を完成させた大伴家持であります。尼が、五七五と詠み、家持が七七とかえしております。日本人のとてつもく高い文化レベルが垣間見られます。さらに、鎌倉新仏教こそが武士や庶民が文化の担い手に代わってゆく象徴のような出来事だったのです。一遍の時宗からは、一流の連歌師が多数輩出されました。和歌の開祖は言うまでもなく、弥生時代あたりに実在した出雲国の王スサノオノ命であります。和歌を‘敷島の道‘といい、連歌を‘筑波の道‘といいます。即ち、漢字のない時代にも、発音だけで和歌や旋頭歌が存在していたのであります。日本が世界最高水準の文化レベルを持った国である証拠です。              

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

芭蕉が訪れたのは夕暮れで、日暮の方が情緒豊かな気がします。万葉集で詠まれている蝉の歌は十首ありますが、その大半が日暮で、その声の美しさと蝉の寿命の儚さから、蝉の代名詞であったと思われます。
日暮らしという蝉は、揚羽と並ぶ日本最古種の虫で、関東に多くいます。日本最古の神社が筑波山神社ですから、関東は歴史においても西日本に負けて降りません。西の‘時雨‘に対して‘東の日暮‘
といったところです。また、‘西の三輪山‘に対して‘東の筑波山‘といってよいと思います。万葉集でも、西の富士・東の筑波と並び称された筑波山は富士山の2倍以上詠まれております。また、西の雪舟・東の雪村と並び称された二大水墨画家の雪村周継も茨城県常陸大宮市出身です。
茨城県土浦市では、大曲・長岡と並び日本三大花火大会の一つ‘土浦全国花火競技大会‘が十月第一土曜に開催され、水戸市の野村花火工業が注目の的になっています。西日本三大暑は、岐阜県多治見市・大分県日田市・京都市で、東日本三大暑は、館林市・熊谷市・山梨県であります。
梅といえば、菅原道真を九州まで追いかけて行ったという大宰府天満宮の飛梅が有名で、東京の亀戸天神の梅屋敷を初め各地の天満宮に植えられております。茨城県には、大宰府天満宮や京都の北野天満宮と並び東日本を代表する大生郷天満宮があります。ここは、菅原道真公の息子である景行という人が道真公の遺骨を納める場所を探して各地を旅しているときに、水海道の大生郷に辿り着き、ここに遺骨を埋葬されました。大生郷天満宮には、道真公の廟所がありますので、大宰府天満宮と共に大変尊い天満宮なのです。ここには、常陸国で活躍した浄土真宗の開祖である親鸞聖人も訪れております。菅原道真といえば学問の神様ですが梅の和歌をのこしていす。

東風吹かば 匂ひ起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ    菅原道真

梅の木は、なんといっても枝ぶりが魅力的ですよね。 
代表的日本人は、大国主命・日巫女・倭建命・弟橘媛命・仁徳天皇・聖徳太子・柿本人麻呂・最澄・空海・菅原道真・阿部晴明・西行・日蓮・親鸞・飯尾宗祇・雪舟・徳川家康・天草四郎時貞・徳川光圀・松尾芭蕉・葛飾北斎・二宮金次郎・緒方洪庵・明治天皇・加納治五郎・夏目漱石・樋口一葉・野口雨情・北原白秋・植芝盛平であります。広重の亀戸天神の梅屋敷など、日本画にも多く取り上げられています。浮世絵といえば、フランスで‘ビッグウェーブ‘と呼ばれ、モナリザと並んで世界一有名な絵と言われている葛飾北斎‘富嶽三十六景の最高峰‘神奈川沖浪裏‘は、なんと人間の目に最も快いビボナッチ数列に一致するのです。北斎が天才だったのか、ビボナッチ数列を解っていたのか。そして、この名画の原点は俵宗達の松島図屏風です。晩年の北斎は信州の小布施へ、晩年の小林一茶は信州の柏原へ、二人は似ています。北斎の守護神は龍神で、オーラは綺麗な赤でした。また、横山大観も富士に見せられ、富士の絵で葛飾北斎に挑みました。
 櫻の名歌といえば、

ひさかたの 光のどけき 春の日に しつ`心なく 花の散るらむ  紀友則

紅葉の名歌は、

嵐吹く 三室の山の もみち`葉は 竜田の川の 錦なりけり  能因法師


サッカーのドリームイレブンを選ぶとしたら、
ペレ・マラドーナ・ベッケンバウアー・クライフ・フォンテーヌ・ロナウド・SBロベルトカルロス・SBカフー・CBカンナバーロ・CBキャンベル・KPシーマンではないでしょうか。
対する銀河系イレブンは、ゲルトミュラー・ロベルトバッジョ・ロマーリオ・プラティ二・ベッカム・クローゼ・ロッベン・ハメスロドリゲス・CBテュラム・CBコンパニー・KPノイアーでしょう。正にドリームマッチです。

ワールドイレブンは、シュケル・ジダン・クリロナ・ネイマール・メッシ・リバウド・イブラヒモビッチ・ベイル・CBマルディー二・CBチアゴシウバ・KPカシーリャス

ワンダーイレブン=オーウェン・シェフチェンコ・ベンゼマ・ロナウジーニョ・ジダン・ボバン・ピルロ・カカ・CBマスケラーノ・CBピケ・KPシュマイケル

アースイレブン=ドログバ・フィーゴ・ジェラード・エトー・イニエスタ・中田・シャビ・アザール・CB井原・CBファーディナンド・KP川口

スカイイレブン=ビジャ・アンリ・ベルカンプ・リベリー・ジェルビーニョ・モドリッチ・クロ-ス・CBセルヒオラモス・CBプジョル・KPクルトワ

スペシャルイレブン=ビエリ・ラウール・ドノバン・ブランコ・デロッシ・ガットゥーゾ・バラック・ラーム・CBデサイー・CBテリー・KPブッフォン

滝廉太郎の花は、シューベルトのますのような清かな調べに満ちており共通の音楽ではないでしょうか。
ミレーの晩鐘ほど崇高なる絵画はありません。
アインシュタインの特殊相対性理論は、スピードが増せば時間は遅くなり物体は縮むというものや、楽しいと時間の流れが速くなるなどで、ニュートンの常識を覆しました。楽しいときは、時間が過ぎるのが早くなります。一般相対性理論の方は、時空は重力によって湾曲するというもので、いずれもニュートンの常識を覆すものでした。先に、この湾曲を絵画で表現したのが天才ゴッホではないでしょうか。ゴッホは、北斎の神奈川沖浪裏と重なるように星月夜を描いております。東洋の三遠法に西洋の線遠近法を駆使して昇華しております。ビッグウエーブの位置に渦巻きを配し、富士山の位置には教会を配し、手前の波の位置には糸杉を配したのです。ゴッホは、熱狂的な浮世絵ファンだったのであります。そして、キリスト教信者だったゴッホは、星空に願いを込めて宗教画に昇華させたのです。ゴッホの種まく人ほど希望に満ちた絵画はあありません。北斎の模倣ではなく、吸収昇華であります。近世俳諧師最後の高峰であった井上井月も芭蕉の模倣ではなく、吸収昇華なのであります。また、発句(俳句)は、季題が主役になっているものが好ましいとされておりますが、芸術的に価値の高いものになっていれば、季題が主役になっていなくともよいとおもうのであります。既に、連歌の大御所であった飯尾宗祇もルールを破って漢語を取り入れ、俳諧の原型を作っているし、俳諧そのものが連歌のルールを破っているのであります。しかし、浪の先端を発見した元祖は茨城県の雪村周継であります。この浪が、俵屋宗達~尾方光琳~曽我蕭白~葛飾北斎と時代を超えて引き継がれていったのであります。原点に、雪村の‘浪‘があることを忘れてはならない。北斎もゴッホも天才科学者に先行した天才芸術家でした。伊藤若冲は、既にスーラの点描やルソーの動物画の域に到達しておりました。日本三大版画家は、北斎・広重・巴水であります。山下清の長崎の点描は、ジョルジュ・スーラの水準に達しています。ロートレックは、わずか10カ月の制作期間で彗星の如く姿を消した写楽に学びました。東山魁夷の芸術の秘密は、水面に写って滲んだ木や山である。茨城県は、日本を代表する芸術家を輩出しておりまして、雪舟の時代を超えた後継者である雪村周継や近代日本画の巨匠・横山大観(水戸)や木村武山(笠間)、焼物を芸術の域に到達させた板谷波山(下館)などが日本をリードしてきました。
日本の音楽は、滝廉太郎作曲の花が、その純粋さ・美しいメロディーがシューベルトの‘ます‘の水準に至達しております。尾崎豊は、現代の中原中也である.

更生の四天王は、須佐之男命・徳川光圀公・新渡戸稲造・サトウハチローである。

田中一村は、日本のルソー・日本のゴーギャンである。

天文学において、初め宇宙と宇宙はへその緒のように繋がっていて、やがて一人立ちしてマルチバースになっているのかもしれません。また、ブラックホールの向こうに同じ世界があると予想されています。さらに、2の10の118億個(940億光年)の宇宙があり、16分の1個の割合で地球‘があると予想されています。地球の70パーセントが海で30パーセントが陸ですが、人体もそれに近いパーセンテージなのは、地球の水と大地に7:3の法則があるのかもしれません。地球上の生物すべてがこの法則に当てはまるのかも知れません。地球と月の大きさの比率や太陽と地球の大きさの比率にも法則がありそうです。遮光器土偶は、縄文人が20世紀の未来の宇宙服を予知して作ったものです。岡本太郎さんの作品域に縄文人が既に到達していました。ソクラテスープラトーンーアリストテレスーアレキサンダー大王と子弟関係が繋がったのも時代の妙です。さだまさしさんの‘北の国から‘のメロディーは、富良野や美瑛の風景と完全な一致をみせる奇跡なのです。木の形と神経の形と血管の形とバスケットボールは、同じ形で成りたっており、神の法則です。この世には、すべての分野が繋がる‘神の法則‘があるのです。

自然破壊・地球温暖化防止に貢献しないのは、これから何百回も地球に生まれてくる自らの来世を閉ざしているということである。

平成神皇正統記 2010/4/9 

今日は、長野県の諏訪大社(船の神様)の7年に一度の御柱祭に行って参りました。ものすごい人出でした。樹齢数百年の神木を切り出し、崖を勢いよく落ちてゆく神木に向かって、何十人もの男たちが命がけで乗り込んでいく日本一勇壮な祭です。山の神が巨木と共に里に下り、民と会う祭です。
諏訪大社のタケミナカタノ神様は出雲大社の大国主神のお子の神様で、国譲りの大舞台で高天原最強の鹿島神宮のタケミカズチノ大神と闘った神様です。力比べで、タケミカズチがタケミナカタをいとも簡単に投げ飛ばしたのですが、この力比べが相撲の起源とされております。この後、タケミナカタは諏訪に逃れ、ヤサカトメノカミと暮らしました。即ち、二ニギノ命が高千穂に降臨するに先立って、日本を最初に平定したのがタケミカズチノ大神であります。鹿島神宮は、古代より東国支配の要で、平安時代に伊勢・鹿島・香取のみ神宮の格式を与えられ、江戸時代までは伊勢・香取と共に日本三大神宮に列せられ、さらに香取神宮・息栖神社と共に東国三社に数えられ、常陸国の一の宮にして全国のに600社ある鹿島神社の総本宮である。鹿島神宮の楼門は、日本三大楼門の一つに数えられております。また、厳島神社を凌ぐ水上鳥居が北裏浦に建っています。大国主が支配していた山口から丹後にかけて巨大な活断層が確認されており、巨大地震によって大国主が疲弊しているところにタケミカズチとフツヌシが現れたのかも知れません。鹿島神宮と香取神宮にある地震を抑える要石がそれを物語っています。さらに、出雲大社の巨大神殿もまた直下型の巨大地震によって崩れたのかも知れません。また、私の故郷にある鹿島神社のけやきはつくば市の市木に指定され、茨城県最大の欅である。
フビライハーンによる二度の元寇の際には諏訪大社から雲が上がり、タケミナカタが大竜に化身して他の神に先んじて敵を討ち滅ぼしましました。さらに、801年の坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際には、諏訪明神が助けに行ったとされています。松尾芭蕉の蕉風俳諧の正統な後継者は、杉山杉風・内藤丈草・広瀬イ然や奥の細道に抜擢された温厚篤実な河合そらでありますが、そらは上諏訪の出身であります。
タケミカズチと経津主は、弥生時代の出雲の豪族でしたが、日向の高千穂などの天皇家の先祖である天つ神で、大国主に国譲りさせたあと、タケミカズチは鹿島に、経津主は香取に派遣され、東北平定の基地としたのです。中臣氏(鎌足は鹿島神宮の宮司出身)の祭神がタケミカズチで、物部氏の祭神が経津主であります。この後、大国主の強い願いにより、直径100メーター以上の階段を備え、高さ47メーターを誇る巨大神殿が築造されたのです。スサノオと大国主は、弥生時代に出雲の地に確実に実存した王でした。出雲大社では、旧暦十月二十日夜七時に日本全国津々浦々の全ての神々をお迎えする神迎祭が行われ、ヒモロギに宿った神々が日本中の人の縁結びをするのです。
神話に遡りますが、高天原では天照大御神と高御産巣日神らによって、葦原中国を天照大御神の子孫に治めさせようと云う計画が立てられ、国津神の首領である大国主命の元へ遣いを送ったのだが二回とも失敗に終わりました。そこで、三度目の使者に選ばれたのが高天原最強の雷神で高天原の大元帥とも云うべき鹿島神宮のタケミカズチノオオカミである。日本国の統一は、ここから始まったのであります。このとき、天照大御神の命を受け御神勅を伝えたのが‘天迦久神‘です。天迦久神は、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっています。今からおよそ1300年前の奈良時代に、鹿島神宮の分霊がたくさんの鹿を伴って奈良へお向かいになられ、春日大社が創建されました。春日大社の裏にある春日山原始林は、神社と同じ聖域とされ信仰と結びついて守られてきた森で、その歴史的価値から世界文化遺産に登録されました。春日の大杉は、樹齢1000年以上といわれ、奈良の人々を見守ってきたのです。奥州一之宮の塩釜神社も鹿島神宮の神様をお迎えして祀りました。また、春日大社創建の頃、常陸国風土記も編まれ、那珂郡(那珂川流域一帯)の巨人伝説は有名で、水戸市塩崎町に大昔巨人が住み、海に手を伸ばして採って食べた大はまぐりの貝殻が積もって岡になったと常陸国風土記に記されております。今では、大串貝塚ふれあい公園として整備されております。また、土浦市の上高津貝塚は、3000~4000年前に作られた霞ヶ浦沿岸最大の貝塚で、考古資料館があります。また、奈良時代末から平安時代初期にかけての石岡市の鹿の子遺跡の地下の正倉院の資料から当時の常陸国の人口を読み解くと22万人で、日本の全人口540万の内常陸の人口密度が圧倒的で、古代より常陸が大和政権の重要な国であったことが伺えます。石岡は、国分寺があった地であります。少彦名の常世国は、常陸であります。
奈良の葛城山には、高天彦神社がありますが、葛城氏の祖神であるタカミムスヒ神を祀っております。タカミムスヒは、アメノミナカヌシに次いで日本の二番目に誕生された神です。タカミムスヒは、イザナギとイザナミに日本の国造りを命じた神で、天照大御神と並んで国譲りや天孫降臨の物語にたびたび登場する高天原の偉大な神であります。イザナギは、黄泉の国の出入り口である出雲(庄原市)の千引岩で出口をふさぎました。イザナミの神は、三重県熊野市の花の窟に埋葬されました。イザナギが淡路島に幽宮を建てて鎮まったイザナギ神宮は、イザナギとイザナミを祀っている日本最古の神社であります。阿蘇神社に祀られている第二代スイゼイ天皇の高丘宮があったのは、葛城地方であり、葛城氏と婚咽関係を結んでおります。鉄製産に携わった葛城氏(鴨族)の館の跡が極楽寺ヒビキ遺跡であり、近くの高鴨神社の地下には、鉄の鉱脈があります。日本で初めて鉄生産を開始したのは、おそらく出雲のたたら製鉄であり、たたら製鉄は、八岐大蛇を首領とする8人の集団で、足名椎と手名椎の娘を妾に差し出させていて、高千穂のスサノオが現れたという物語でしょう。河が赤く染まったというのも、鉄が斐伊川を赤く染めたのです。そして、1世紀には子孫の大国主が勢力を高志や大和まで拡大していったのです。そこで、高千穂のあまてらすが、同盟を結んでいた常陸のタケミカズチやフツヌシに命じて出雲を平定させ、2世紀に神武天皇が奈良に入ったのであります。京都府の‘天橋立は、古来より‘天への架け橋‘と呼ばれてきました。日本列島を生んだイザナギノミコトが、天界と下界とを行き来するために作ったはしごが倒れて出来たと‘丹後国風土記逸文に記されております。
天照大御神は、キリストと同時代に存在した高千穂の女王であり巫女であります。タカミムスヒは、ニニギノ命へと続きますが、ニニギノ命の兄弟こそが天火明命(アマノホアカリノミコト)で、ここから現代の伊勢の‘海部氏‘へと系図が続いているのであります。天照大御神の孫であるニニギは、宮崎県高千穂町の高千穂の峰=国見ヶ丘もしくは、くしふる山に降臨しました。高千穂神社は、垂仁天皇の御世の創建であります。神武天皇は、奈良で即位すると、大国主命の娘を皇后陛下に迎えます。唐古・鍵遺跡は、ニギハヤヒの都か大国主が大和に置いた都の跡と思われます。天皇の寿命は古事記の方がまだ現実的であります。豊受大神は、丹波へ降臨されて天上界から伊勢の地へ‘真名井の水‘を下されたのです。丹後には出雲大神宮があり、国常立命が降臨された地か大国主命が誕生された地ではないでしょうか。ここで、奈良県出身の俳人阿波野青畝の代表句を紹介します。

葛城の 山懐に 寝釈迦かな  青畝

キリストと同じ頃2000年前、高千穂の女王だった天照大御神の側近であるタケミカズチ大神が経津主神(布都御魂剣の神霊)を伴って出雲に出向き、稲佐の小浜に降り立ち、長刀を波頭に逆さまに突き立てて、その切っ先にあぐらをかいて、葦原中国を天照大御神に譲るように迫りました。高千穂の天照大御神と同盟を結んでいたタケミカズチは、常陸国から空を自由に駆け巡る天鳥船に乗って常陸からやってきて、稲佐の浜に降り立ち、十拳の剣に胡坐をかきました。(布都御魂剣は石上神宮に祀られております。)そのときに、大国主命の長子であらせられる事代主命は、美保ヶ崎にでて釣りをされて居ました。大国主命は、天鳥船神をして及びお呼び返しになり、天照大御神の御旨を告げ相談したところ、事代主は‘直ちに従い奉るべし‘と一言のもとに仰せになり、海の彼方へ立ち去りました。第二十一代雄略天皇(倭王武)が葛城山に猟に出かけられたとき、天皇に似た人が現れ‘吾は一言主神‘と名乗られ、天皇と共に猟されたが、一頭の鹿を追って矢を射るのに、互いに譲り合われ、逢仙のようであったそうです。この一言主神社から分霊を移したのが、茨城県常総市にある一言主神社で、809年の真冬に生えた光り輝く筍が数夜にして不思議な三つ又の竹になり、そこから託宣があり、祀られました。三つ又の竹が現れたという縁のある13日に毎月‘月次祭(つきなみさい)‘が行われております。「一言の願いもおろそかにせず、願いを叶えてくださる」と言われる事代主神を祀っております。1世紀に、大国主の国譲りを成功させたタケミカズチと経津主は、天照より東国進出の命を受け、現在の神社の地で王として君臨し、ここを拠点にして東日本を平定しました。経津主は、海路から利根川に入り、現在の香取神宮の地に陣地を構えました。香取神宮は、朝廷や歴代幕府から鹿島神宮と同様に尊崇されました。下総の開拓神でもあり、1世紀頃にタケミカズチと共に関東・東北を平定しました。
鹿島神宮宮司出身の中臣鎌足は、日本で天皇家に次ぐ最も高貴な一族である藤原千年の繁栄の礎を築いた人物でであります。中臣氏は名家で、その先祖は、鹿島神宮のタケミカズチ大神と思われます。また、藤原氏が百済との関係が深いことから、中臣鎌足は百済王の可能性も高いと思われます。
筑波山神社は、男体・女体のその山容から、出雲大社と並ぶ‘縁結び・夫婦和合‘の神様であります。東日本最大の埼玉古墳群は、雄略天皇より給わった鉄剣が出土したことから、大和政権支配下の東日本の大豪族のものであることが分かります。毛野氏の子孫ではないでしょうか。茨城県笠間市にも出雲大社常陸分社があり、島根に負けない6トンの注連縄があり、初詣には恋愛成就祈願の若者たちで賑わっております。茨城県の大洗磯崎神社には、大己貴命が降臨されましたが、このことは、大国主が若い頃、常世国と呼ばれていた茨城県に船でやって来たことを物語っております。
国津神の首領である大国主命の息子の武ミナカタ神と相撲を取り、鹿島神宮の神様がいとも簡単に投げ飛ばしてしまいました。これが、日本国国技である相撲の始まりとされています。さらに、双葉山を輩出した立浪部屋はつくばみらい市にあり、白鵬の連勝を止めた稀施の里関の出身は、茨城県の牛久市です。牛久市は鰻丼の発祥の地であり、河童伝説や日本発のワイン製造所があることでも有名です。私の産土神の鹿島神社でも子供相撲が神事として行われていました。大相撲には、春に神宮場所があります。全国高校相撲大会も伊勢神宮で行われております。相撲と神様の関係や相撲と常陸国の関係もおもしろいですね。69連勝を偉業を成し遂げ、心技体ともに完成した史上最強の横綱と言われた双葉山は、八幡宮の総本宮である宇佐神宮のある大分県宇佐市の出身です。11代垂仁天皇の時代には、ノミノスクネとタイマノケハヤの相撲の上覧試合が行われていました。鎌倉や室町の頃には、神事や余興として競技化され、相撲取りは職業として成立してゆきました)。大山には、国引神話があります。大国主があまりにも国が狭いので諸国の余った土地を継ぎ足そうと、三瓶山と大山に縄をかけ、国来・国来と唱えて引き寄せました。そして、史上初めて西日本から北陸にかけて統一したのです。
日本三大霊山である白山は、イザナギが黄泉比良坂で出雲の熊野大社の地にあった黄泉の国に住んでいたイザナミに追いつかれ、巫女である菊理姫尊(くくりのみこと)が現れ仲裁し、イザナギを無事に現世に帰しました。イザナギは、晩年を近江の多賀で過ごしました。多賀大社は、日本三大聖地の一つである。イザナギノミコトは、淡路島に幽宮を建てて鎮まりました。また、イザナギが茨城県土浦市の現在の筑波山南麓の清滝寺の山に鉾を立て、瀧が湧き出したという神話が残っています。筑波山神社は、元は筑波男神・筑波女神を祀っておりましたが、現在はイザナギ神宮・多賀大社に次いで、イザナギ・イザナミ両神を祀る神社としては日本有数です。元熊野は、日本火出一之宮にして出雲国一之宮のスサノオを祀る出雲の熊野大社です。
4世紀、紀伊の熊野で印度の裸形上人が那智ノ瀧で修行を積み、滝壺で観音菩薩を感得し、これを本尊として草案を営んだことが青岸渡寺開基とされる。那智山に48ある瀧での瀧篭行は、役小角・空海も行いました。元出雲は京都の出雲大神宮である。熊野の神倉神社と同じような巨石があるのが、ニギハヤヒが天の岩船に乗って河内国河上孝ヶ峰に降臨された磐舟神社である。ニギ速日命こそ物部氏の先祖であり、神武東征以前より奈良に住んでいた豪族であることが伺えます。さらに、布留式土器が前方後円墳や三角縁神獣鏡のように全国に分布していることから、初期ヤマト政権が全国の豪族達に配ったものと思われます。また、布留遺跡の存在から旧石器や縄文からこの地に多くの人々が暮していたことが分かります。
茨城県下妻市には、関東最古の八幡宮にして、宇佐に次ぐはこ崎・防府・石清水・鶴ヶ丘・富岡・大宮・那須・大崎・函館と並ぶ大宝八幡宮があります。ここの麓は、騰波淡海と呼ばれる海でした。その名残が小貝川なのです。協和の久地良まで海だったそうです。明治を代表する詩人である筑波領詩人横瀬夜雨がよく海を詩に取り上げています。明野の海老ヶ島や岩瀬の磯も海の名残であります。八幡宮は、光明皇后の誕生と同じ701年の創建です。近くの高道祖神社は、子授けの神社として有名です。
光明皇后は、茨城県の雨引観音に奈良からはるばる子供の祈願に来られ、今でも雨引観音は茨城を代表する御宮参りの名所となっております。また、妊娠5ヶ月の戌の日参りも人気があります。茨城県は、全国でも雷の多い県で、最強の雷神であるタケミカズチが宿っているのも頷けます。話は戻りますが、タケミカズチは大国主命の息子の神を信濃の国の諏訪湖畔まで追い詰めましたが、降参し、建御雷大神の理解と思いやりの上に、円満に葦原中国を皇孫に捧げ奉らしめ、皇孫の国たるべき日本建国の基を御築きになり、国土開拓の大業を完遂されて、天皇を中心とする我が国体の確立に挺身なされた建国の大功神であります。このことは、日本で初めて西日本を平定したのが大国主命で、国譲りの後、鹿島神宮・香取神宮の地を拠点に、東日本を初めて平定したのが建御雷大神と経津主大神であることが読み取れます。国譲り・神武東征と、この世から「戦争」を止めさせるタケミカズチの霊力神威は偉大と云うほかはない。また、出雲の大国主命は国譲りの代償として高さ48メーター・階段100メーターの日本最大の大社を建立させました。そして、日本の‘神道を担当しました。
話は、国造りに戻りますが、オオナムジ‘は大山の頂上で国造りの会議をしました。大山の大神山神社の神主は、2000年前に実存した大国主命の子孫であられます。2000年前に奈良県一宮の大神神社が創建されたことから、紀元前後の頃に大国主が実存したことは確実であります。さらに、スサノオの娘と結婚していることから、スサノオが紀元前1世紀頃に出雲の王として君臨していたことも確実です。スサノオがオオナムジに国造りを託したのです。大和国王第八代孝元天皇の御代に、大己貴命が三百余りの家来を連れて能登半島に来て、この地を平定したのが気多大社のはじまりです。さらに、オオナムジは、西日本一帯を平定し、西日本各地の女性と結婚して181人の子を授かりました。今でも、ケニアのアリクさんが100人以上の妻を持ち、160人の子がいるそうですから、大国主の181人は事実です。現に、平安時代まではおおらかで、不倫は悪いことではありませんでした。さらに、出雲に184社の神社が存在しますが、伊勢よりも多いのです。大国主命は、日本の初めての大王で、出雲は正に日本の最初の首都でした。大国主命の別名は、八千矛で、鉄生産で国を拡大していったと思われます。これは、スサノオが退治したタタラ鉄集団の技術を拡大させたものであります。さらに、弥生からの玉造りが盛んだった玉造の勾玉を、日本中に広めました。勾玉は、魂の形といわれておりますが、道教の大極の形にも似ております。出雲特産の勾玉は、奈良・平安時代の重要な祭祀の場でも天皇の霊力を高めるため用いられました。三種の神器の一つ‘ヤサカニノ勾玉‘の原点も出雲なのです。正に、出雲は日本の聖地だったのです。天ムラクモノ剣も、出雲の地で発見されました。日本文徳天皇実録(871年)によると、大己貴命(大国主)は、常陸国の少彦名大神と共に国造りに励まれました。少彦名大神は、茨城県の酒列磯崎神社に本拠を構えて、出雲と同盟を結んでいた常陸国の王だったと思われます。そして、大己貴命は、国造りを終えられた後、大和の三輪山に自分の幸魂・奇魂をお祀りになられました。このことは、大己貴命が出雲から、近畿一帯を支配したことを覗わせます。10月の神無月には出雲に日本全国津々浦々の神々が出雲に集まり、縁結びなどを決めるそうです。平成4年には、日が沈み休まる国・出雲の地から信濃の諏訪大社を通り、直線で結ばれた日が生まれる国・常陸国笠間へと大国主命の御分霊がうつされました。三大出雲大社に数えられております。
天照を岩戸から出すために、常陸国の鶏を鳴かせました。宗像大社は、スサノオとの誓約のとき生まれた天照の三皇女を祀り、歴代天皇をお助けし、歴代天皇から篤いおまつりを授けられよと言われました。
八岐大蛇は、大蛇などではなく、‘洪水の斐伊川‘のことで、高千穂を追い出されたスサノオが斐伊川の治水事業が成功した暁にはクシナダヒメを妻に迎えたいと言ったのである。しかし、須佐神社に伝わっている八岐大蛇の骨格の一部が実物なら本当に存在したことになります。櫛名田姫の父は、瀬戸内海の大山つみ神社の子である足名椎・手名椎で、出雲に移住したのである。ニニギノ命に嫁いだ木花之咲や姫も大山津見の子である。斐伊川は、中洲が非常に多くあり、現在でもその流れは八俣に分かれているのである。それを、大蛇に例えて物語を作ったのであります。あるいは、出雲国に肥河に辿りついた須佐之男命が、河上に若い娘と泣いている足名推と手名推がいたので訪ねると、朝鮮半島からやってきた鉄を造る集団がいて、年毎に娘を差し出すしかなくて、最後に残ったこの櫛名田ひめも差し出すしかないのですと答えました。須佐之男が私の妻にくれるのなら、鉄製造集団を退治しましょうとおっしゃられました。二人は、須佐之男が高千穂の天照大御神の弟と知って了承します。須佐之男は、足名推に‘8人分の酒を用意して待っていればいい‘と言いました。すると、八俣遠呂智を首領とする鉄の集団が現れました。(斐伊川上流は、砂鉄が取れ、河の石が赤くなり、鉄の高炉は目のように赤いのです。八岐大蛇の描写はこのことを表現しているのです。)この集団が酔って寝たところを須佐之男が襲って退治したのです。この鉄の集団が隠し持っていた剣が‘天ノムラクモの剣‘(銅剣か鉄剣か)であり、高千穂の天照大御神に献上されたのです。近年、斐伊川周辺で多量の鉄剣が発掘されていることから、朝鮮半島からやってきた‘たたら製鉄‘の技術者8人が、スサノオに退治されたことは明らかであります。このことから、斐伊川近くの荒神谷遺跡の銅剣358本は、スサノオノ命の集団のもので、製鉄集団退治まで銅剣が主流だったことが分かります。さらに、358本もの銅剣が出土した荒神谷遺跡は、正にスサノオが出雲の大王だった当時の遺跡と思われ、スサノオや大国主の時代の出雲は、当時の日本最大勢力だったのである。スサノオとクシナダヒメは、八重垣神社で結婚して、須我神社で愛の巣を構えました。天照大御神は、弥生時代に現在の高千穂に実在した女王様兼巫女であり、高千穂の天岩戸(天岩戸神社に実存する)に実際にお隠れになられ、高千穂の天安河原で実際に相談があったのです。父のイザナギから追い出された須佐之男命は、高千穂から船で瀬戸内海の大山津の子が暮している出雲の地へやって来たのです。須佐之男が初めから携えていた剣は、布都シ御魂大神として奈良県の石上神宮に祀られました。古代では、人を神と表現したのであり、歴史を解明すれば、神話の神々も実存した大王や人であることが分かるのです。
また、鉄生産によって拡大した東出雲地域の中心地だったのが、出雲国一ノ宮である熊野大社周辺であります。出雲の潜戸(くけど)の洞窟は、神ムスヒの子であるクサカヒメが佐田大神を生んだ場所であります。
須佐之男命は、櫛名田ひめと住む場所を出雲の地に求め、{わたしは、この地に来て、心爽やかで気持ちがよい}と宮殿「須我神社」を立ち始めます。すると、そこに雲が立ち登り

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

と日本初の和歌を作ります。日本の詩は、筑波山の神が倭タケルに作らせた連歌など神が創造した素晴らしいものなのです。雲多く湧き起こるという出雲の名にふさわしく、湧き出る雲が織り成す八重の垣よ、妻を静かに籠らせようと雲はつくるよ八重の垣。ああ、その八重の垣よと歌ったのです。入道雲の季節かもしれません。スサノオは、海神でもあります。神無月に出雲に集結した神々は、斐伊川の神立橋より全国津津浦浦へ戻っていかれるのです。かつて、天照とスサノオが誓約を交わした際に出現した天日穂命に地上界を支配させようと派遣した(高千穂から天皇の先祖が出雲を平定しようと派遣した。)が、大国主に従ってしまいました。この天日穂命の子孫が、崇神天皇が常陸を平定するために派遣した比奈良珠命であり、新治国造となられたのであります。そして、倭建の東征の折に井を掘ったことが常陸風土記に記されております。ます。ニニギを派遣し、誕生した初代神武天皇が奈良に入るまえに、ニギハヤ日が先に大和に降臨しており、土着のナガスネ彦の娘を妃に迎えておりましたが、神武天皇の到着を待って大和をお譲りになられました。ニニギの降臨のあと、高千穂より鹿島の地に建雷大神を鹿島の地に、経津主大神を香取の地に派遣なされ、東北平定の基地としたのです。スサノオが退治したのは、大蛇ではなくてヒイ川下流の止水を成し遂げたのです。クシナダヒメは。田圃の神であり、農耕に起源であります。ちなみに、京都の八坂神社は、朝鮮半島の牛頭山に坐したスサノオを祀ったのが始まりであります。
アマテラスが高千穂の岩戸にお隠れになられたのは、皆既日食のことであります。また、太陽の活動の低下によって、宇宙線が大量に地球に入り、大量の雲が発生して日射しを遮ったのかもしれません。この天岩戸神社の仰慕窟(ぎょうほがいわや)も、天岩戸神話の故地と伝わっております。天照がスサノオと誓約(うけい)を交わした際に剣から生まれた三女神は、宗像大社に祀られ、海を守護しております。このほかに、海上守護の神では、瀬戸内海の大山つみ神社も名高い。三嶋大明神ともいい、武家や水軍から篤く信仰されました。宮崎県には、椰子の木が生い茂り、日本の南国で、太平洋に面しているため太陽が昇る国であり、日向の高千穂に天照大御神が女王様として君臨していても不思議ではありません。
神産巣日の子孫である少彦名命が常世国(茨城県)から大国主の国造りを手助けするために、天羅摩船(アマノカガミノフネ)に乗ってやってきました。少彦名は、大国主が大分県の速水の湯を運び、湯浴みで治療されました(伊予国風土記)。このことから、温泉の神様になりました。そして、国造りの途中に常世の国に帰りました。大国主が治めていた播磨国に進出してきた新羅の王子であるアメノヒボコと戦いました。アメノヒボコは、吉備から攻め込んでこた可能性が高く、二世紀の倭国大乱の時である可能性も高い。 この後、大国主命の幸魂・奇魂は2000年に、大国主自身によって、大和国にある三輪山に祀られ、日本初の神社である大神神社が建立されました。出雲大社をも凌ぐ出雲国一之宮である出雲の熊野大社は、古代出雲文明発祥の地に建てられ、スサノオノ命が祀られております。また、出雲の地には、イザナギとイザナミの神話の地である黄泉比良坂があります。712年(和銅5年)時の女帝元明天皇へ太安万侶が古事記三巻献上しました舎人の稗田阿礼の口承した伝承を太安万侶が選録し、完成させた古事記は、神話、伝説、信仰、祭祀、芸能など日本文化全般に及ぶ記述から仏教・道教・儒教といった外来の宗教・思想などが記されております。上巻(かみつまき)は、神々の神話が展開され、中巻は、神武天皇から十五代応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から第三十三代推古天皇まで記されています。その後の時代に初代神武天皇が宮崎県より熊野に上陸され、大和国の王になりました。そのあと、第七代孝霊天皇の皇女である卑弥呼が巫女として女王になるまで、70~80年戦乱の世が続きました。その頃の天皇陛下は、大和国の王に過ぎませんでした。第七代孝霊天皇の皇子は、桃太郎のモデルである五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)=吉備津彦命であります。猿のモデルとなったささ森彦命(奈良県十津川地方の住民)や犬飼建命(岡山県の犬飼い一族)や鳥(淡路島または摂津の鳥飼い一族)などの側近を連れて、朝鮮半島から渡来して吉備を支配していた豪族‘温羅‘を平定しました。ささ福神社には、温羅退治に成功し、その一番の貢献者である第七代孝霊天皇を主神とし、その御一族を守る旧県社です。古くは、鉄生産の祖先神として崇敬された日野郡開拓鎮護の総氏神であります。温羅は、朝鮮半島より製鉄の技術を伝え、当時、朝鮮半島から伝来した鉄生産地は、砂鉄の原料に恵まれ古墳時代以降に現実に鉄生産が始まったの吉備・出雲であります。卑弥呼共立直前までの倭国は、吉備・出雲が鉄生産を抑えて勢力を拡大していき、大和と並ぶ勢力を誇っておりました。吉備は、もともと大国主命の支配下にありましたが、温羅が大陸文化や鉄生産などを伝えて王として吉備の国を治めるようになりました。温羅は決して鬼などではなく、吉備国が製鉄の技術を持っていたため、邪馬台国(大和朝廷)には砂鉄や鉄の鉱脈がなく、鉄を持っている吉備国の力が欲しかったのではないでしょうか。また、鉄から武器を製造することが出来るため、吉備を恐れて平定しなければと、崇神天皇が卑弥呼の兄弟にして孝霊天皇の皇子である吉備津彦命を派遣したのではないでしょうか。瀬戸内海の航路を押さえるためや鉄資源を得るため・初期大和政権が日本を統一するために犠牲になっただけのです。鳥取県のささ福神社には、鬼(渡来人か)退治に成功した第七代孝霊天皇が祀られており、鉄生産の祖先神として崇敬され、因幡伯耆国日野郡開拓鎮護の総氏神になっております。このことは、弥生時代に出雲文化圏の伯耆国が、出雲国東部と同様に鉄生産が盛んで、孝霊天皇以後の初期大和政権が伯耆・出雲・吉備を平定して、鉄資源を確保したことが伺われます。鉄が朝鮮半島からもたらされていたことは、スサノオが渡来人の可能性が高いことを伺わせます。孝霊天皇の皇女こそが卑弥呼で、皇子が吉備津彦命であります。古代から現代まで勝った者が正義で、負けた者が犠牲になってきた経緯があります。蘇我氏や天草四郎は、正しかったにもかかわらず。実際、邪馬台国(大和国)は吉備を制圧したことで、九州及び朝鮮半島への航路を確保しました。このことから、鉄や当時の先進国だった中国からの物資を海賊から守るために、大和を中心に吉備や出雲など30の国の豪族が団結して卑弥呼(倭トト日百襲姫命)を共立して、初期大和政権を奈良のマキムクに築いたのです。マキムク遺跡が藤原宮に匹敵する巨大な規模を誇ることからも、事実であります。吉備は固有の古墳文化を持っていた。鬼ノ城(総社市・全長2,8キロメーターの城壁の跡が残っていて、1300年前の風土記編纂の頃、大和政権が白村江の戦いの後に国土防衛のために数多く造られた朝鮮式古代山城の一つである)から見渡せる場所に日本最大級の造山古墳もあります。吉備式土器は、出雲からも出土しているので、同盟のような深いつながりがあったことが伺えます。さらに、巻向に遷都する前の邪馬台国の中心地だった唐古・鍵遺跡からも吉備式土器が出土しているので、兄弟の吉備津彦が吉備を平定した後、卑弥呼のもとに土器を貢物して献上したことが伺えます。西日本屈指の知名度を誇り、吉備津造りと呼ばれる比翼の破風を持つ吉備津神社には、吉備津彦命が温羅との戦いの際に矢を置いた‘矢置岩‘があり、周辺には‘矢喰の岩‘も残っております。倉敷市の楯築遺跡(楯築式弥生墳丘墓)の巨大な立石は、吉備津彦が温羅との戦いの折に築いた石の楯と語られています。また、鯉喰神社は、吉備津彦命が温羅を追い詰めた場所に創建されました。吉備津神社の全長360メーターの回廊の先にある御釜殿の下は、当時温羅の首が埋められた場所であり、ある夜、吉備津彦命の夢の中に霊になった温羅が現れて、「吉備津彦よ、自分の首をこのおかま深く埋めて、妻(阿曽(あぞ)地方に住んでいる女性)に自分の世話をさせてくれ。そうしたなら自分がかま中からボーッという音を鳴り響かせて吉凶の占いをしよう}と妻に奉斎をゆだねるよう告げたことから、吉備津神社の鳴釜神事(釜でお湯を沸かし、米などを入れた蒸籠(せいろ)を据えて、立ち響く音で吉凶を占う)が執り行われるようになりました。吉備津神社の社殿内には、温羅を祀る祠があります。卑弥呼(倭トト日百襲姫命)と桃太郎(吉備津彦命・第十代崇神天皇の四道将軍の一人)は兄弟だったのである。このことからも、孝霊天皇の実存は確実であります。英雄吉備津彦命は、吉備津神社と吉備津彦神社に祀られております。第七代孝霊天皇の皇女である卑弥呼が共立されたこととと、崇神朝に四道将軍(よつのみちしょうぐん)や豊鍬入彦命が派遣されていることから、第七代天皇までが天皇が‘大和国の王‘で、第十代崇神天皇あたりから天皇が正に‘日本の王‘になったことを史実物語っております。四道将軍の一人である北陸平定担当の大彦(大毘古命)と武沼川別(大彦の子)は、関東が乱れているため、新潟県との国境付近にある御神楽岳(相津)で合流しました。この後も、関東を平定するために豊鍬入彦命が派遣されております。また、相津で合流したおやこは、伊佐須美神社にイザナギとイザナミを祀っております。この近くには、4世紀中葉に築造された東北最大の前方後円墳である会津大塚山古墳が存在しており、大和から派遣された豪族の王の墓であると思われます。埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘(五世紀)にオオヒコと刻まれており、大彦の実存は確実であります。、即ち神武天皇から九代天皇までの実存も確実であります。さらに、崇神天皇に御神託があり、皇子豊鍬入彦命を関東に派遣されました。
大国主命の長子であらせられる神の事代主命は、出雲の美保神社と奈良の一言主神社と奈良の邪馬台国支配下の最も東の国であった茨城県の一言主神社に祀られております。また、鹿島神宮の神様に負けた出雲の大国主の息子の神様は、諏訪に住み着いて狩猟と農耕の大明神として、信濃国一宮の諏訪大社の上社と下社に祀られ、日本一勇壮な御柱祭が始まりました。御柱祭は、本社のみならず、信州一帯の諏訪社でも行われます。鹿島神宮の神と諏訪大社の神が、相撲を取って勝負を決めたことから、御柱の起源はこのときの土俵柱だ言われています。また、鹿島神宮には御船祭があり、12年に一度午年に執り行われる神事で、鹿島神宮と香取神宮の神様が海で出会う日本最大の規模と華麗さを誇る水上祭です。毎年三月に行われる勇壮な祭頭祭は、奈良時代の防人の出発(鹿島立ち)と帰還の様子に由来する祭りとされており、国の選択無形文化財になっています。五色のたすきをかけ色鮮やかな衣装を身に着けた囃人が、樫棒を組んでは解きを繰り返しながら、街中を練り歩きます。この勇壮なお祭りを一目見ようと、県内外から毎年三万人の見物客が訪れます。鹿島地方に春を呼ぶ伝統あるお祭りです。また、伊勢参りと並ぶ奥参りの出羽三山も丑年が御縁年になっています。鹿島神宮の歴史は、応神天皇の御代に祭典化されたと伝えられ、「我が朝第一の祭礼」と宣伝されていました。また、毎年春には勇壮な祭頭祭が行われます。旅の安全を祈る‘鹿島立ち‘という言葉は、防人たちが鹿島の祭神に武運長久を願って出征していったことが由来です。また、鹿島神宮の神様は初代神武天皇を助けた神様としても有名です。祖神ニニギノ命が高天原から三種の神器を携えて‘筑紫の日向の高千穂峰‘に降臨しまして、初代神武天皇が誕生しました。ニニギは、愛媛県の大山つみ神社や三嶋大社に祀られている大山積神の神の娘にして絶世の美女、富士山本宮浅間大社に祀られている木花佐久夜姫と結ばれました。(偉大なる山の境界線の杭を表す大山クイの神は、近江の日吉大社と京都の松尾大社に祀られております。ニニギの前にニギハヤ日が、河内国河上に降臨しております。
日本三大霊山は、富士山・立山・白山である。 日向(ひむか)とは、南九州全体を指している言葉です。宮崎市には、神武天皇のお宮の跡に建てられた宮崎神宮があります。神武天皇の兄イツセは和歌山市の水門で亡くなり、竃山神社に祀られました。神武天皇は宇陀盆地で闘われました。そして、大和で皇后陛下をお求めになり、三輪の神の娘と結ばれまして、三輪の神が天皇家の守護神となったのです。もともと大和を支配していたのは、物部氏の先祖にしてニニギの兄に当るニギ速日命でありましたが、神武天皇に大和国をお譲りになられました。崇神天皇の御世に、疫病が流行り、崇神天皇が憂い嘆いて、神のお告げを聞こうとして、くる日もくる日も真っ暗な殿の内に設けられた神床に座り続けていたところ、大王がまどろんだすきに大物主神が夢の中に顕れて「この疫病を鎮めるには、大田田根子をもって我が前を祀らしめたなら、ば、神の気は起こらず、国は安らかに平らかになるであろう」とお告げになられました。そして、大田田根子を召して大物主を祀らせたところ、疫病がしずまりました。大田田根子は、三輪山を祀る{神(ミワ)の君}の祖であります。天照大御神と倭大国魂神を一緒に祀っていることが災いの元で、天照は、近江。美濃。笠縫邑と移されました。そして、雄略天皇の基に託宣がおり、丹波国から豊受大御神を伊勢に迎えて祀ったのです。古代の天皇は、シャーマンでした。崇神天皇と叔母の卑弥呼共にシャーマンだったのです。日本だけでなく、世界のあらゆる未開の王はシャーマンでなければ王になれませんでした。崇神天皇の磯城瑞宮は、水垣郷内にありました。マキムク石塚古墳は、三輪山を意識して築造されています。雄略天皇の命令で少子部連スガルが三輪山の神を捉えてくる有名な話もあります。飛鳥のキトラ古墳は、インカやエジプトのピラミッドの似ており、大宝律令を完成させた刑部皇子もしくは高市皇子の墓と思われます。古代中国や日本では、北斗七星は不動の星で天子や天皇を顕していました。奈良県桜井市の長谷寺は天武天皇の病気平癒を祈願したことが始まりとされ、686年に創建されました。721年には一本の楠の木から二体の観音菩薩を彫り、片方は国民の平和を祈願して海に流されました。そして、736年に三浦半島に漂着し、現在の長谷寺の地に祀られました。藤原京を営んだ天武天皇の皇后にして、天武天皇の意志を継ぎ次期天皇になった持統天皇は国民も自分も同じ人間なのだという強い意志で自ら望んで火葬されました。天武天皇は、壬申の乱の時、不破の関を閉鎖して、瀬田の唐橋で勝利して天皇となられたのです。藤原京の南に位置するこれらの皇族の墓を繋ぐと北斗七星になるのです。また、空海も北斗七星を信仰していました。空海は、筑波山に密教修行道場を開きました。
天皇家の祖先神話ですが、火遠理命が釣り針を探しに海神(ワタツミ)の元に行き、豊玉姫という女神と出会いました。そして、豊玉姫が妊娠されて、慌てて産屋を作ると、鮫になってのたうちまわって赤ちゃんをお生みになりました。即ち、神武天皇の父は海の神である鮫からお生まれになられたのです。そして、豊玉姫は、妹に子を託して千葉県の玉前神社の地に送ったのです。火遠理命がワタツミノ国から帰り辿り着いた所が現在の宮崎市の青島であります。これらの話は、浦島太郎の物語のモデルになりました。ワタツミノ国は沖縄県で、竜宮城は‘波上宮‘であります。波上宮は、流球独特の信仰である‘海神の国‘の神々に祈りを捧げる斎場が起源であります。もしくは、和多都美神社がある対馬の可能性も高いと思います。
そして、神武天皇は、陸の神である蛇の子のイスケヨリヒメと結婚して子孫を残しました。日南市の鵜戸神宮は、神武天皇の祖母神である豊玉姫神が天孫の御子をお生みになられた地に建てられました。豊玉姫は、志賀島に帰り、妹を送って神武天皇の父を養育させました。鹿児島県霧島市には、神武天皇の祖父神である‘火遠理命‘の宮殿だった高千穂宮を神社にした鹿児島神宮があります。鹿児島神宮は、神武天皇が祖父神火遠命とその后豊玉姫神が祀られました。宮崎県の南端に浮かぶ青島全体を神域とし、火遠理命の宮居だった青島神社もあります。宮崎市の佐野原神社は、神武天皇ほか三人の皇子が誕生した地に祀られました。千葉県一宮市の玉前神社から戻った玉依姫は、神武天皇を宮崎県西諸県郡高原町の皇子原神社で生みました。宮崎神宮は、神武天皇が日向の王だった頃の宮殿だった所に建てられました。神武東征は、同盟を結んでいた国々に立ち寄り、奈良を平定して奈良の王になったということである。そして、都農神社で国土平定を祈願なされました。そして、宇佐に立ち寄り、北九州市の岡田宮で1年過ごし、広島の多家神社に寄り、岡山市の高島神社で8年滞在されて奈良平定に備えたのです。311基もの古墳がある宮崎県西都市の西都原古墳群は神武天皇の子孫のものと思われます。天孫降臨地とされている宮崎県北部の高千穂には、天照大御神がスサノオノミコトの乱暴にお怒りになって閉じこもられた天岩戸がございます。この時、タジカラオが投げ飛ばした岩が信濃の戸隠山である。北アルプスの穂高岳の穂高見神(ホタカミノカミ)は、海の神である綿津見神の子である。高千穂神社の創建は垂仁天皇の御世で、伊勢神宮と同時期に社殿建立となりました。元伊勢は、三輪山の桧原神社で、天の橋立のたもとに或るある籠神社などを点々とされました。高千穂に伝承されている夜神楽は、天照大御神が高千穂の天岩戸にお隠れになられた折に高千穂の天の安河原で神々たちが相談され、岩戸の前でアメウズメノミコトが舞ったのが始まりと伝えられ、農閑期となる11月から2月の間、秋の実りに対する感謝と翌年の豊穣を祈願するものです。神天孫降臨の物語を中心に33の演目があり、平安時代から続けられております。また、ニニギノ命が降臨された時、高千穂に水がなかったため、高天原に使者を遣わして天照より水の種を賜りました。この種が湧水して、やがて真名井の瀧になって大地を潤しました。ニニギの妻は、瀬戸内海の大王だった大山津見神の娘で、木花之咲や姫であります。天照がスサノオの乱暴にお怒りになって高千穂の天岩戸にお隠れになって、日本は闇に包まれました。この天地創世以来の最大の危機に、八百万の神々が集まり、協議したのが高千穂の天安河原であります。和歌山県の日前神宮(ヒノクマジングウ)は、天照を天岩戸から出すために用意された八たの鏡のモデルとして造られた二枚の鏡が祀られております。宮崎市の青島は、ニニギの息子である海幸彦・山幸彦兄弟がお互いの仕事道具を交換したことから始まる兄弟喧嘩と仲直りの神話の舞台であります。火遠理が行ったワタツミ国は、57年にナ国王が給わった金印が発見された志賀島であります。志賀海神社は、海神の総本社・龍の宮であります。神功皇后が対馬で鹿狩りをしたときの鹿の角一万本が奉納されました。豊玉姫命の妹の玉依姫命は、九十九里浜の一の宮市に上陸し、姉の豊玉姫命から託された甥の鵜茅葺不合命を養育しました。後に玉依姫と甥は結婚して神武天皇を生みました。二人が暮した場所が玉前神社と思われます。そして、神武天皇は、故郷高千穂に戻り、奈良を目指して、奈良の王様になったのです。1~2世紀の事実と思われます。
高千穂には、神武天皇の孫の健磐龍命(タケイワタツノミコト)が阿蘇に向かう途中、立ち寄って国見をされたという国見ヶ丘もあります。それから、阿蘇を開拓されました。神武天皇は、大和入国を目指して海を渡って熊野灘沖から那智の滝を仰ぎ見て那智の滝に上陸され、瀧に神霊を感じ、まず那智の瀧をお祀りになられました。仁徳天皇3年(5世紀)に創建された熊野那智大社には、イザナミノ命が祀られております。ここからも、熊野が黄泉の国であったことが伺えます。‘甦り‘という言葉はここから生まれました。熊野那智大社には、神武天皇を導いたヤタガラスの化身である‘烏石‘があります。また、那智山青岸渡寺は、四世紀にインドから渡ってきた裸形上人が那智の瀧で修行し庵を結び感得した如意輪観音を祀ったのが始まりで、西国霊場一番札所であります。栃木県の那須神社も、4世紀後半の仁徳天皇の御世の創建でありますが、坂上田村麻呂が東征の折、大分の宇佐神宮の分霊を勧請し、那須八幡宮としました。。熊野市の‘花の窟神社の御神体は、40メーターにも及ぶ巨大な岩くらで、日本書紀ではイザナミノミコトが葬られた場所として登場し、日本最古の神社と言われております。熊野が「蘇りの地」と言われる理由がこの神社にあります。神武天皇は、熊野に上陸されてすぐ、日本一美しい滝に出会いました。
それから、神武天皇は、景行天皇52年(4世紀前半か)に創建された熊野速玉神社の御神体である神倉山のごとびき岩にお登りになられて、一帯を眺められました。その後、熊野の山で敵の毒気にやられて心気朦朧となり衰弱死しそうになりました。心配された天照大御神と高木神は、タケミカズチに行ってあげるようにと申されると、‘私が参らずとも、国譲りの時に使った神剣を下しましょう‘とそのとき、天空よりまっすぐに強烈な雷電の宿った光り輝く神剣がおりてきました。そして、高倉下がタケミカズチの分身の神剣を一振りすると、神武天皇の周りに次々と雷が落ち、フッと言う音の間に間にツッと天空より光が降り輝き、敵はみるみる斃れてゆきました。神武天皇に執り付いた邪悪な気をことごとく焼き祓い浄化してしまう雷電の強烈な一撃である。(熊野本宮大社は崇神天皇65年に創建されました。)そして、神武天皇は剣の神威によりみるみる体力を回復され、ヤタガラスに導きによって無事に大和の国に入国され、建国創業の第一声を上げられたのです。奈良県の宇陀市にヤタガラス神社があります。神武天皇は、当時大和の大王だった兄弟のニギハヤ日命(物部氏の祖先)の側近だったナガスネヒコに抵抗されましたが、これを平定し、ニギハヤ日を服属させて即位後‘鳥見霊ジ(とみのれいじ)で初めて祀りごとをされました。現在の橿原市とその周辺が初期大和政権発祥の地となっております。唐古・鍵遺跡の大王は、大国主かニギハヤ日かナガスネヒコと思われます。物部氏の遺跡は、天理市の布留遺跡ですが、布留しき土器も、卑弥呼の時代からの鏡や前方後円墳と同様に初期大和政権の全国支配を象徴しております。景行天皇は、物部氏から妃を迎えております。
武御雷大神の御神恩に感謝された神武天皇は、御自らの御即位の年皇紀元年(現実的には紀元61年)に、使者を遣わしてタケミカズチノ大神を鹿島の地に勅祭され、鹿島神宮を創建しました。神武天皇を救った日本最強の神剣‘布都御魂剣(フツミノタマノツルギ)‘は、邪馬台国があった奈良県桜井市の石上神宮の神体山に埋められました。さらに、鹿島は剣術発祥の地であります。日本書紀において、‘神宮と書かれているのは伊勢と石上神宮のみで、大変な神格を誇る神社であります。石上神宮は、四世紀に創建され、筑波山神社・大神神社・鹿島神宮・香取神宮・宗像大社・出雲の神社群などに次ぐ古いの神社の一つであります。この後も、タケミカズチは物部氏が奉じる大和朝廷の守護神として、東北経営に大きな力を発揮されました。現在でも、鹿島神宮は天皇陛下勅使の神社です。神武天皇十八年には、タケミカズチと伴に出雲に出向いたフツヌシの神恩に感謝して千葉県の佐原市に香取神宮を創建されました。神武天皇は、奈良県のカシワラ神宮に祀られております。スサノオノ命が地上にお生まれになられた年代は、現実的はキリストと同時頃と思われます。皇族の記憶が薄れていたため情報がない欠史八代の天皇も確実に存在していたと思います。ただ、16代仁徳天皇までの天皇の寿命には50才~100才を足していると思われます。宮崎県の西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚は、九州最大の前方後円墳である。仁徳天皇は、日向国の豪族・諸県君牛諸井の娘・髪長媛(カミナガノヒメ)を娶られました。女狭穂塚の被葬者こそ、髪長媛であります。当時、天皇の妃が亡くなると、本貫地に埋葬される慣わしがありました。男狭穂塚は、父の諸県君牛諸井のものであります。西都原の真南には、生目古墳群があり、生目で最大の古墳が景行天皇の妃の墓であることが濃厚で、両地の深い繋がりを伺わせます。邪馬台国の女王日巫女の甥に当る第十代崇神天皇(約1700年前)は、天皇と御座を同じくしていた神剣‘布都御魂‘を大和朝廷の平国の剣として、万葉の歌人たちが歩いた日本最古の幹線道路である山の辺の道の途中にある天理市の石上神宮の祭神として奉祀したのです。物部氏の総氏神として天皇の崇敬の篤かった当時の石上神宮には、三種の神器の一つ‘ヤサカ二の勾玉‘も納められていました。島根県に物部神社があることから、物部氏の祖は、出雲から始まったのではないでしょうか。また、京都の貴船神社の由来は、神武天皇の母が‘黄舟‘に乗り、鴨川を遡ってこの地に水神を祀ったのが始まりであります。娘は、皇族の一員なので前方後円墳に葬られ、父は外戚になるので、方形部を短くした帆立貝型にしたのだと思われます。共に、全長176メーターなのが父と娘の墓である何よりの証拠ではないでしょうか。
崇神天皇(3世紀の天皇陛下)は、天照大御神(ヤタノ鏡)をもその御神威を畏み、卑弥呼(倭トト日百襲姫)の後継に当るトヨスキイリ姫命(ヒミコの後継者台与)によって皇居外の神聖な土地を選んでお祀りするようになり、笠縫邑(檜原神社)に辿り着き、磯城(しき)のひもろぎを立てました。ここは、現在でも‘元伊勢‘として崇められております。やがて、垂仁天皇の御代になり、天皇の妹の倭姫命がヤタノ鏡を託され、猿田彦神に導かれて297年に天照大御神が伊勢の地に御鎮座なされたのです。即ち、ヤタノ鏡が卑弥呼~台与~倭姫へと代々受け継がれていったのです。さらに、崇神天皇と御座を同じくしていたもう一人の偉大な神である日本大いき国魂大神は、皇女ヌナキイリヒメノミコトによって石上神宮の南、長柄駅近くの現在の大和神社の地に祀られました。布都御魂の名の示すところは、一閃すればたちどころに刀の霊魂が働き、すべての紛争を解決して平和になると云う意味である。石上神宮もまた‘神宮‘の名を許された神格の高い神社の一つです。常陸風土記には、大和朝廷の命で東征した倭タケルの武勇伝が頻出するが、倭タケルの足跡を辿った景行天皇行幸の記述は神聖さを醸しだしている。朝廷は、地方支配に鉄器・灌漑技術・織物・思想・祭祀などを広め、稲作で共同体の結束力と安定した食料生産を奨励しました。そうした外来文化からの支配は、霞ヶ浦沿岸の見られる地元の土器が、外来文化に代表される土師器へ融合する流れにも伺えます。浮島は、狭い島でありながら九つもの神社があり、代々信仰されてきた地元の神と外来の神が合祀されたと考えられます。そこには、相手と対立せずに独自の文化を育み、和の精神を大切にした古代茨城県人の立ち居振る舞いが見てとれます。風土記の時代の関東の人々は、外敵からの支配においてさえ、穏やかな精神を持ち合わせておりました。鹿島では、剣の道で精神修養を兼ねるようになって、鹿島神宮は武術家の聖地、剣道修行の道場となりました。剣術流派には、鹿島信仰と関係の深いものが多い。新陰流の開祖である上泉伊勢上や一刀流の開祖の伊藤一刀斎をも凌駕し、二天一流の開祖宮本武蔵が背後から襲ってきたところを前を向いたまま鍋蓋で刀を受け止めるシーンで有名で、剣道の最高奥義秘剣‘一の太刀‘(相手と一つになる)到達され、史上最強の剣豪にして鹿島新当流の開祖である剣聖‘塚原卜伝‘もまた剣術発祥の地にして剣の聖地でもある鹿島神宮の神官の家に生まれ、タケミカズチノ大神が守護神となったのです。現代も剣の神様と呼ばれている剣聖卜伝は、幼少よりクニナズノマヒトが神より授かりし剣法である鹿島中古流やお鹿島神道流の太刀を学び極め、17歳で武者修行の旅に出ると、真剣勝負に明け暮れ、合戦に挑み、一度も負傷しなかったという伝説的剣豪であります。卜伝の卜は、漢字の原点の甲骨文字で神の意思という意味であり、卜伝は神の意思を伝える、即ち神の剣を伝えるという意味です。また、藤原氏の祖である中臣鎌足も鹿島神宮の神官でありました。そのことから鹿島の神を春日大社にお迎えしたのです。
漢字の原型は、今から三千年以上前の中国最初の王朝である夏の次の殷の中期に発明された甲骨文字が始まりであります。当初、甲骨文字は、占いで使用されていました。雨・衆・漁・子など五千字ほど発明されました。神の意思を知るため、甲骨に焼けた青銅の棒が当てられて神の意思を知りました。甲骨は、熱すると卜の形のひびを生じます。卜は神の意思であり、卜に口(王が口にした)を付けると‘占‘という漢字が生まれました。神との対話の手段であった文字は、神聖なものでした。地球上で、音ではなく意味を表す文字は漢字のみであります。卜伝は、剣の聖地である鹿島の地に生まれ、若かりしころ塚原家の養子となり、天真正伝香取神道流を学び、生涯幾多の真剣勝負や合戦に臨みながら、一度も負傷しなかったという伝説的な強さを誇る剣豪でした。そして、1571年に八十三歳の天寿を全うしました。1992年に、卜伝は生誕500年を迎えました。ちなみに、宮本武蔵は、浄土宗の開祖となり平安末期の苦悩の日本国民の心に光を灯した法然と同じく、岡山県美作の出身であります。
767年、藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて奈良にお迎えして春日大社を創建したのです。このことから、鹿島神宮の神様の御使えは、鹿とされているのです。奈良公園の鹿は、このときの鹿島神宮の鹿の末裔なのです。鹿島神宮には、今でも鹿園があります。八幡宮の神様の御使えは鳩とされ、日吉大社や日枝神社の使いが猿とされています。大分の宇佐神宮、福岡のはこ崎宮、京都の石清水八幡宮が日本三大八幡宮ですが、これに次ぐ関東最古の八幡宮が大宝元年に築造された下妻市の大宝八幡宮であります。この頃、全国の風土記が編纂され、東北の名湯‘芦の巻温泉が発見されました。同じ福島の東北随一の規模を誇る飯坂温泉は、1400年以上の歴史を誇り、愛媛の道後温泉に次ぐ日本国最古級の温泉であります。`はこ崎宮`の応神天皇の神霊である八幡大神は、神風を吹かせて元寇を退け、日本を救った神であります。鹿島神宮の朱塗りの社殿は北を向いており、蝦夷の地を睨んで建立さたそうです。常陸国の太平洋側一帯には、鹿島の神とその御子神を祀る神社が分布しており、鹿島神が異域との境界の神、すなわちサエの神であることを意味しています。

平成神皇正統記 2010/4/9 

の不動明王が泉子育観音にまつられているのです。また、つくばみらい市の板橋不動尊は808年に空海が創建し、日本一有名な不動明王像が祀られています。伊豆の修禅寺も空海が創建し、独鈷杵で岩を打って湧き出した独鈷の湯があります。修善寺温泉は1200年の歴史を誇る名湯です。空海と同時代の坂上田村麻呂は、岩木山神社や十和田神社まで創建し、初めて東北最北部まで平定した人です。塩椎神は、実在した宮城に渡って王となった人で、東北を代表する塩釜神社の神です。
つくば市上郷にある関東三雷神の一つである金村別雷神社は931年の創建ですが、当時の領主豊田氏が京都の加茂別雷大神の分霊を祀り、五穀豊穣を祈願したのが起こりです。子宝に恵まれる神社としても有名です。鴨氏の祖は、奈良の葛城です。平将門終焉の地は、隣の坂東市の岩井ですが、将門は福島の相馬などを拠点に東日本一帯を支配し、東北最古の羽黒山五重塔を建立しましたが、935年の平将門の乱の折、空海が神護寺で彫った不動明王が関東に送られ、まもなく乱が平定されましたが、不動明王自ら関東に残るとおっしゃられました。東日本を代表するつくばみらい市の板橋不動院の不動明王は808年のもので、これも空海が彫ったのものかも知れません。
日本の考古学の原点といわれるのが、茨城県美浦村にある日本屈指の縄文遺跡である陸平貝塚です。出雲は、弥生時代前期の西川津に大規模な集落が誕生し、玉の制作が始まり、後期のガラス製勾玉も出土しています。しかしながら、茨城県かすみがうら市牛渡で3000年前の勾玉が発見され、勾玉発祥の地はここであります。さらに、3000年前に日本の山岳信仰が筑波山に始まりました。かすみがうら市の安食で縄文時代のヒスイが発見され、新潟と交流があったことが分かります。ヒスイが発見されている日本の全ての遺跡が糸魚川と交流がありました。島根県に前方後方墳があるのは、島根県が東海の支配下に入っていた時期があるからである。石岡市の舟塚山古墳は、東日本第二位の規模で、仁徳天皇稜と築造時期も同じで4段に造られた形状も同じで、蝦夷平定の最前基地として仁徳天皇と同盟を結んでいた当時の茨城県の王のものである。かすみがうら市の富士見塚古墳は、紀元500年頃の築造で、雄略天皇と同じ時代を生きた霞ヶ浦地域の王のものです。
弥生時代からは、朝鮮半島や中国に近い日本海側が表日本だった。黄泉の国の入口は、出雲の伊賦夜坂(イ夜神社)にあります。または、黄泉国の入口は、猪目洞窟である。イザナギが、出雲国の黄泉比良坂で幽体のいざなみと争って黄泉比良坂で死にはごりましたが、巫女の菊理媛尊が来て仲裁、イザナギは助かり、イザナミを比婆山(比婆山久米神社の古墳)に葬りました。イザナギは、筑紫の日向の橘の小門に行き、江田神社の禊池に浸かり、宮崎で妃を迎えて3人の子を授かりました。
八岐大蛇とは、古志国の王の名で毎年出雲に来て女子をさらったか、斐伊川上流に住んでいた朝鮮半島から渡来した斐伊川上流に住んでいた‘多々良製鉄‘の集団が毎年娘をさらいに来ていたか、斐伊川の洪水をスサノオが護岸工事でくいとめたかどれかです。八岐大蛇の腹が赤いという表現は、出雲が多々良製鉄で栄え、斐伊川の水が多くの鉄分を含んでいることを言ったのです。出雲大社・命主社から出土した銅矛は、出雲国王・大国主命と筑紫が同盟関係にあった証拠である。同じくヒスイの勾玉は、大国主と高志が同盟関係にあった証拠である。銅剣は、2200年前の劉邦が漢帝国を建国し、フランスのパリが誕生した頃の弥生時代初期に武器として日本に伝わり、後に祭祀で使用されました。スサノオは、奥出雲町の鳥髪に住みました。スサノオが箸を拾った地が、八岐大蛇公園です。八重垣神社は、クシナダヒメを隠した場所である。八口神社の御神体は八塩折の酒を入れた壺である。八本杉は、八岐大蛇の頭を埋めた場所である。天ムラ雲剣を手に入れた尾立藪は、尾留大明神である。そして、斐伊川上流で足名槌・手名槌に出会いました。須我神社が、クシナダヒメと暮した地で、和歌発祥の地にして日本初之宮です。日本では、スサノオ・倭建命と武人が文芸を発明したのである。スサノオが出雲は小さいがよい国だと鎮まったスサノオの本宮が須佐神社だ。日御碕神社も、スサノオの御玉が鎮まった神社である。スサノオが、出雲の人々に火起こしの方法を教えたことから出雲国一之宮・熊野大社が建立された。また、新羅の牛頭山にスサノオの神霊が現れたため、牛頭山に祀られましたが、朝鮮半島から来朝した寵進副使が656年に山城国八坂郷に移したのが八坂神社の始まり。貞観年間には、ヤタガラスに導かれて東日本を代表する八坂神社である、つくば市の一の矢八坂神社が建立されました。出雲風土記の神名見山の東北方位にある弥生時代中期(紀元前2世紀~1世紀)のスサノオの祭祀遺跡である神庭荒神谷遺跡で発見された358本の銅剣は、全国出土数300本を上回り、弥生時代中期の出雲にイザナギ・イザナミ・スサノオの日本最強の勢力があったことが確実視されています。を誇っていた証拠です。 中細型銅剣は、出雲・鳥取に分布しており、スサノオがこの地域の王だった証拠である。358本の銅剣・16個の銅矛・6個の銅鐸が同時に出土したのはここだけで、邪気や悪霊を祓うために土地の境界線に埋められ、344本に×印が付けられている。銅鐸は、朝鮮半島から出雲にもたらされたもので、銅矛(北部九州~愛媛・高地に分布)は北部九州の勢力と同盟を結んでいた証拠である。このことは、イザナギが出雲の比婆山にイザナミを埋葬したのち、宮崎県に入り、江田神社の地の禊池で禊をして授かった天照大御神が高千穂に住んだのもうなずけます。2100年前がイザナギ・イザナミの時代であります。スサノオの子は、大年神です。スサノオ・大年・オオナムジらによって築かれた妻木晩田遺跡(古代出雲王国)は、鉄の交易のために海を見下ろす潟に築かれ、防御力に優れていました。さらに、北部九州の勢力が、鉄の交易を防ぐために関門海峡を封鎖したため、イ徳天皇~孝霊天皇までの奈良の勢力が鉄欠乏に陥り、妻木晩田遺跡を中心とする2世紀の出雲(投馬国)が日本最強の勢力となったのです。
1世紀、オオナムジは、あまりにも出雲が狭いため、まず、大山から国見をして、島根県西部の三瓶山と鳥取県西部の大山に綱をかけ、‘国来、国来‘と呼びながら、三瓶山~大山~ムキ晩田遺跡まで支配を広めました。オオナムジを祀る大神山神社は、大山そのものが御神体です。因幡で傷の手当をしてあげた八上姫に仕える白兎という名の人が八上姫と結ばれることを予言しました。そして、遅れて到着したオオナムジと恋に落ちた八上姫は、出雲に向かう途中、オオナムジとキサガヒヒメの子が猿田彦である。城名樋山は、オオナムジが作った日本初の山城である。ヌ奈川神社は、ヌナ川姫が住んでいた場所である。湯の川温泉を発見して湯浴みしました。大国主命は、自身の和魂をヤタノ鏡に託し、倭大物櫛甕玉命と名ずけて三輪山に鎮座させました。このことは、投馬国の大国主命が奈良を支配した証拠である。1世紀、宮崎県高千穂町に住んでいた日向国の女王である天照大御神は、日本を子孫に治めさせようと倭国王・大国主命のもとに天穂日を送りましたが、大国主王を慕って3年連絡しませんでした。さらに、天稚彦を送りましたが、ハンサムな天稚彦は、大国主命の娘・下照姫と結婚して8年連絡を断ちました。そして、建御雷大神が稲佐の浜に来ましたが、大国主命は私の一存では決められません。子・事代主神にお尋ねくださいと言いました。美保関で釣りをしていた事代主神は、天神の御子にたてまつりたまへと一言のもとに言い放って美保の岬から海を渡り、奈良県の葛城地方に行って葛城の王になり、娘を三人の天皇に嫁がせました。加茂岩倉遺跡の大型銅鐸が小型銅鐸の200年後のものである。1世紀の神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡は、1世紀に西日本の王(日本初の統一王)だった大国主命が祖父・出雲王スサノオの姉である高千穂の女王天照大御神の子孫に国譲りをした時、大国主が幽事を担当することになって、大量の銅剣や銅鐸を埋めて幽事を実施した証拠なのです。銅鐸は、神を招くための道具でした。その証拠に、南あわじ市の銅鐸の中から、舌が発見されたのと神原神社遺跡で見つかったマキムクの卑弥呼から授かった景初3年の魏の鏡が祭祀のため、加茂岩倉遺跡を崇める地に祀られているのです。神原神社遺跡から、太陽の沈む方角に出雲の先祖の加茂岩倉遺跡と神庭神荒谷遺跡があるのです。さらに、倭国大乱のときに東部出雲の勢力(田和山遺跡~ムキ晩田遺跡)が西部出雲の勢力を吸収したのです。出雲国と大和国の接点である丹波国(魏志倭人伝のヤマタイ国への道でもある)に出雲大神宮が創建され、当初大国主はここで幽事を行いました。この大国主命の国譲りが誓約された後、高千穂の女王天照大御神の側近である建御雷大神・経津主神の集団によって出雲大社背後の八雲山に並ぶ96メートルの高さを誇る巨大神殿(杵築大社)が築造されました。×印が刻まれているのは神庭荒神谷遺跡の300本以上と加茂岩倉遺跡の14個の銅鐸だけで、祭祀的に深い関係があり、1世紀の出雲国で起きた現実の出来事である国譲りの際、大国主命が幽事をした跡であります。大国主命は、高千穂町に存在した日向国の女王・天照大御神に日本国土を奉献になり日本建国に大きな功績をお立てになられました。大国主命は、日本人の死後の霊魂を御守護、お導きくださる幽冥主宰大神(カクリョノオオカミ)として、その御神徳は広大です。マリア・キリスト・天照大御神・スサノオノ命の弥生時代中期には、日本で銅剣・銅鐸などの青銅器制作が盛んになります。朝鮮半島より伝わった鈴を、日本人の創造力で銅鐸に昇華したのです。1世紀の遺跡である荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は、スサノオか大国主命が、祭祀をした跡である。加茂岩倉の銅鐸と同じ鋳型の銅鐸が出土した岐阜・福井・神戸桜ヶ丘・淡路島・徳島・和歌山・奈良・鳥取・兵庫・岡山は、出雲国王・須佐之男の同盟国か倭国王・大国主命の支配下にあった国々です。他の銅鐸も、近畿・大阪・北部九州・吉野ヶ里・高知・広島・香川・愛知・静岡・伊豆・長野から出土しており、これらの地域もスサノオやスサノオの孫・大国主命(葦原色許男神)の支配下にあったと思われます。スサノオの子の大山クイノ神は、スサノオの父・イザナギが薨去して祀られている多賀大社がある滋賀県に派遣され、日吉大社の地で地域の王となりました。スサノオの孫・オオナムジは、常世国(常陸国か中国南部・雲南省か朝鮮半島)から来た少彦名命と美保の岬で出会い、意気統合して共に西日本統一・国作りに尽力しました。加茂岩倉遺跡から出土した39個もの銅鐸は、大国主が国譲りの後に幽事を開始したときのものです。同じく1世紀に、松山市の道後城北遺跡群の文京遺跡周辺の22本の広形銅剣が瀬戸内海沿岸に分布するのは、出雲のイザナギ・イザナミの子・大山津見が大三島に派遣されて瀬戸内海一帯を支配した証拠です。また、2世紀の遺跡である滋賀県の大岩山遺跡は、大山クイ神とその子孫が日吉大社に居を構えて多賀大社で先祖・イザナギが眠る琵琶湖一帯を支配した証拠。銅鐸は、180年前後の寒冷期の飢饉を経験した倭国人が太陽のありがたみを知り、マキムクで銅鐸文化に代わる卑弥呼の新しい太陽を信仰する鏡の文化が採用されたため、焼かれ破壊されました。 銅鐸が日本全国で焼かれて壊されて消えると同時にマキムク遺跡が出現しています。出雲の銅鐸がマキムクの鏡へ、吉備の楯築墳丘墓などの双方中円墳がマキムク型前方後円墳へ移行しているのです。あるいは、後期の大国主の時代に荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡に青銅器が埋葬されたのは、武甕槌が現われて、西日本を高千穂の天照に譲ったことを意味しております。荒神谷の銅剣の数から強大な権力を持っていたことが分かります。 伊都国から銅剣・吉野ヶ里遺跡から銅鐸が発見されたのは、出雲と同盟関係にあった証拠です。加茂岩倉遺跡の銅鐸に頬に入れ墨のある出雲人が彫られており、魏志倭人伝にも入れ墨の記述があり、奈良県で出土した人物埴輪の頬にも入れ墨が彫られていることから、イザナギ・スサノオ・大国主の3人のいずれかが、同盟の証として入れ墨の風習を始めたのであります。2000年には、出雲大社で3本1組の巨大柱根が発掘され、鎌倉時代初期に、頼朝の命令によって48メーターもの高層神殿が築造されたようです。ヤサカニノ勾玉の原点は出雲の玉造で、須佐之男命が高千穂の姉・天照大御神に献上したものである。弥生時代の銅鐸は、島根県の加茂岩倉遺跡や滋賀県の大岩遺跡から大量に出土していて、これらの地域の祭祀が盛んだったことを伺わせます。滋賀県は、イザナギが他界された地です。天照が、高千穂の天岩戸でヤシコリドメノ命らに作らせた八坂ニノ曲玉は、出雲の玉造から技術を取り寄せて造ったものと思われます。八タノ鏡は、ナ国のスグタカウタ遺跡や伊都国もしくは大陸から技術を取り寄せて、北部九州の製鉄技術で造ったものと思われます。また、はるばる海を渡って同盟国の出雲の大国主の国造りを手伝い同盟を結んでいた少名彦命は、本拠地である常陸国の酒列磯崎神社の地に王として戻りましたが、国譲り後にタケミカズチとフツヌシが蝦夷平定のために常世国(常陸国)に派遣されました。熊野では、神武天皇の汚れた体を建御雷大神の雷の一撃でたちどころに払ったのである。そして、神武天皇は畝傍の橿原神宮で、奈良県の王になったのである。
弥生時代に実存したイザナミは、出雲の比婆山もしくは紀伊国熊野之有馬村で葬られました。オオナムジが、因幡国で地元の人を助け、因幡国の八神姫と結婚しましたが、八十神から追われ逃れてスサノオの根の堅ス国に向かう途中、木の国(和歌山県)に寄りました。ここで、スサノオを祀ったのが熊野本宮大社の始まりです。熊野でスセり姫と結婚しました。熊野本宮大社は、大神神社や出雲大社よりも古いのです。熊野那智大社にイザナミ・速玉大社にイザナギが祀られている。
オオナムジは、祖父スサノオの様々な試練を克服し、スサノオの太刀・弓・琴を奪い、伯母の須勢理毘売と結婚して大国主となって出雲に戻り、西日本を平定したのです。スサノオの宗像三女神の多紀理比売がおり、オオナムジにとついでいることから、スサノオはオオナムジの祖父であり、1世紀に実在した出雲の王なのであります。オオナムジは、少彦名に会う前に西日本や北陸・古志・諏訪など80カ国を平定していました。オオナムジは、107年に朝貢した日本初の王スイショウと思われる。美保神社は、オオナムジの妃・美保ツ姫命と第一子・事代主命を祀る。オオナムジは、能登の気多大社で因幡の素兎を助け、因幡素兎の予言通り八上ヒメ神社の地に住んでいた八上比売に選ばれました。八上ヒメは出雲まで大国主を追いかけて、途中湯の川温泉を発見して浸かってさらに美しくなり、出雲でオオナムジの子を産みました。大国主が紀伊半島で出会ったスセリ姫を恐れた八上ヒメは、湯の川温泉に浸かってから、因幡に帰りました。さらに、ヒスイを求めて古志を訪れたオオナムジは、ヌ奈川神社の地に住んでいた沼河比売と結ばれて、建御名方を授かりました。そのことが、正妻のすせり姫の逆鱗に触れて、離婚の危機にさらされました。建御名方は、古志が諏訪と交流していたため、建御雷大神から逃げて、諏訪の王となり、縄文文化の御柱を受け入れました。この時、オオナムジが持ち帰った糸魚川ヒスイを使って玉造の地で作ったのが、命主社から出土した勾玉であります。同じく、ここで出土した銅矛はオオナムジが北九州を支配下に置いた証拠か同盟を結んでいた証拠です。出雲国造の天穂日がイザナギ・イザナミを祀った神魂神社がある。新潟市の古津八幡山遺跡もオオナムジと関係が深かったと思われます。信濃川と阿賀野川に挟まれ、倭国大乱に備えた弥生時代後期の大規模な高地性環濠集落で、古墳時代には新潟県最大の古津八幡山古墳が築造されました。オオナムジと少彦名命が伊予を旅していると、少彦名が病気になり、オオナムジが道後の湯をお掛けになられ、病を治して快癒を祝い、玉の石の上で踊りました。また、聖徳太子も訪れたそうです。伊予の湯(道後温泉)は、実に1900年以上の歴史を誇る日本最古湯である。鳥取県米子市の粟島神社は、少彦名を祀っております。少彦名の出身地である常陸国には、少彦名を祀る酒列磯崎神社があります。また、奈良県の三輪山(御諸山)の磐クラ遺跡でも少彦名を祀っています。少彦名の出身地である常陸国を基点に蝦夷平定を成し遂げようとして、高千穂の女王天照大御神が側近の武甕槌と経津主を東国に派遣したのです。オオナムジは、魏志倭人伝のコースと同じく出雲から但馬を経て、途中有馬の湯を発見して、神戸に出て、最終的に奈良を平定して国造りを終え、三輪山に分身を祀ったのでした。島根県出雲市の西谷3号墓が大国主命の墳墓である。オオナムジが神戸に向かう途中に発見した有馬の湯も、日本三古泉にふさわしく、1900年以上の歴史を誇ります。大国主命は、奈良で大物主神と別名を自分に付けて、勢夜陀多良比売と結婚して伊須気余理比売が誕生し、神武天皇の皇后になりました。さらに、活玉依毘売と結婚して生まれた子の子孫が大田田根子である。国造りが完了し、出雲に戻った大国主は、天穂日を出雲国造とした。天穂日が、イザナギとイザナミを祀るために創建したのが、神魂神社だ。建御雷神との相撲に負けた建御名方神は、日本海から古志に逃げ、古志から諏訪に逃げて降参し、縄文の御柱文化を受け入れて八坂刀売命と共に諏訪国を建国しました。日向の高千穂の天照大御神の重鎮である武甕槌大神の鹿島神社の地での宴の席での説得により葦原中国を高千穂町の女王・天照大御神に譲ることにしました。そして、大国主は政治から退く代わりに日本一の巨大高層神殿を建てさせ、幽事をました。大国主は、最初元出雲である丹波で后の三穂津姫命と結ばれました。丹波国の出雲大神宮に祀られました。出雲の四隅突出型墳丘墓は、鳥取や北陸三県にもあり、これらの地域が大国主命の支配下に入っていたことがわかります。縄文時代でさえ、糸魚川のヒスイが東日本中に分散しており、交流があったことが確定しているのですから、大国主の話も真実である。イザナギ・イザナミの子で愛媛県の大三島に渡って住んでいた大山津見の娘磐長姫命が、「われ長くここにありて縁結びの神として世のため人のために良縁を得させん」と言って住んだのが貴船神社の始まりです。同じくイザナギ・イザナミの子である金山毘古命は、秩父に祀られています。856年に、茨城県の大洗磯前の海辺にオオナムチと少彦名命が現れて、二人の神霊が里人に神がかりして、‘国造りを終えて東海(後のヒミココの国か)に去ったが、人々を救うために帰ってきた‘と託宣されました。少彦名の常世の国とは、朝鮮半島や大陸を指している可能性が最も高い。
宮崎市の佐野原神社の地でお生まれになられた神武天皇は、同盟国の安芸の多家神社などに長期滞在したりしながら、策を練り、勢力を蓄えてから、熊野の楯ヶ崎に上陸し、神倉神社のゴトビキ岩に登りました。それから、那智の滝を拝んで、熊野で豪族の邪気に苦しみながらも武甕槌大神から布都御魂の剣を託された高倉下の助けを受けながらヤタガラスに導かれて奈良に入り、鳥見霊じで即位しました。等彌神社は、創建当時の神武天皇4年に天照大御神を初め天ッ神々を祀った建国の聖地である鳥見山中霊ジに鎮座していました。神武天皇と‘大国主命もしくは事代主神の娘‘の子であるスイゼイ天皇は、葛城高丘宮で即位しました。安寧天皇は、事代主神の孫である葛城の鴨王の娘・ヌナ底仲媛命を妃とし、天皇家と葛城氏の深い関係が伺えます。イ徳天皇は、軽曲峡宮に都を移しました。岡寺駅近くの橿原市見瀬町の南西五町のまがりをさである。孝昭天皇は、奈良県御所市池之内にあったワキノ上池心宮に都を移した。そして、尾張連の遠祖にあたるおき津世襲(ヒミココの先祖か)の妹世襲足媛を皇后に迎え、和邇氏の始祖である天足彦国押人命をもうけた。孝安天皇は、葛城の室の秋津島宮に遷都し、兄の娘・押媛命を皇后とし、孝霊天皇をもうけました。孝霊天皇は、黒田蘆戸宮に遷都し、磯城県主大目の娘を皇后とし、孝元天皇・卑弥呼・吉備津彦命をもうけられました。孝元天皇は、軽境原宮(橿原市見瀬町の現牟佐坐神社)に遷都、穂積臣の遠祖の娘を皇后とし、開化天皇と阿部氏の始祖である大彦命をもうけました。開化天皇は、春日率川宮に遷都し、物部氏の遠祖にあたる大ヘソキの娘で、父の妃の一人である伊香色謎命を皇后とし、偉大意な崇神天皇をもうけられました。奈良の高鴨神社は、大国主の子(事代主神か)の御魂を葛木の鴨の神奈備に鎮座させたとあり、高鴨神社の神は出雲の国つ神である。山城国風土記にも、加茂氏は葛城から来たとあり、高鴨神社は加茂神社の総本社である。さらに、葛城氏の祖は、武内宿禰だが、その祖は事代主神である。崇神天皇の御世に創建された御所市の鴨都波神社は、名門鴨氏の祖事代主神を祀っております。鴨氏は、スイゼイ・安寧天皇の皇后陛下を輩出しました。仁徳天皇の皇后磐之姫命も葛城氏出身である。5世紀後半雄略天皇が葛城山中で大国主の長子・事代主の神霊に会ったのが葛城一言主神社の始まりである。島根県の隠岐は、出雲よりも前からヤマト王権と同盟を結んでおり、水若酢神社の祭神は、崇神天皇の時代にこの地に来て王となったようです。隠岐には国府が置かれ国造も派遣されています。天日矛が、垂仁天皇と同時代に生まれ、3世紀末葉に新羅から但馬(豊岡市)に砂鉄を原料とするタタラ製鉄を持ち込み、豊岡市の天日矛の墳墓である入佐山3号墳の地に住居を構え、奈良に鉄をもたらしました。4世紀に鉄生産が盛んだった兵庫県豊岡市出石町に天日矛の神宝を祀る出石神社があることからも鉄生産が事実だったことが分かります。出雲のイザナミの子で、製鉄の神様である金山彦命は、岐阜の南宮大社に祀られています。奈良で国造りを終えた大物主は、美和山の麓に活玉依媛という美しい姫と結婚して、神武天皇の妃を生みました。大国主は、せやだたらひめとも結婚しました。長生きして、卑弥呼とも結婚しました。島根県に物部神社があり、先祖の宇摩志麻遅命を祀っていることから、物部氏の先祖が出雲族だったことが分かります。
天照大御神が、高千穂の天岩戸にお隠れになっているとき、天安河原で八百万の神々が相談し、イシコリドメノ命がヤタノ鏡を造って岩戸の隙間から天照の顔を写しました。ヤサカニノ勾玉は、玉祖命が岩戸もしくは出雲の玉造で作りました。大御神社は、日向のお伊勢様と呼ばれ、本伊勢ではないかと思われます。ニギハヤヒは、神武天皇より前に高千穂から奈良に派遣され、奈良の王だった長髄彦の妹御炊屋姫を妃として宇麻子摩治命を生み、物部氏へと繋がるのである。出雲に出向いた鹿島の神の神剣が石上神宮に祀ってあることもうなずけます。島根県の神庭荒神谷遺跡は、スサノオか大国主が出雲の王だった時代の遺跡である。剣は、建御雷大神との闘いを止める証として埋めたものか?島根県安来市から吉野ヶ里遺跡の5倍のスケールを誇る妻木晩田遺跡にかけてが弥生時代後期の投馬国(古代出雲王国)であり、妻木晩田遺跡に人が住み始めたのは、スサノオ~オオナムジの時代である1世紀前半です。そして、オオナムジが大山を引っ張って手に入れた物語は、妻木晩田遺跡の開発に着手したことを現しています。八岐大蛇が、斐伊川上流に住む朝鮮半島から渡ってきたタタラ製鉄の首領の名だったように。斐伊川の鉄分の赤さが血と表現されたように。さらに、1世紀中頃にオオナムジが四隅突出型墳丘墓を発明して、妻木晩田遺跡に34基作られました。妻木晩田遺跡の最盛期は、弥生時代後期後葉であり、最悪の寒冷期による大飢饉時代の倭国大乱の最も激しかった178年からの戦国時代に、妻木晩田遺跡の投馬国が青谷上寺地遺跡の国を滅ぼしました。播磨の風土記には、大国主と少彦名が、稲の種を広めたことが記されています。また、伊豆国風土記には、二神が温泉の開基に携わったことが記されている。薬の製造を少彦名が指導していることから、大陸から来て大陸に戻ったのかも知れません。少彦名は、熊野の崎(紀伊半島の海岸)から常世国(常陸国)に帰られました。また、奈良県桜井市の忍坂坐生根神社に祀られていることから、奈良に行ったのかも知れません。神武天皇に熊野で神剣を渡した熊野高倉下命は、ニギハヤヒの子で、元々熊野の王だったのです。そして、ニギハヤヒと和睦の談合をして、神武天皇が奈良を納めることになったのです。4世紀中葉の成務天皇の御世に熊野国造が置かれました。高倉下子孫が熊野の祀りを司りました。鈴木・榎本・宇井の姓は子孫である。少彦名が去った後、オオナムチは奈良を平定して三輪山に己が幸魂・奇魂を祀り大国主となって日本を統一して日本初の日本の王となったのです。しかし、高千穂の皇族が奈良に入るためには、瀬戸内海を抑え、山陽近畿まで支配する大国主に引いてもらう必要があり、出雲か高千穂にいた側近の武甕槌を説得に行かせたのです。平国の剣で無事引き渡されたのです。建御名方は、石川~舟で古志(長岡)~長野~上田~諏訪へと逃げて降参しました。この後、武甕槌神は東国に様々な豪族がはびこっていたため、船で香取の経津主王を迎えにゆき、蝦夷を巡り歩いてあらくれ者を平らげられたのです。大国主に国譲りをさせた後の1~2世紀の弥生時代の事実です。さらに、武甕槌は、イザナギとイザナミの孫です。大山津見神も二神のお子で伊予の三嶋の派遣されたのです。そのお子の足名ズチ・手名ズチがまた出雲に戻りクシナダヒメを生んだのです。スサノオや大国主命が活躍していた1世紀、出雲の四隅突出型墳丘墓が吉備・北陸まで波及していることから、大国主王がこれらの地域まで支配下に置いていたことを裏つ‘けております。イザナミは、イザナギによって出雲の比婆山に埋葬されました。比婆山久米神社があります。大国主の支配下にあった古志は新潟で、継体天皇時代の越は福井から新潟までを含むと思われる。北陸最大級の横山古墳群近くの高向神社は、継体天皇の母の故郷であり、継体天皇が住んでいた高向宮跡がある。また、西谷3号墓は、スサノオか大国主の墓だと思います。さらに、因幡の売沼神社は、オオナムジが会いに行った八上姫の住居があった場所です。大国主の長子で多紀利毘売命を母とする阿遅シキ高日子根命は葛城地方で加茂神として祀られており、出雲と葛城勢力の深いつながりが伺えます。1~2世紀オオナムチと共に出雲国から伊予国へ旅していた少彦名(米子市の粟島神社生まれと思われる)が急病になった際、温泉を発見したのが道後温泉であり、1900年の歴史を誇っており、聖徳太子・一遍上人・小林一茶・夏目漱石などの偉人・文人が訪れています。同じく日本三古泉の南紀白浜温泉には、有間皇子を初め斉明天皇・天智天皇・文武天皇が行幸されました。群馬県みなかみ町の法師温泉は、空海が超能力で発見しました。大国主の妻・美穂津姫命と事代主は、美保神社に祀られています。国譲の後、大国主命は48メートルを越える高層神殿(2000年発見)を建立させ、目に見えない世界=幽事(かくりごと)を担当したのです。オオナムチが、自らの幸魂・奇魂を三輪山に鎮めて大物主の名で祀ったのが大神神社の始まりであることから、卑弥呼共立前に大国主が奈良を支配していたことが分かる。2世紀後半~3世紀前半に作られた弥生時代最大の墳丘墓である楯築遺跡が吉備にあることから、奈良の卑弥呼共立直前の吉備に強力な勢力が存在したことが分かります。同じく吉備の双方中円墳から卑弥呼が新しく3世紀初頭纏向石塚古墳の前方後円墳の形を創造し、皇族を埋葬したのです。また、京都の椿大塚山古墳からも、出雲と同じ景初3年の鏡が出土しており、卑弥呼が各地の豪族に配ったものであります。椿大塚山と黒塚は3世紀末の築造で、台与(豊鍬入姫命)の墓と思われます。西殿塚古墳も台与の可能性が高い。吉備の造山と作山古墳は、仁徳天皇の吉備の妻の父のものと思われます。西都原古墳群は、日向皇室のものと思われます。6世紀前半の福岡県の岩戸山古墳は、筑紫国造磐井の墓である。大阪府高槻市の今城塚古墳は、継体天皇稜である。飛鳥の石造文化が伝播したものです。みんな、日本を住みよい国にするために努力された方々です。 崇神天皇の御代にも、鹿島神宮に多数の神宝が供えられたのである。鹿島の大甕は、もともと豊前にあり、手漕ぎの舟によって遠く鹿島までもたらされました。鹿島の社務は、代々中臣氏が勤め、‘中臣鎌足公は鹿島神宮の鎮座する地で出生した‘と‘大鏡‘に記され、‘鹿島より奈良に登り来る人である‘と水鏡に記されている。津の東西社は、、景行天皇の御代3世紀前半に船三艘が新造されて‘津の宮‘に納められた場所である。津の東西社の北に中臣鎌足が生まれた鎌足神社があります。当時の出産は、海辺か川岸に産屋を立て、子供を生み忌日があけると産屋を流して家に帰って来たのである。根本寺は、聖徳太子の開基で、松尾芭蕉も‘鹿島詣‘で仏頂和尚‘を訪ねています。また、鹿島大神の神剣フツノミタマノ霊剣の鹿島神明流を受け継いだ塚原卜伝は、大神の神意に従って、人の和をつくりだす秘剣‘一の太刀‘を編み出しました。剣道の原点は、鹿島神宮でありますが、直接的には北辰一刀流からの体系です。千葉周作から7代目宗家が稲敷市におられます。
加茂岩倉遺跡では大量の銅鐸が発見されましたが、同じ鋳型の銅鐸が近畿周辺の様々な地で出土していることは、出雲の王であるオオナムチが1世紀後半にこれらの地域を支配していた証です。オオナムチの先祖スサノオが天照大御神と誓約をした地が天安河原で、現在も高千穂の残っています。イザナギが禊をした禊池も宮崎市に残っています。さらに、イザナミは神魂神社と佐田神社に祀られており、島根県で出生したと思われます。そして、出雲と伯耆の堺である比婆の山に埋葬されました。
四隅突出型墳丘墓は、大国主命が創造した墳墓である。
神武天皇の皇后陛下は、1~2世紀に実在した大国主か事代主の娘ですが、事代主は但馬か丹後から上陸して奈良の葛城地方に移り住んだと思われます。現実的に2世紀初頭の奈良県の王だった神武天皇の時代、日向国と常陸国が海を通して同盟関係にあったと思われます。対馬のワタツミ神社には、豊玉姫命とその子のイワクラ(墓)があります。神武天皇は、宇佐市・北九州を経て広島に7年・岡山(吉備)に8年滞在してから、奈良平定に向いました。熊野那智大社は、2世紀初頭の神武天皇発見以前より崇められており、仁徳天皇の御世に当地に遷座されました。熊野速玉大社は、4世紀前半の景行天皇の御世に神倉山にあった元宮を当地に遷座しました。3~4世紀の崇神天皇の御世、中臣神聞勝命神託があり、鹿島に神宝を献じた。武甕槌は、帝王切開で生まれた出雲国のイザナミの子である。中臣鎌足は、鹿島生まれで、藤原氏の氏神・春日大社が創建されるにあたって、鹿島大神が勧請されたのである。中臣鎌足は、談山神社に祀られております。延喜式神名帳で神宮の号が許されたのは、伊勢を除くと鹿島・香取のみである。また、建御雷大神と経津主大神は、島根県の宇部神社の地にいた豪族である可能性が高く、高千穂の天照女王の親族であり、大国主を説得しに行ったものと思われます。弥生時代の史実であります。
高千穂の天照から香取に派遣された経津主は、北関東・東北の豪族を平定した後、阿見町舟島竹来から海を渡って高千穂に帰っていったと常陸風土記に記されています。鹿島神宮には、日本最強の雷神にして大和朝廷の守護神である建御雷大神が県北や東北の豪族を平定する際、香取神宮の経津主と舟で合流する事が神事になった12年に一度の御船祭があり、この時にに使用した剣術をはじまりとする鹿島神流という日本初の剣術流派があり、2位上泉伊勢守・3位柳生石舟斎・4位伊藤一刀斎・5位宮本武蔵の空よりも遥かに強い和に到達した秘剣一太刀を生み出した 史上最強の剣聖塚原卜伝が中臣鎌足と同じように鹿島神宮の神官の家に誕生しました。一太刀合気と同じく相手と一つ(一体)になる究極の奥義です。全国の剣道道場の神棚には、正面に天照・向かって右に鹿島大神・左に香取大神を祀っているのも鹿島神宮が剣道の生みの祖だかです。御船祭は、4世紀末の応神天皇の御世に祭典化され、戦国時代まで我が朝第一の祭礼と喧伝されていました。鹿島の船が香取神宮のお迎えを受ける様子は、両神宮の鎮座の由緒と両王による日本で初めての天皇家の東国平定の足跡を伝える証拠であります。武甕槌の命を受けた高倉下が熊野に行き、神武天皇に布津御魂の剣を授けています。雷の力で神武天皇は邪気を祓ったのです。
2世紀中葉から後葉の奈良県の王で卑弥呼の男弟だった崇神天皇は、出雲に圧力をかけて武日照命将来の神宝の提出を求め、出雲飯入根に献上させました。また、崇神朝に初めて任那から朝貢がありました。3世紀末葉から4世紀初頭である垂仁天皇の御世には、任那の国名を授けられたこと、任那と新羅の仲違いなどがあります。また、新羅の王子・天日矛が新羅阿具沼で会った倭国の女の赤ちゃんをもらって妻にし、おいしい料理を作ってくれました。夫の暴言に祖国・難波に帰った妻を追って、聖王(垂仁天皇)がいると聞いて日本に来て、垂仁天皇から播磨国宍粟邑と淡路島の出浅邑を与えると言われましたが、自分が気に入った土地を選びたいと答え、但馬国の王となり、出石まで支配しました。天日矛が持ってきた神宝が出石神社に祀られています。兵庫県の但馬に定住した。さらに、石上神宮に千本の太刀が奉納され、物部氏が管理しました。石上神宮の御神体は、神武天皇を熊野で助けた武甕槌大神の神剣であります。また、天日矛のヤシャ孫の田道間守を常世国(中国雲南省)に派遣して非時の香菓を求めさせました。垂仁天皇天覧試合で武甕槌と建御名方神の相撲を受け継いだ出雲の野見宿禰が当麻蹴速を投げ飛ばしました。4世紀半ばの出雲神原神社古墳から出土した景初3年に日本で造られた銅鏡は、4世紀中葉の倭建命西征の折、出雲がヤマト王権の王権の支配下に入った証である。
日本一の神社は伊勢で、二位が鹿島・三位が香取・四位が熱田・五位が多賀・六位が出雲・七位が熊野大社です。諏訪大社の創建は、2世紀半ばで、倭国大乱の時です。出雲大社や熊野三山も2世紀半ばです。宗像大社は、1世紀半ばで、天照大御神が、人神として高千穂に実存していた時です。
兵庫県豊岡市出石町の4世紀の古墳から砂鉄が出土しており、渡来人が鉄生産をしていたと思われます。また、兵庫県の枚岡神社の創建は神武天皇が即位する三年前(1~2世紀)で、神武天皇が奈良を目指す途中、天種子命が国土平定を祈願して天児屋根命・比売神の二神を祀ったのが始まりです。さらに、768年に二神が春日山に勧請され、春日大社に祀られたたま、元春日と呼ばれ社門紋も同じなのです。神武天皇の祖父火遠理命が行った海神の国は、対馬である。そして、神武天皇は、熊野で助けてくだすった建御雷大神(1世紀に実在した豪族)の神剣に感謝して、元年に鹿島神宮を建立したのです。藤原鎌足の先祖は、鹿島神宮の神官であり、建御雷大神の子孫であると思われます。奥州藤原氏が栄えたのも、先祖の建御雷之男神が東日本を平定したからに他なりません。鹿島神宮の本殿が、北向きなのは、ヤマト王権における東北地方を鎮める役割を担っていたからである。鹿島の神は、香取の神と共に春日大社に勧請されました。茨城県常陸太田市の武生神社の神は、神武天皇の御代に降臨しています。
仁徳天皇が、吉備海部直(きびのあまべのあたい)の娘黒姫を慕ってこの地を訪れていることから、作山古墳は吉備海部直の墓であることが分かります。
日本人の原点は縄文人ですが、1万年以上前の旧石器時代の遺跡も1万カ所以上あり、特に千葉から茨城の霞ヶ浦流域の土浦、高濱まで・茨城県沿岸・神奈川県~東京にかけて・静岡県・大阪湾・神戸・吉備・讃岐・九州北部(特に長崎県)・石垣島などに分布しています。旧石器時代は、圧倒的に東日本に遺跡が多く、縄文時代まで東高西低でした。ところが、大陸からの移民が押し寄せた弥生から戦国時代までは、ほぼ西高東低でした。また、江戸時代になると東高西低になりました。茨城県ひたちなか市の虎塚古墳の壁画の作者は、サルバドール・ダリの水準に到達しておりました。守谷市には、将門開基の海禅寺や将門の位牌を安置する長龍寺があります。守谷市は、都市成長力と住みよさランキング全国一位である。

古代記 2010/4/13 

今日は、標高871メーターの男体山と877メーターの女体山からなり、古代より「西の富士。東の筑波」と並び称され、山肌が朝は藍・昼は緑・夕べは紫と表情を変えることから紫峰と呼ばれ、日本人の信仰の原点である古代山岳信仰に始まり、約三千年の歴史を有する日本最古社(奈良の大神神社は二千年)である筑波山神社を擁し、毎年236万人が訪れる茨城最大の観光地にして坂東無双の名嶽といわれ、日本屈指の霊峰である筑波山へ行って参りました。中腹270メーターに拝殿を擁し、山自体をご神体として崇め、奈良の三輪山よりも1000年先に信仰が始まりました。奇岩が多く、神々の神秘を感じずにはいられません。関東一帯が見渡せる国見山でもありました。筑波山神社は、日本を代表する六神を初めて祀った山であります。4月1日と11月1日の祭では、カガイの舞が披露されます。日本古来の山岳信仰は、三千年前、正に筑波山信仰に始まり、日本全土へ広まっていったのである。茨城県を代表する宗教的拠点である筑波山に、いつの時代の人々も神や仏を信じ、様ざまな祈りや願いを捧げてきました。新治の方から登ってゆくと、筑波パープルラインがあり、日本一の広さを誇る関東平野の絶景を見ながら走ることが出来ます。この時期は、ところどころにつつじが顔を覗かせ気持ちよくドライブが楽しめます。途中には、展望台があり、雄大な景色が広がっております。筑波の二峰が近ずいてくると、子授け地蔵があり、ここから筑波山を眺めると、秀麗な二つの峰が本当に神様のがいるかのように見えました。つつじヶ丘に到着すると、ツツジが見事に咲き乱れ、ツツジの階段を登って行くと、開けたところから関東平野が見渡せました。さらに登って行くと、新緑の木々が陽光を浴びてきらきらと輝いていました。二股の杉の大木の先には、弁慶七戻りがあり、怖さ知らずで有名なあの弁慶さえもが、ここを通った時には、岩の前でこわごわ七回も行ったり戻ったりを繰り返したそうです。それで、弁慶七戻りの岩と呼ばれるようになったのです。さらに登って行くと、国割石と云うのがあります。筑波山は、滋賀県の多賀大社や淡路島のイザナギ神宮と共に、日本列島や偉大な神々をお生みになられたイザナギとイザナミが宿っている神体山であります。伊勢神宮の天照大御神と出雲のスサノオノミコトと月山のツクヨミノミコトは、イザナギのお子の神様です。古事記には、‘イザナギノ大神は淡海の多賀に坐すなり‘と記されており、イザナギとイザナミの二神のみを祀るのは、多賀大社のみであります。地元の民謡にも‘お多賀様はお伊勢様の親じゃもの‘と謡われております。古代には、筑波山周辺まで海水が押し寄せており、下妻市の騰波ノ江は、騰波淡海の名残であります。協和町の久地良からが陸だったそうです。明野町の海老ヶ島も海だった頃の名残ではないでしょうか。
万物の母である太陽神天照大御神が天岩戸へお隠れになった神話は、皆既日食の事だったと思われます。この神話は、地球で最も北極点に近い町であるロングイヤービエンの4ヶ月間も太陽が見れない極夜と同じ状態だったと思われます。天岩戸は、‘天孫降臨の地‘である宮崎県の高千穂にあります。近くには、天照大御神を岩戸から出そうと神々が審議したり、スサノオが天照との誓約を結んだ「天安河原」など神話の舞台が点在しています。天岩戸神社東本宮は、天岩戸からお出になられた天照大御神が最初に住まわれた場所であります。天手力男が投げ飛ばした天岩戸が落下し、現在の姿になったという信濃の戸隠山に戸隠神社が創建されました。天手力男が祀られています。また、長野県の恵那山の‘恵那‘とは、天照大御神の胞衣(えな・胎盤)のことで、それを山頂に納めたことが山名の由来になっております。高千穂峡一の絶景ポイントは、真名井の滝で、神話で高天原の水の種を移したと語られる「天の真名井」の水が地下水となったものとされる。また、高千穂には、神々の逸話を舞う‘夜神楽‘があります。宮崎県の伝統行事である神楽は、11~2月までの冬季に県北から県央の山間部で行われます。このことからも、正式な天孫降臨の高千穂は、県南男の霧島神宮などではなく、県北の高千穂神社周辺であります。また、冬季に行われることから、高千穂町の天照大御神=太陽をより信仰すべき季節をとったのでしょう。(高千穂神楽20余ヶ所・銀鏡神楽(しろみ)・しい葉神楽20余ヶ所)高千穂には、天孫降臨の際、ニニギノ命が高千穂を眺めた国見ヶ丘があります。高千穂神社は、1900年前に神武天皇の兄である御毛沼命(ミケヌノ命)が創建しました。年代的には、倭国王スイショウとは、神武天皇であったと思われます。高千穂の国見ヶ丘は、神武天皇の孫の建磐龍命(タケイワタツミノミコト)が筑紫国を治めるよう命を受け、日向(ヒムカ)から向かう途中、ここから国見をしました。北九州最高峰の祖母山や二上山もここから見渡せます。)さらに、宮崎神宮は初代神武天皇の東征の前のお宮だった所に祭られました。高天原は、大和国の葛城とされております。ここには、タカヒムスヒを祀る高天彦神社があります。
筑波山の国割石は、天地創造の時、イザナギとイザナミの二神が、この石の上に線を引いて、八百万の神々に、治めるべき地を割り振った場所と云われています。石の上面の縦横の線は、そのときのものだそうです。さらに登って行くと、北斗岩があります。ここで弘法大師が、北斗供養行法を行ったとき、北斗星の神がここに降りたので、北斗岩と名付けられたそうです。また、北斗星は天上で動かない星なので、この一帯は地震でも動じないと云われています。また、筑波山神社の方から登って行くと、御海というのがあります。御海の水は、徳一大師が北斗供養行法を行った際に、北斗妙見菩薩が現れ湧出したのだそうです。また、つくば市の栗原という所には、北斗寺があります。北斗寺は、821年の創建で、本尊の北斗妙見菩薩は北斗七星を神格化したものと言われています。大晦日には除夜の鐘が突かれ、旧暦1月7日に行われる星祭りが有名です。星祭では、妙見堂で護摩焚きが行われ、露天が数十件立ち並び、だるまのお店が数多く、植木売りが有名です。地域では、栗原の妙見様として親しまれております。筑波山麓一帯は、茨城を代表する仏教文化の地でした。また、空海ゆかりの寺としては、つくばみらい市の板橋不動院が有名です。ここは、東日本の高野山とも言うべき寺院で、1200年前の不動明王を本尊とし、護摩修行など本格的な真言密教の道場になっています。また、つくば市松塚には真言宗豊山派の東福寺があり、本尊はなんと聖徳太子が自ら彫ったもので、門の阿吽の仁王様は、廃仏毀釈の際筑波山中禅寺より移したものであります。

懐かしく 冬日あふるる 御堂かな  紫峰
筑波山の東の端には、比叡山山麓にある日吉大社の分社である日枝神社があります。ここは、大猿伝説で有名な所で、大猿に毎年若い娘を一人供える人身御供の地でありました。この大猿は、ある人物により矢で射止められ、流鏑馬祭りが始まりました。本宮は、滋賀県にある‘猿‘を神の遣いとする日吉大社であります。同じような大猿伝説は、近江国の長浜の一平太郎という名の犬が退治したという伝説もあるようです。
筑波山の頂上につくと、イザナミノミコトの本殿があり、傍らには天の浮橋がありました。その昔、イザナギとイザナミの二人の神様が天の浮橋に立ち、手にした鉾の先から滴を垂らすと、それが日本の国になったのだそうです。そのあと、イザナギとイザナミは筑波山を造って、ここに宿られたのでしょう。筑波山は、3000年前に日本で初めて信仰され始めた山なのです。天の浮橋は、神の世界である高天原と現世を結ぶ架け橋で、イザナギとイザナミがこの橋に並び立ち、日本の国造りを命じたそうです。天浮橋から拝めるご来光は、関東で一番時間が早いと言われております。筑波山には、磐座と呼ばれる巨石や奇岩が点在しております。磐座は、神の依代(降臨する場所)として祀られました。山頂の磐座周辺では、祭に用いられた鏡や土器などが発見されています。また、筑波山は、前圧足が四本、後足が六本の四六のガマが有名です。私も、天然の四六のガマは、徳一上人の修行地でしか見たことがありません。筑波山の裏側にある加波山は、筑波山、足尾山と共に常陸三山と呼ばれ、日本の最初の神様である国常立尊が祭っており、関東の霊山として知られています。クニノトコタチというのは、国の永遠性を予祝しての神名だそうです。国常立命は、元出雲である丹波の出雲大神宮にも祀られております。さらに、元熊野は、出雲国一之宮である熊野大社が建つ地であります。ここにも、紀伊の熊野と同じく‘黄泉の国‘のイザナギノ大神を祀っております。加波山は修行の山で信仰登山者が多く、特に8月は開山祭で全国から数千人の登山者が訪れます。
筑波山の男体山と女体山を繋ぐ尾根伝いは、御幸ヶ原と言います。ここは、イザナギとイザナミが行き来する原で、「夜になると両神がお出ましになる」「男体峰、女体峰が近ずく」と言われています。ここには、セキレイ石というのがあります。あるとき、イザナギとイザナミの両神が御幸ヶ原で逢っていると、雄と雌の二羽のセキレイが翼を休め睦言を交わしていた、その愛情の細やかさに両神は心を動かされたそうです。
また、男体山には来迎石というのがあります。ここで、徳一大師、弘法大師、一遍上人、親鸞上人らがお釈迦様のお姿を見たと言われています。ちなみに、一遍の時宗は連歌の完成に大きな関わりを持っております。筑波石は、関東三大石のひとつに数えられております。
古代の英雄ヤマトタケルノミコトもまた、筑波山と縁の深い方です。ヤマトタケルは、父親の第十一代景行天皇の命を受けて九州・出雲・東日本を平定した古代の英雄です。ヤマトタケル(当時小碓命)は、熊曾征伐に単身で向かい、ヤマトヒメから授かった衣装を身に纏い女装して女給に変身して熊曾兄弟を倒しました。熊曾の弟はヤマトタケルを讃え、‘倭建‘と名乗るように勧めました。さらに、景行天皇稜は卑弥呼(ヤマトトトヒ百襲姫)の箸墓古墳(西殿塚を凌ぐ出現期最大の古墳)に程近く、4世紀最大の前方後円墳であることから、景行天皇がいかに強大な権力を持っていたかが伺えます。
ヤマトタケルが東国へ向けて出立する際には、叔母のヤマトヒメノミコトが三種の神器のひとつに数えられる天のムラクモノ剣(八岐大蛇の本性である人間が持つ八つの欲望が封印され、ヤマトタケルが出雲討伐の折に持ち帰ったものと思われる)と火打ち石を授け、「もし火急のことが起きたら、この袋をお開けなさい」と諭してお見送りになりました。ヤマトヒメとは、第十一代垂仁天皇の皇女で、天照大神の鎮まるべき場所を探して旅をされた方です。そのヤマトヒメをお導きになり、天照大御神を伊勢の地へ案内された神様が猿田彦大神で、伊勢国一之宮の椿大神社に祀られております。伊勢神宮の隣には猿田彦神社がありますが、常陸国にも1500年前の武列天皇の御世に猿田彦の大神が祀られました。このときの元宮は下妻市にありましたが、現在はつくばみらい市の千勝神社に祀られております。千勝と言うぐらいで、導き・道開きのご神徳が高く、間違いなく目的に到着する道を指し示して下さり、道が無くなった時、道をつけて下さったり、障害を打ち除いて下さりますので、「諸願成就の神」として称えられております。ちなみに、天ノムラクモノ剣は、スサノオノミコトがクシナダヒメを守るため、八岐大蛇を退治した際、大蛇の尾から発見されました。出雲の須我神社は、スサノオノミコトがクシナダヒメを伴ってこの地に立った時、心清清しくなり、宮殿を建てたのが始まりで、日本初の神社として‘日本初之宮‘と呼ばれております。そして、

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
とお詠みになられ、和歌発祥の地となりました。
尾張国に到着したヤマトタケルは、尾張の国の造の祖先ミヤズヒメの屋敷にお入りになられました。そして、ミヤズヒメと結婚しようとお思いになられましたが、‘東征後ここに無事帰還したとこき‘と思い直し、ヒメと固い約束を交わして東国へ進発して行かれました。ヤマトタケルは連戦連勝して、次々と山川の荒ぶる反逆者どもを平定していきました。そして相模国に入ったとき、国の造がヤマトタケルに「この野原の中に大きな沼があります。沼の中に住む神は非常に荒々しい神でございます。」と嘘をつきました。これを聞いたヤマトタケルは、その神を見るために野原に入られました。すると、国の造は、野原に火を放ちました。ヤマトタケルは、野火攻めと気付いて、叔母のヤマトヒメノミコトから授かった袋の口を解かれて中を覗くと、火打ち石が入っていました。そこで、まず叔母から授かった天のムラクモの剣で草を薙ぎ払ってから、火打ち石で火を打ち出し迫ってくる火炎に向かって、こちらから草に火を付けて、天のムラクモの剣を敵陣めがけて一振りすると、その凄まじい霊力で瞬く間に強烈な神風が吹き起こり、燃えさかる向かい火が敵陣めがけて吹き渡って行きました。(この時の場面は、国史画帖に見事に描かれております。) ヤマトタケルは、こうして火炎から脱出したのち、豪族どもを焼き払いました。(これにちなんで、この地を焼津と呼んでおります。焼津神社には、ヤマトタケルと弟橘姫が祀られております。) 叔母ヤマトヒメの授けた火打ち石と神剣のご加護がヤマトタケルを危急から救ったのです。残念ながら三種の神器のひとつである天のムラクモノ剣は、壇ノ浦の戦いで海に沈んでしまったのです。倭タケルが訪れたと思われる清水市草薙には、草薙神社がございます。そして、熱海市の来宮神社(キノミヤ神社)に立ち寄りました。ここは、樹齢二千年の大楠があり、倭タケルが主祭神になっております。この後、箱根の芦ノ湖の西側を走っている現在の芦ノ湖スカイライン辺りを通りました。ここには、日本武尊の泉がございます。ちなみに、箱根神社の神々は、海から来て平塚に上陸し箱根を目指したのだそうです。ちなみに、倭タケルが開祖となった連歌(筑波の道)を芸術の域に高めた飯尾宗祇は、芦ノ湖の東側の湯本温泉で天国へ旅立たれました。
宗祇の生きた室町時代には、西洋のルネサンスに先がけて日本がルネサンス期を迎えました。連歌が黄金時代を迎えて和歌と並ぶ格式を誇り、町人大衆が文化を担って高い美意識を育んでいき、世界に類を見ない大衆文化国家となったのです。室町時代は、連歌の救済・二条良基・宗祇を初め、能楽の世阿弥、中国に渡り北宋山水画を極めた水墨画の雪舟等楊と日本を代表する錚錚たる芸術家を生みだし、日本のルネサンス期といえるのです。そして、宗祇の連歌の芸術性は、三百年後の俳諧の松尾芭蕉へ引き継がれ、雪舟等楊の水墨画も時代と地域を越えて雪村周継へと受け継がれていったのです。雪村周継は、茨城県の出身で晩年、‘梅、桜、桃‘の三つの春が同時にやってくる福島県の三春に憧れ庵を構えました。この後、雪村周継の‘欠伸・布袋紅白梅図‘は、尾方光琳の国宝‘紅白梅図屏風‘を生み出しました。このことから、俵屋宗達の前に雪村が琳派の祖ともいえましょう。また、沢庵が開いた祥雲寺にある俵屋宗達作‘松島図屏風‘は、尾方光琳の松島図屏風へと高められてゆきました。この絵は、雪舟の天の橋立のように波が上空から眺めているかのような視点で描かれており、ピカソなどのキュビズムの原点となったセザンヌよりも早い時代に多面的に描く境地に到達していたことを物語っております。そして、鎌倉新仏教の登場は、武士や庶民が文化の担い手に加わってゆくまさに象徴のような出来事でした。元禄文化を代表する松尾芭蕉などの俳諧の余白の美は、尾方光琳の杜若図屏風を生み出しました。さらに、風神雷神図屏風を生みだした俵屋宗達を百年後に継承した光琳の琳派は、百年後に酒井抱一の情緒豊かな江戸琳派へと高められていったのです。琳派は、俳諧的に四季の自然を描いていることからも、俳諧が画家達に大きな影響を与えていたことが伺えます。日本画は、余白の魅力なのです。日本文化では、‘間‘に美しさを見出し、余白を想像して楽しみます。俳諧は、‘切れ字‘によって‘間‘が創られ、‘余白‘を大切にする水墨画と通じるものがあります。極限まで切り詰めた言葉で無限の世界を表現する俳句は、省略を愛する日本人の生んだ言葉の小宇宙なのです。雪村周継の絵は伝統の日本画にして絢爛豪華な狩野派へも引き継がれ、橋本雅邦によって近代芸術の域にまで高められてゆきました。橋本雅邦の日本画は、西洋で‘物質主義に毒されていない‘と最高の評価を受けました。橋本雅邦は、岡倉天心と共に日本美術院を結成し、横山大観・菱田春草・木村武山・下村観山の‘五浦の四天王‘へと受け継がれていったのです。そして、押し寄せる西洋画の波から日本画を守ったのが、この‘五浦の四天王‘だったのであります。また、印象派も日本の浮世絵の影響を大きくうけています。ゴッホの最高傑作にしてゴッホの魂の象徴である‘糸杉‘は、天に向かって屹立し、日本文化の象徴となっている杉に似ています。ゴッホが糸杉に惹かれ愛していたことからも、ゴッホの前世は日本人だったのではないでしょうか。西洋でも‘ダンテの神曲‘が引き金になってルネサンス(古代ギリシャ・ローマへの回帰)が興り、文学、彫刻、絵画に新しい動きが始まりました。古代ギリシャの代表的な芸術文化都市は、シチリア島のシラクーサであります。ここでの伝説は、太宰治の‘走れメロス‘にも取り上げられ、三島由紀夫の純粋無垢の恋愛小説である‘潮騒‘にも古代ギリシャの影響を垣間見ることができます。ヨーロッパのルネサンスも、シェイクスピアやセルバンテスへと引き継がれていったのです。セルバンテスのスペインを代表する画家といえばピカソやゴヤですが、ゴヤの代表作である‘着衣のマハ‘(アルバ女公爵)は、ゴヤを心から愛しているまなざしに満ちており、モナリザに次ぐ微笑みだと思います。もうひとつの‘裸のマハ‘は、表情が乏しく、ゴドイ首相と首から下の肉体関係を持つしかなかった、ゴドイ首相のためだけの肉体美の美しさに過ぎません。
さらにヤマトタケルは、浦賀水道を渡って上総に上陸し、鹿島神宮に参拝され、常陸風土記には霞ヶ浦周辺で数々の伝説を残しました。そこから茨城県沿岸を北上し、宮城県多賀城市の竹水門で蝦夷を平定し、それから、先達の大彦と子が出会った会津に立ち寄り、茨城に戻ってきました。飯坂温泉は、4世紀に倭タケルが立ち寄った日本最古級の温泉の一つであります。さらに神奈川県の足柄峠で‘吾妻よ‘と嘆き叫び(ここより東を吾妻=東の国というようになった)、山梨県の酒折で連歌=筑波の道の開祖となられました。さらに、秩父の両神山を目指して北上し、八日見伝説を残しました。両神山は、イザナギとイザナミを祀り、修験道の山でもあります。さらに、秩父の数々に神社を創祀なされ、群馬県に立ち寄り、上毛野氏に天皇の命令を伝え(群馬県には倭タケルの名からつけた武尊山や吾妻郡がある)、碓氷峠に至りました。ここで、‘吾妻よ‘と弟橘姫を懐かしんだといわれております。(十和田湖の乙女像の隣にある十和田神社は、807年にこの地まで北上した坂上田村麿が創建し、日本武尊を祀ったのが始まりです。後には、甲斐白鳥の宮の祭神を遷して再興されました。福島県の岳温泉も坂上田村麿によって発見されました。)山形県の最上峡の仙人堂もヤマトタケルノミコトを祀っております。ここにも倭タケルが訪れたのかもしれません。最上峡といえば、松尾芭蕉が奥の細道で訪れた場所で、芭蕉が俳諧の始祖である連歌生みの祖のヤマトタケルに導かれたかのようです。

五月雨を あつめて早し 最上川  芭蕉
宮城県名取市愛島笠島には、ヤマトタケルの東征の際、天照大御神を伊勢の地に導いた‘猿田彦‘を道案内にして、道祖神を祀ったことからその名がついた道祖神社があります。ヤマトタケルは、ここまで北上しているのであります。道祖神社には、松尾芭蕉が雨のため通り過ごした実方のお墓がございます。道祖神の招きで、松尾芭蕉も俳諧の遠い祖先であるヤマトタケルの足跡を偶然にも訪れたのです。

笠島はいつ‘こ皐月のぬかり道   芭蕉
常陸国は、当時大和政権の支配下で最も東に位置する国でした。岳温泉は、坂上田村麿呂の発見であります。ここには、徳川光圀公も訪れております。坂上田村麿呂も、802年に倭タケルの足跡を辿り、4万の軍勢を引き連れて、北茨城市に立ち寄り、延暦14乙亥年(795年)花園神社を創建し、剛勇無双で知られた蝦夷王・アテルイを三度に渡る激戦の末に破りました。(806年には、若狭の明通寺を建立しました。)田村麻呂は、宮城県の多賀城に立ち寄り、青森県の十和田湖まで到達し、十和田神社を創建し‘倭タケルを祀っております。東北の英雄アテルイと闘った帰りに、北茨城市に立ち寄り、花園神社を創建しました。(807年、空海は伊豆を訪れ、修善寺を創建しました。空海は仏具の独鈷で岩を打ち砕き、霊泉を湧出させました。伊豆最古の‘独鈷の湯であります。大彦や武ヌナ川別、さらに倭タケルノミコトの功績で、四世紀には会津若松市付近まで前方後円墳が到達しており、大和政権の下で会津が東北の要衝になりました。伊達政宗の時代までは会津が東北最大の都市で、現在の仙台のような存在だったのです。東北最古の名湯である福島県の飯坂温泉でヤマトタケルは旅の疲れを癒したそうです。ここには松尾芭蕉も立ち寄っており、

早苗取る 袂や昔 しのぶ摺  芭蕉
と詠みました。
ヤマトタケルは東北の日高見国よりの帰途、おそらく現在の6号国道付近をお通りになり、常陸国へお入りになりました。まず訪れたのは北茨城で、海に鯨が泳いでいたそうです。そこで、ヤマトタケルはここをクジ(久慈)と名付けられました。久慈川や奥久慈は、ここから来ているのです。ちなみに、奥久慈には西行法師が絶賛し日本三名瀑の一つに数えられる袋田の滝がございます。四段に流れ落ちることから四度の滝とも呼ばれています。野口雨情の故郷である北茨城市磯原町磯原には、天妃山があり、弟橘媛神社があります。ここも、倭タケルが訪れているはずです。時代を超えてヤマトタケルと同じ道を辿った坂上田村麻呂は、北茨城の花園神社を創建しました。このあと、倭タケルは水戸に立ち寄り、葦と田圃ばかりだったので吉田となずけました。現在はは、ヤマトタケルノミコトを祀る常陸国二ノ宮の吉田神社があります。また、常陸国には黒潮を利用した九州文化が数多く残り、九州政権と関係が深く、九州に淵源を持つ有名な虎塚古墳が築かれたのであります。ちなみに、常陸国は、奈良を凌いで日本一古墳の多い所であります。ヤマトタケルは、水戸から石岡に入りました。常陸国総社宮は、倭タケルの遺跡である‘神石‘跡に建てられました。石岡は、743年に国衙の造営が開始された地で、日本最大級の国分寺が建立されました。この頃、現つくば市にも、平沢官衙や金田官衙などが造営されたと思われます。平沢官衙は、トヨスキイリや倭建の頃の筑波国の役所跡に建てられたものと思われます。現茨城県は、645年(大化元年)に多珂国・久慈国・茨城国(うばらき)・那賀国・筑波国・新治国・が合併され‘常陸国‘とされました。723年には、現存する‘常陸風土記‘が編纂されました。1339年には、筑波の小田城で北畠親房公が‘神皇正統記‘を著しました。その後、おそらく現在の50号線沿いを通り、現在の笠間市から桜川市に至ったと思われます。笠間市の西にある出雲大社(当時の大神駅か)には、本場出雲の劣らぬ最大級のしめ縄がぶら下がっております。桜川市に入ると明日香という地名があり、奈良を彷彿とさせるのです。笠間市から桜川市の岩瀬辺りは、当時新治と呼ばれておりました。その名残が旧協和町にあるJR水戸線の新治駅にあります。桜川市の北部にある富谷山小山寺は、735年に行基菩薩によって開山され、富谷観音とも呼ばれております。三重の塔が国の重要文化財に指定されております。そして、ヤマトタケルは岩瀬から左に道を取って桜川沿いを下り、大和村に通ったと思われます。大和村の地名も、奈良を思い起こさせます。大和村には、有名な雨引山楽法寺(通称雨引観音)がございます。ここは、桜と紫陽花でも有名であります。さらに、蔵の街として知られる真壁を通りました。真壁の地名は、奈良時代から使われていました。真壁城は、鎌倉時代誕生前の1172年に築かれ、500年近くに渡り城下町として繫栄しました。明治以降は石の採掘が盛んになり、良質の御影石は迎賓館など東京の名建築にも使われ、御影石の日本三大産地となりました。真壁のひな祭りも有名で、立春から三月三日の桃の節句にかけて、町中の民家や店などにたくさんおお雛様が飾られ、県内外から大勢の観光客でにぎわいます。筑波山の裏側には、関東の清水寺と呼ばれている舞台懸け造りの峰寺山西光院があります。そして、ヤマトタケルは、おそらく筑波山神社付近を通り、天照大御神とスサノオノミコトと月読命の産みの親であるイザナギ宿られている筑波山の男体山を登拝されました。ヤマトタケルが詠んだ歌が連歌の源であることから、男体山頂へ続く道は連歌岳と呼ばれています。筑波山の男体山は、古代より三輪山と同じように禁足地となりました。原始の形を残す古代山岳信仰は、三千年前に筑波山信仰から始まり、次いで二千年前の三輪山信仰へと続き、次々に山が開山されていったのです。ヤマトタケルの父の景行天皇の二代前の第十代崇神天皇の皇子に当る豊城入彦命は、四道将軍の一人として関東以北を平定するようにと宇都宮に派遣され、晩年に国見山である筑波山の麓に向かいました。筑波国の成立は、武力が伴ったもので、桜川流域の初期古墳から終末期古墳の分布が物語っております。奈良・平安時代の筑波郡役所である平沢官衛遺跡付近に第十代崇神天皇の皇子である豊城入彦命が役所を設け、この時代の東日本を統治していたと思われます。当然、ヤマトタケルもここに立ち寄り、関東の情報をお聞きになり、天皇の命令を伝えられたと思われます。ここ平沢官衛遺跡には、正倉院と同じ校倉造りの倉も建っており復元されています。豊城入彦命は、筑波山の麓に東日本の役所を設け、国見山である筑波山より東日本を見渡して治めていたと思われます。皇子は長く東国を治められ、筑波の里で神去り他界されました。皇子は、御遺徳を慕う筑波山の西側(現つくば市や筑西市)の民により宇都宮二荒山神社に祀られ、下毛君上毛君の祖と仰がれました。五世紀頃、筑波山の東側の柿岡に栄えた佐自奴公もまた同族であります。ました。日光の神様(蛇)と赤城山(百足)の神様の戦場ヶ原における戦いの伝説は、宇都宮や日光を統治していた崇神天皇の皇子の豊城入彦命が赤城山の豪族を退治したということかもしれません。このとき敗れたムカデが、赤城山で赤い血を流したため、‘赤き山‘と呼ばれ‘赤城山‘と呼ばれるようになりました。また、赤城の神様が傷だらけの体を癒したのが‘老神温泉‘であります。筑波国は、律令時代には筑波郡となり、寺が建てられて天平文化が謳歌され、神郡条里に代表されるように、水田が条里によって整備されました。また、筑波山の西側には結城市がありまして、松尾芭蕉に次ぐ江戸時代の大俳人で、池大雅と並び称される画家でありました与謝蕪村が若き頃に、十年もの永きに渡って滞在した所であります。結城市は、‘西の大島、東の結城と並び称される日本を代表する紬の里でもあります。このあとヤマトタケルは、筑波山の東にある奈良の三輪山を彷彿とさせる山容の宝キョウ山(461m)を眺めながら故郷の大和の三輪山を思い出し、感慨に耽りながら旅を続けられたと思われます。それから、ヤマトタケルは旧大形小学校のあった小高い山に登られました。ここには、ヤマトタケルの湧水伝説が残っております。箱根の日本武尊の泉など、ヤマトタケルは、日本中で数々の奇跡を起こした弘法大師と同じような超能力を持っていたようです。
話は戻りますが、火攻めをかいくぐったヤマトタケルは、相模国から東に軍を進めて、浦賀水道を渡ろうとしたとき(当時、東海道の終着点であった常陸国に行くためには、浦賀水道を渡り上総に上陸するのが最短のコースでした。)海神が怒って荒波を起こしました。(ヤマトタケルが討伐した怨霊や生霊による妨害もあったのではないかと思います。) そのために船はぐるぐる回って、前進することができませんでした。このままでは船が沈んでしまうというとき、ヤマトタケルの妃オトタチバナヒメは、「怒りを鎮めるために、私があなたに代わって海に入りましょう。あなたは、命じられた東征の任務を果たして、天皇に復命なさいませ」と進言されました。そして海に入るときに、菅・皮・絹の敷物をそれぞれ八枚重ねて波の上に敷き、その上に降り立たれました。すると、荒波は自然に凪いで、船は無事に房総半島に上陸することができました。この時、ヒメが詠まれた歌が、
‘‘さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも‘‘
(高い山の立つ相模国の野原で、燃え立つ火の、その火の中に立ってわたくしをお呼びかけてくださったあなたよ)
それから七日経って、ヒメの櫛が海岸に流れ着きました。そこで、ヒメの霊代である櫛をお取りなされて、墓を造って中にお納めになられました。ヤマトタケルの東国平定を祈願して一命を捧げる姿は、大和撫子の鏡といえるのではないでしょうか。オトタチバナヒメの名は、武蔵国の橘樹郡出身のオトヒメ(美女)の意。恐怖に立ち竦むことなく夫のために身を投げたオトタチバナヒメほど英雄ヤマトタケルにふさわしい妻はいない。現在は、神奈川県横須賀市にオトタチバナヒメの神社と走水神社があります。走水神社は、倭タケルが航海を祈願するため建立したとも、倭タケルから賜った冠を村人が石櫃に納め、景行40年に社殿を建立したのが起こりとも云われております。オトタチバナヒメは、千葉県茂原市の橘樹神社にも祀られております。この後、倭タケルは鹿島神宮に参拝して行方に立ち寄りました。行方には、倭タケルが曲玉を落として清めた‘玉清井(タマキヨノイ)‘があります。ここから、倭タケルは蝦夷平定へ向かったのです。
話は戻りますが、ヤマトタケルは常陸国を去った後、さらに進軍して、現在の千葉県から武蔵国へ、武蔵国から相模国(足柄峠)へ抜け、甲斐国(酒折宮・山高神代桜)に至ったと思われます。ここから北上するときに立ち寄った現東京都文京区湯島の妻恋神社は、倭タケルが兵糧の確保を願って稲荷神を祀ったのが始まりです。 ここから、群馬平定に向かう際、倭建が負傷したとき、夢枕に現れた老人(ご先祖の第五代孝照天皇)の教えに従って大宮市の氷川神社に参詣したところ、立って歩けるようになった。氷川神社は、第五代孝照天皇の時代に創建され、須佐之男命と稲田姫命と大己貴命を祀っております。そして、ここから秩父へ出たと思われます。ヤマトタケルは、8日間に渡り秩父の両神山を見ていたという‘八日見伝説‘を残しております。倭タケルがヒイラギの鉾を神宝とし大己貴命を祀ったのが出雲伊波比神社の起源であります。本殿は、埼玉県最古の神社建築で県の重文に指定されております。倭タケルは三峰山に登り、イザナギとイザナミを祀りましたのが三峰神社の起源であります。それから、長瀞市長瀞の宝登山にり、神霊を拝したのが宝登山神社の起源であります。宝登山は、蝋梅の名所でもあります。この後、倭タケルは、崇神天皇の第一皇子で、関東に派遣された豊鍬入彦命の子孫である上毛野氏が治める毛野国(天神山古墳付近の初期ヤマト王権の北限の主要都市)に寄って、景行天皇の命令を伝えたと思われます。
群馬を平定した倭タケルは、吾妻郡や嬬恋村付近を辿り、碓氷峠まで至り、東征の任務はほぼ完了しました。群馬県の川場村には、武尊温泉があり、その北には日本百名山にも数えられるヤマトタケルの名が付けられた武尊山があり、若山牧水の‘水上紀行‘で有名な奥利根のみなかみ町には、ヤマトタケルを祀る武尊神社があり、近くの‘宝来の滝‘でヤマトタケル‘が‘水乞い‘をしたそうです。この群馬平定は、東北平定の前だと思います。奈良への帰路、碓日坂(群馬県碓氷峠)の麓で行軍用の乾飯を食べているところに、坂の神が白鹿に変身して現れました。これを見て、すぐさま食べ残しの野蒜の片端を鹿めがけて投げつけると、目に当って白鹿は死んでしまいました。何か不吉な前兆を思わせる出来事でした。碓氷峠の碓は、小碓命の碓からきているのか?その後、碓氷の坂の上に登り立って、関東平野を顧みられて、犠牲になった弟橘姫を偲び「吾妻はや!」(吾が妻よ)と詠嘆されました。これにちなんで、この地より東の国(東日本)を「あつ”まの国」(東の国)と呼ぶようになったといわれてます。(群馬県嬬恋村や群馬県西部の吾妻郡の名の由来は、ヤマトタケルが亡き妻を偲んで「嗚呼わが妻よ」と嘆き悲しんだことから来ているのです。嬬恋村には、「愛西の丘」があり、全国から多くの愛妻家が訪れ、妻への想いを叫んでいます。さらに、‘葛飾北斎の町‘‘栗の里‘として知られ四季折々に美しい信州小布施は、古くは‘逢瀬‘と呼ばれておりました。
ヤマトタケルは東北平定の帰路、甲府市の酒折の宮に滞在しました。ここで詠んだ歌が、

”新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる‘

すると、篝火を守る老人がヤマトタケルの歌に合わせて、こう詠みました。

”日日並べて 夜には九夜 日には十日を”

見事な即興の歌に、ヤマトタケルはこの老人をお褒めになり、東の国の造の姓を授けました。
新治は、現在の笠間市や岩瀬を通った時のことを懐かしく思い出されたのだと思います。645年の乙しの変(大化の改心)の翌年646年多珂・久慈・那賀・茨城・新治・筑波の六国を合わせて常陸国が成立しました。倭タケルの白鳥稜は、やはり実在が確実視されている大阪府の応神天皇稜の側にあります。
倭タケルの問答が連歌の始まりとなりました。即ち、連歌から分かれた俳諧は、‘遊行の文学‘でもあるのです。
筑波山は、女体山から右にも伸びており、裏にも阿武隈山地まで連なっているため、人と人も連なっていることの美しさ・大切さを詠む連歌という文芸を筑波山の神様が倭建命に授けたのだと思います。
連歌は、遊行寺の時宗の僧侶が盛んに行っており、連歌を和歌に匹敵するほどの芸術の域にまで高めた飯尾宗祇は旅の連歌師でありました。そして、松尾芭蕉も旅の俳人でありました。筑波山の神様が、ヤマトタケルの心と言葉を使って連歌を創造したのだと思います。これにより筑波山は、連歌発祥の山として、連歌岳とも呼ばれるようになったのです。さらに、連歌のことを”筑波の道”とも言います。そして、12世紀後半には、鎖連歌が成立しました。13世紀後半から14世紀にかけて活躍した善阿の門下から救済、十仏、良阿などが出て、その救済の門からは貴族の二条良基と周阿がでました。二条良基は、連歌論書「僻連抄」や、式目書「応安新式」を著し、1365年には準勅撰集とされた「筑波集」を編んで、室町時代初期の連歌界の中心人物として活躍しました。さらに、室町後期には宗祇が出て、連歌を芸術の域にまで高めたのです。宗祇の「三無瀬三吟」、「湯山三吟」などの作品は。連歌の代表作として高く評価されてきました。1495年には、準勅撰集とされた「新撰筑波集」を編みました。

世にふるも さらに時雨のやどり哉  宗祇

世にふるは 更に宗祇の やどり哉  芭蕉

世にふるは 更に芭蕉の 時雨哉  紫峰

新撰筑波集には「俳諧」の部は無く、俳諧がすでに宗祇の頃には連歌から独立していたことが解ります。その証拠に、俳諧撰集としての「竹馬狂吟集」が「宗祇の「新撰筑波集」の成立からわずか四年後に編まれています。それから、山崎宗鑑によって新撰犬筑波集が編まれました。俳諧初期には、山崎宗鑑や伊勢神宮内宮長官を務めていた荒木田守武らが活躍しました。さらに、「新増犬筑波集」を編んだ松永貞徳が活躍し、貞門から松尾芭蕉の師匠に当る北村季吟が出ました。芭蕉三十歳の時、吉田蘭秀の編による「後選犬筑波集」に入集しました。そして、言葉遊びだった俳諧は、松尾芭蕉の誕生によって芸術の域にまで高められてゆくのです。松尾芭蕉の次の時代に活躍した与謝蕪村は、日本三大紬の結城紬の町として知られ、連歌の筑波山の西側の結城市に10年も滞在しています。

春の海 ひねもすのたり のたり哉  蕪村

大正以降の俳壇の大御所であった高浜虚子の愛弟子の高野素十は、筑波山を正面に見る茨城県山王村出身であります。素十の感性は、十二歳までの多感な少年期を過ごした茨城の自然豊かな風土が育んだのであります。
俳句と短歌を革新した正岡子規の短歌の愛弟子の長塚節もまた、筑波山を崇める茨城県常総市出身であります。長塚節は、農民文学の最高傑作である「土」(新潮文庫)を書いて夏目漱石から絶賛されています。また、1889年(明治22年)4月正岡子規は友人を訪ねて水戸に訪れています。そのときの模様を‘水戸紀行‘に述べられております。子規は、まず利根川を渡し舟で渡り、取手に出ました。
そこから、高野素十の故郷である藤代村で一泊しました。そして、牛久沼を眺めながらどしゃ降りの土浦へと出て、真鍋の高台にあった「総宜園」という茶屋にたちよりました。そのとき、霞ヶ浦を眺め句を詠みました。
霞みながら 春雨降るや 湖の上  子規

そして、石岡に泊まり水戸へ出ました。千波湖を望み、偕楽園を訪れ感激し、‘こんな美しい公園はない‘と言いました。
崖急に 梅ことごとく 斜めなり  子規

子規は、大洗まで足を伸ばしました。国鉄水戸線開業の年でありました。子規の名句には、

赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり  子規
柿喰えば 鐘が鳴るなり 法隆寺  子規

などがあります。子規の句からは、俳句の原点である連歌の聖地でもあり、三千年も前に日本で最初に信仰された山である筑波山が明るく爽快な秋空へ聳え立っていることが読み取れます。これと同じような句がもう一つあります。

雲の峰 いくつ崩れて 月の山  芭蕉
芭蕉が‘奥の細道‘のクライマックスである出羽三山への奥参りで登った月山を詠んだ句です。今なお、古修験道が色濃く残る出羽三山の主峰である月山は、‘甦り‘の修行道場になっておりまして、芭蕉の魂も甦るのを覚えつつ、月山の雲が消えて行って頂上まで晴れ渡って行くのを詠んだのでしょう。月山は、日本山岳を代表する湿原と紅葉も楽しめるので、是非訪れてみて下さい。
和歌の始まりは、出雲に降臨された須佐之男命であります。須佐ノ男命は、櫛名田姫を助けるため八俣の大蛇を退治しました。そして、「私はこの地にきて、心爽やかで気持ちがよい」と宮殿を建て始めます。そこで詠んだ歌が、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を   須佐之男命
(雲多く湧き起こるという出雲の国の名にふさわしく、湧き出る雲が織り成す八重の垣。
妻を静かに籠らせようと雲はつくるよ八重の垣。ああその八重垣よ)
和歌を創造したのが須佐之男命で、ヤマトタケルに連歌を授けたのが須佐之男命の親神のイザナギとその妻イザナミなのです。日本の詩は、神が創造した偉大なものなのであります。
また、筑波山は万葉集に富士山の13首を凌ぐ、山として最も多い25首も詠まれた日本を代表する名山であります。大和三山ですら、全て10首以内しか詠まれていないことからもその神格の高さが伺えます。藤原定家が、京都の小倉山の厭離庵で選んだ小倉百人一首にも筑波山の歌があります。

筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる  陽成院

また、小倉百人一首には、芭蕉が敬愛した能因法師の名歌も選ばれました。
嵐ふく 三室の山の もみち‘葉に 龍田の川の 錦なりけり  能因法師
藤原定家は、源平合戦のさなかにあって‘綱紀粛正我が事にあらず‘と言って和歌に命を懸け、新古今和歌集を編んだ大歌人であります。また、定家は、後鳥羽上皇の熊野詣に同行し、‘明月記‘を書きました。それによると、貴族でも身分の低い定家は、儀式や食事や宿舎の手配をすることが仕事で、床もない俄か造りの掘っ建て小屋で土の上に寝るありさまでした。さらに、宿が足りなくなると真っ先に追い出されたり、夜更けに急に出発させられたり、その上に風邪まで引いて、惨々な旅だったようです。大歌人である定家も人知れず苦労していたようです。元禄時代の俳壇の大御所だった松尾芭蕉も、
蚤虱 馬の尿する 枕もと  芭蕉
と詠んでおり、大歌人や俳聖であっても、人知れず苦労していたことを覗わせています。
筑波山は、877メートルほどの高さでありながら、その美しい山容から、古来より‘西の富士 東の筑波‘と並び称され、日本百名山のひとつにも数えられております。ちなみに、和歌の開祖はスサノオノミコトで、八俣の大蛇の尾から出てきたのがヤマトタケルを助けた天のムラクモの剣ですから、連歌の開祖と和歌の開祖は、不思議な縁で結ばれているのです。
万葉集といえば、古くから日本人に親しまれてきた秋の七草の一つ‘萩‘が最も多く詠まれています。
日本三名園の一つにして全国屈指の梅の名所でもある水戸の偕楽園では、毎年九月に萩まつりも開催しております。
ヤマトタケルは、酒折の宮からさらに現在の甲州街道(国道20号線)を下って北杜市に辿り着き、山高神代桜を手植えしました。北杜市は、南西に甲斐駒ケ岳、北に八ヶ岳と美しい名山に囲まれており、日本一の名水の里でもあります。
当時、東海道の終着点が常陸国であったことからも、常陸国や筑波山が伊勢や奈良と並んで、古代日本で最も神聖な土地の一つであったことがわかります。古代の日本において、西日本の中心が大和国で東日本の中心が常陸国であったことは、常陸風土記からも明らかです。常陸国には、三千年前より‘天の二神山‘と呼ばれた筑波山を初め、平安時代初期に鎮座された一ノ矢八坂神社のスサノオノミコト、500年代に鎮座された千勝神社の猿田彦大神、日本の三大八幡宮の一つに数えられてもおかしくない下妻市の大宝八幡宮、鹿島神宮のタケミカズチノ大神、息栖神社、静神社、笠間の出雲大社、大洗の大国主命、水海道の一言主命と日本の錚々たる神々が鎮座しておられ、正に神の国であります。古代の日本において、西日本の中心が奈良で、東日本の中心が常陸国であったことは明らかであります。空海と並んで日本を代表する僧侶である日蓮も、常陸国へ向かう途中で天国へ旅立ちました。また、日蓮と同じ鎌倉時代に活躍した浄土真宗の開祖親鸞も、常陸国での布教活動に明け暮れました。佐渡流罪から戻った親鸞は、常陸国の加波山・足尾山を経て、筑波山周辺の村々の人々を熱心に教化しました。約三千年の歴史を誇る日本最古の神社である筑波山神社には、なんと狩野探幽直筆の三十六歌仙絵巻が奉納されています。古より筑波山信仰を支えてきたのは麓にある六所神社ですが、常陸国の玄関口の取手付近や東京都の世田谷区にもあります。さらに、日本で二番目に古い神社は、奈良県の桜井市にある三輪山を御神体とする二千年の歴史を誇る大神神社であります。大神神社の御祭神は、出雲の大国主命が自らの幸魂・奇魂を祀った大物主神であります。出雲大社と並ぶ縁結びの神社であります。茨城県の大杉神社総本宮も、大神神社の神様を祀っております。茨城県の大洗磯崎神社は、大ナムチがこの地に現れたことにより祀られました。大神神社は、日本神話最古の神社であります。また、大神神社と元伊勢の桧原神社には、日本古来の‘三つ鳥居‘があり、ここから三輪山を参拝するのです。この三輪山の麓のマキムク遺跡から、2009年日本史における21世紀最大の発見がありました。3世紀最大の建造物で、床面積は72坪もあり、邪馬台国の女王日巫女の神殿と思われます。さらに、ここから二千数百個の桃の種が発見されたことから、ヒミコの行っていたまじないが中国の道教の神仙思想や陰陽道のようなものであったと思われます。神仙や陰陽師があらわした霊符には、森羅万象の気や神々の威力が独特の筆さばきによって霊写されています。この神殿にいたヒミコの男弟は桃と関係の深い吉備津彦命で、日巫女から神のお告げを聞き政治を行っていた男弟とは崇神天皇であります。卑弥呼とは、男王を補佐する地位の呼称で、姫巫女のことであります。即ち、男王・女王の二人がいて、男王は、政治・軍事を担当し、女王は祭祀を担当していました。祭祀は、女王が巫女を兼ねていた伊都国のものをそのまま採用しています。三種の神器は、高千穂で造られ、天ムラクモノ剣は、出雲国に治められ斐伊川上流に鎮められたのだと思います。卑弥呼がもし、天照なら高千穂出身であります。神殿の発見により、邪馬台国は三輪山の麓のマキムク遺跡を中心とした一帯であることが伺えます。また、マキムク遺跡の近辺には、日巫女の墓と思われる3世紀最大の前方後円墳の箸墓古墳があります。箸墓古墳は、昼は人間が造り、夜は三輪山の大物主神が創ったそうです。また、纏向遺跡の初期型前方後円墳は、日巫女の先祖や皇族のものと思われ、日巫女が神のお告げによって発明した型であると思われます。日巫女がヤマトトトヒモモソヒメノミコトで三輪山の大物主神に仕えていたことを伺わせます。‘ヤマトトトヒモモソヒメノミコト‘には、‘ヒミコ‘の三文字が含まれております。また、手塚治氏のいうように、卑弥呼は天照大御神に仕える‘日の巫女‘でもあったのです。その証拠に、卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡が、鏡面に光を反射させると背面の文様が壁に写し出される特性を持つことが解ったからです。天照=太陽を崇める祭祀で光を操り、権威を高める役割があったとみられます。神武天皇より、皇室は‘神‘と人との仲立ちをする祭司であった。この鏡は、4世紀初めの愛知県犬山市の東之宮古墳から出土していることから、卑弥呼の後に権力を握ったヒミココも祭祀で使っていたとおもわれます。日巫女の傍らには、ヤタの鏡があったに違いありません。即ち、ヤマトトトヒモモソヒメの伝説こそが、卑弥呼の謎なのであります。さらに、マキムク遺跡の日巫女の巨大神殿からは、2000個以上の大量の桃の種が発見されたことから、中国の道教の神仙思想日巫女のもとに伝わってきていて、日巫女は真武神も信仰し、霊符を極め、神仙の域に到達していて、桃の儀式により不老長寿や倭国の平和を祈っていたと思われます。桃は、邪気を祓う霊木で、道教には欠かせないものだったのです。卑弥呼の頃、中国では、亀の甲羅を焼いて占う亀卜(令亀の法)がありました。道教は、中国で生まれた漢民族の伝統的な宗教で、不老長寿の仙人になることを求めた古代の神仙思想をもとに、「陰陽五行」や老子などの道家の思想を加え、徐々に体系化されました。風水などの民間信仰とも密接な関係を持っていて、現在も民衆のなかで根強く生きています。陰陽道は、日本の道教であり、平安時代の超能力者であった阿部清明など陰陽師の霊符も道教の神仙の霊符を元に生み出したと思われます。また、邪馬台国の人々が刺青をしていたのは、現在のタイと同じように、‘敵を寄せ付けない‘‘幸運を引き寄せる‘効果があると信じられていたからだと思います。平安時代のもう一人の超能力者である空海は、密教の技を使っていました。古事記では、イザナギが桃を投げて邪霊を退散させた話は、古代中国において、桃が邪気を祓う力を持つことに由来しています。‘ヤマト‘という言葉は、もとはといえばこの三輪山周辺の地名でした。‘ヤマト‘とは‘山のふもと‘つまり‘三輪山のふもと‘という意味でした。それが、奈良全体、そして日本全体を指すようになったのも、この地がヤマト大権の中心地だったからなのです。天理から桜井市付近までの大和盆地には湖があって、日巫女の時代からあったであろう山辺の道は、湖岸道路であった可能性も高いのです。さらに、邪馬台国の‘邪馬‘は‘倭国‘のヤマであり、ヤマタイ国の‘タイ‘は、日巫女の後継者である‘トヨ‘の‘ト‘と同じ漢字であることから、‘ヤマタイ‘は‘ヤマト‘の呼び間違えであります。トヨは、豊鋤入姫命であり、卑弥呼より三十三面の三角縁神獣鏡を受け継いで国を治め、死後黒塚古墳に埋葬されたと思われます。卑弥呼の後の時代、崇神天皇の元(皇居)にあった天照大御神の御神体(神霊)であるヤタの鏡は、崇神天皇への‘神のお告げ‘により、卑弥呼の後継者である豊鋤入姫命(崇神天皇皇女)により、崇神天皇39年に丹波国一之宮の籠神社に遷されました。丹波国には、イザナギがイザナミの元へ通った天の橋立もあります。さらに、真名井神社は、元豊受大神宮であります。また、天照は大和国笠縫邑(現檜原神社)に移されました。天照大御神の御神体は、ヤタノ鏡と三輪山のいわくらであったため、大神神社同様本殿がなく、三ッ鳥居から拝む形式だった。魏志倭人伝では、景初三年(239年)に、卑弥呼が魏から銅鏡100枚送られたとあり、近畿を中心に約500枚が出土し、うち400枚は魏の渡来人が作ったものと思われます。景初三年の銘を記す神獣鏡は、100%魏から送られたものであります。卑弥呼の‘弥‘は、厳島神社のある宮島の巨大石のいわくらがある弥山の弥と同じ字であり、卑弥呼の‘弥呼‘は神を呼ぶとも解釈することができます。ヤマトトトヒモモソヒメ以外で卑弥呼の可能性があるのは、神功皇后だけであります。
また、魏の一行は、福岡を出発して関門海峡を通りすぎるとしばらく南下するため、魏志倭人伝には南へ二十日、さらに十日と間違えて記してあるのです。また、地図によると当時の日本は朝鮮半島のはるか南にあると認識されていました。そのため、南に長く伸びている国だと認識されていたのです。魏の使者は、北九州から出雲に出て、出雲街道を通り、卑弥呼の弟の吉備津彦が平定した吉備国に出て、大和国を目指したのです。あるいは、人ずてに聞いたルートを記載したのでしょう。これは、吉備まで二十日・大阪まで十日・奈良のマキムクまで歩いて一月と記してあるのです。繰り返しますが、魏志倭人伝の邪馬いッ国の‘いッ‘は、日巫女の後継者の‘トヨ‘の‘ト‘と同じ漢字で、邪馬台は‘ヤマト‘と呼ぶのです。日巫女は、狗ナ国(愛知県一宮市の萩原遺跡群)の男王のヒミココと戦い続けていましたが、248年に‘箸‘で自ら命を絶ちました。箸墓古墳の名の由来です。この後、13歳の崇神天皇皇女の豊鍬入姫命もしくは、伊都国の卑弥呼の後継者が倭国の女王として選ばれました。先ほど述べた三輪山の近辺にある初期の最大の前方後円墳である箸墓古墳こそが、卑弥呼稜なのです。さらに、マキムク勝山古墳や石塚古墳、矢塚古墳、ホケノヤマ古墳は日巫女と同じ皇族のものと思われます。マキムク遺跡からは、九州から関東に到る広範な地域の土器が出土しており、ここがヤマタイ国であることは確実であり、すでに3世紀前半には九州から関東に及ぶ広域の政治連合が成立していたことになり、マキムク遺跡こそが初期ヤマト政権(ヤマタイ国)誕生の地なのであります。三世紀前半の日本最大の建造物を抱える当時日本最大のマキムク遺跡こそが、邪馬台国であることは確実であります。九州説において万が一可能性があったのが、宮崎康平説の長崎県島原地方です。ここは、日巫女に匹敵するカリスマ‘であった天草四郎時貞誕生の地でもあり、時代を超えたドラマチックなロマンを感じさせます。しかし、‘水行二十日、さらに水行十日、陸行一月‘もかかることは有得ないと思います。しかしながら、宮崎氏がきっかけで発見された吉野ヶ里遺跡は、日巫女よりも前の弥生時代のもので、ヤマタイ国ではありません。

古代記 2010/4/13 
大和国の最初の王だったニギハヤヒの子孫である武内宿禰は、第八代孝元天皇の曹孫で、蘇我石川宿禰や葛城氏の先祖である。第十二代景行天皇朝には、関東・東北・蝦夷を視察し、第十三代成務天皇朝(倭タケルの子)には日本初の大臣になりました。成務天皇は、国境を定めて大国と小国に分け、国造(クニノミヤツコ)と県主(アガタヌシ)の制度を作られました。さらに、景行天皇までのマキムクから都を近江の大津に移されました。武内宿禰は、仲哀天皇の御世に、倭タケルの意志を継いで蝦夷を巡察し、さらに九州の熊襲を平定し、364年神功皇后を助けて神意を受け(神功皇后は神託を受けて応神天皇を宿したまま、船上に住吉三神を祀り、朝鮮出兵乗り出した。)、新羅との戦いや香坂・忍熊王の乱を平定、応神天皇を即位させました。忍熊王と香坂王の墳墓は、奈良市押熊町の押熊八幡社にあります。武内宿禰は、因幡国唯一の名神大社である宇部神社に祀られており、昇天伝承の双履跡があります。また、九州最大の神社建築である高良大社にも祀られています。
1000年以上たってから、秀吉が佐賀県唐津市に肥前名護屋城を建て大陸征服を狙いました。岡山県の当時日本最大の前方後円墳だった造山古墳が、武内宿禰の墓だと思われます。世界三大陵墓のひとつ仁徳天皇は、当時の大豪族葛城氏の娘イワノヒメを皇后に迎えます。リ中・反正・インギョウ天皇を生みました。皇族以外の最初の皇后で、葛城氏の権力を物語っています。神功皇后朝の369年、百済で七枝刀(ななつさやのたち)が製造され、372年に百済王の世子から神功皇后に献上されました。これこそが、現在石上神宮に奉納されている七支刀(銘文が証拠)であります。
364年(三国志記)、神功皇后は、大阪の住吉三神「の神託を受け、住吉三神が神功皇后に神がかりして航海安全を約束して朝鮮半島に遠征し、新羅に上陸して新羅を平定しました。その際、仲哀天皇と共に敦賀の気比大神に新羅征討を祈願されました。そして、無事遠征を終えて帰還する途中、神戸あたりで船が進まなくなりました。そこで、占いで顕れたのが‘稚日女尊で、五十狭茅が祀ったのが生田神社の始まりです。皇后は、武内宿禰を伴って香坂皇子と忍熊の皇子の乱を平定されました。皇后は、新羅平定直後に、宇美神社の地で応神天皇(讃)をお生みになられました。三韓征伐を終えた神功皇后が生まれたばかりの応神天皇と共に滞在された場所に建立されたのが、福岡県の‘はこ崎宮‘の地であります。実に1600年以上の歴史を誇っております。応神天皇が少年時代に禊をした地が福井県敦賀市の気比神宮である。八幡宮の総本社である宇佐神宮は、応神天皇が29代欽明天皇の御代に示顕なされた地である。下妻の大宝八幡宮は、宇佐に次ぐ古い八幡宮である。仲哀天皇と神功皇后が滞在された地に、仲哀天皇の神霊をお祀りになったのが現在の香椎宮である。住吉大社の御田植祭は、神功皇后によって設けられた御田で行われます。また、高千穂の天照から歴代天皇を補佐するようにと神勅を給わった宗像大社の境外摂社である織幡神社は、三韓征伐の折使われた紅白の二つの旗を武内宿禰が織った地で、宿禰が死の間際にこの地に我を祀れと言い残したのである。秦の始皇帝の子孫である秦氏は、応神天皇十四年に渡来した一族である。丹は、中国の使者が付けた地名と思われます。神功皇后の時代、4世紀後半に高句麗が南下してくると、朝鮮半島南部の鉄を確保するため、伽耶諸国と深い関係にあった倭国は、高句麗と争うことになりました。物部氏が奉斎する石上神宮が所蔵する‘七支刀‘(ななつさやのたち)は、その銘文から、百済国の泰和四年(369年)に造られています。この鉄剣は、372年に百済の肖古王が神宮皇后に献上したものであります。さらに、物部氏の祖先は、島根県の物部神社に祀られています。そして、出雲勢力と大和勢力の接点にあった丹波の出雲大神宮の境内や周辺に古墳が点在しており、元出雲であったことは確実であります。出雲大神宮は、崇神天皇の御代に再興されました。また、京都に近い兵庫県豊岡市の出石神社は、朝鮮からの渡来人である天日槍命を祀っており、優れた土木技術でこの地を開拓して定住しました。倭国は、364年に新羅に攻め入り、366年から百済と国交を開始しています。好太王碑の碑文には、難波津(なにわのつ)を出航した倭国が391年に百済・新羅を滅ぼし、以って臣民と成すと記されております。ここに、神功皇后もしくは応神天皇の朝鮮平定が記されているのです。神功皇后の後を継ぎ、実存が確実視されている十五代応神天皇は、五世紀前半の天皇であり、‘讃‘であることは確実であります。この応神朝に、王仁博士が論語と漢字を日本に伝えているのです。また、縫製・治山治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸・紡績、その他あらゆる殖産興業や衣食住等、人間生活の根源が伝わりました。正に応神天皇は、日本文化の生みの親であります。八幡神(やわたのかみ)になったのも当然であります。さらに、応神天皇は百済を助けて新羅を牽制しております。播磨最大の五色塚古墳は、応神天皇の側近のものとおもわれます。また、奈良市陵町にある五社神古墳が神功皇后陵であります。
538年には、難波津から初瀬川を通って奈良に仏教が伝来しました。そして、日本初の市である‘つば市‘が開かれ、カガイが行われ、海外の物資が行き来しました。初瀬川沿いでは、外国船を馬を飾って歓迎したそうです。古代における山の辺の道の西側は湖だったと伝わっております。武内宿禰の子孫である蘇我稲目が仏教を日本に受け入れ、蘇我馬子が聖徳太子と共に仏教を信仰しましたが、蘇我入鹿が神道派の藤原鎌足に滅ぼされました。日本人の故郷である飛鳥には、日本初の本格的寺院である法興寺や川原寺、山田寺など多くの寺院が立ち並び、蘇我氏が築き上げた日本初の仏教の都でした。厩戸皇子も飛鳥(橘寺)でお生まれになりました。法興寺は、596年の創建で、606年に聖徳太子が渡来人の‘くらつくりのとり‘に大仏を作らせました。茨城県の雨引観音は、飛鳥寺よりも古い587年の創建である。蘇我氏の本拠地である飛鳥の地には、最古級の寺院が次々と建立されました。蘇我氏の仏教信仰は篤く、実際には慈悲深い人々であったのではないでしょうか。飛鳥の地は、日本の心の故郷として、万葉集にも読まれた、日本の最も牧歌的な美しい土地であります。日本書紀は、蘇我氏の敵対勢力であった藤原氏側に立ったもので、仏教を信仰した蘇我氏は、聖徳太子のように慈悲深い人だったに違いありません。飛鳥時代の跡、飛鳥と並ぶ美しい日本の原風景である大和三山の真ん中に藤原宮が築かれました。686年には、奈良に初瀬寺が建立されました。
応神天皇は、400年と404年に高句麗を攻撃しましたが、好太王の反撃に遭い敗退しました。高句麗の騎馬軍団との戦いで、倭人たちは騎馬技術を学びました。さらに、応神朝に論語を携えた王仁(わに)博士やきぬぬいめが来日しております。その論語を学んだ仁徳天皇は、民を慈しむ正に仁と徳の天皇となられたのです。また、秦氏の先祖の弓月君が養蚕や機織の技術を伝えました。阿知使主は、史部(ふひとべ)を管理しました。埼玉古墳群は、倭五王の蝦夷平定の前線基地でした。京都の宇治上神社には、応神天皇の皇子の一人が祀られております。陶淵明は、詩聖杜甫・李白・白楽天と並んで漢詩の四天皇でありますが、神功皇后から仁徳天皇と時代一にしていると思われます。倭の五王の讃は応神天皇・珍は仁徳天皇・済は允ぎょう天皇・興は安康天皇・武は雄略天皇であります。土師二サンザイ古墳は、反正天皇か允恭天皇稜である可能性が高い。
応神・仁徳天皇は、鉄生産で力をつけた吉備の抵抗勢力に圧力をかけています。3世紀の吉備は、朝鮮半島から渡来した温羅を首長とする鉄生産技術集団が支配しておりました。そこで、卑弥呼の兄弟である吉備津彦命が崇神天皇の命を受けて犬飼建命やささ森彦命などの側近を引き連れて吉備を平定したのです。ヤマト王権は、吉備における鉄の確保に成功しました。応神・仁徳両天皇は、共に吉備の妻を娶り、帰国した妻を追って吉備に行幸されました。宮崎神宮は、2世紀前半に神武天皇が日向国の王だった頃の皇居ですが、3世紀の崇神天皇の御代に孫の建磐龍命が宮崎神宮を造営したのです。応神・仁徳天皇は、神武天皇の故郷である宮崎県にある西都原古墳群の首長の娘を迎えております。仁徳天皇の皇后陛下の石野比売(いわのひめ)は、葛城からむかえられております。この頃、福島県で力士の埴輪が作られていることから、力士は宗教儀式において重要な役割だったことが分かります。熊野那智大社は、仁徳天皇の御世の創建であります。印度の裸形上人が那智にきたのは4世紀ですから、那智山青岸渡寺は、景行朝から仁徳朝の間の創建で、事実上日本最古の寺でありまして、西国観音霊場一番札所のなっております。仁徳天皇は、儒教の教えから三年間免税しました。また、屯倉を設けるなど数々の大事業を成し遂げられました。日本最大の前方後円墳は、民を哀れんだ仁徳天皇陵であります。

すめらぎの 聖の御世や 天の川  紫峰

吉備の盾築墳丘墓が前方後円墳の原型といわれております。東日本最大の前方後円墳は、群馬県の太田天神山古墳で、ヤマト王権の蝦夷対策の拠点であった上毛野国の首長の墓であります。高津宮で日本の指揮を執っていた仁徳天皇の命を受けた上毛野田道は、蝦夷との戦いで伊寺水門‘で敗れました。実に、坂之上田村麻呂まで蝦夷は抵抗し続けたのです。葛城の金剛山周辺は、高天原の伝承地で、第九代天皇までの葛城王朝があったと思われます。葛城には、高鴨神社がありますが、葛城氏のご先祖は鴨族であり、神武・スイゼイ・安寧の三代天皇が鴨族の娘を妃に迎えています。葛城氏の先祖を祀っている氏神様は、高天彦神社であり、高鴨神社は、下賀茂・上賀茂両神社や、全国の鴨神社の総本宮であります。十代崇神天皇からは、三輪王朝に変わっています。巨大な造山古墳や作山古墳は、これら吉備の豪族の首長のものであります。関東最古の那須八幡宮は、5世紀の仁徳天皇の御世に創建されました。福岡県の住吉神社には、和歌の神様でもあり、正風連歌の開祖飯尾宗祇も訪れております。
紀元前1世紀頃、倭は小国に分立しておりますので、米を所有する弥生時代が完成しています。57年頃は、北九州が日本の中心でした。鳥取県の因幡伯国は東部出雲と同様に、弥生時代より鉄器の製造が盛んでした。吉備や出雲などの鉄文明の地が、卑弥呼を筆頭とする初期大和政権の原動力となっていったのであります。神武天皇の直前の1世紀後半が出雲の大国主命の時代だと思います。この頃、高千穂では、天照女王にタケミカズチ・フツヌシが側近として君臨していました。
107年に後漢に入貢したスイショウは、大国主命か神武天皇以降の初期天皇か吉野ヶ里遺跡の王だと思われます。弥生後期、静岡県の登呂遺跡にも王が君臨していました。宋に遣使した倭の五王とは、応神(421年)・仁徳(438年)・允恭443年)・安康(462年)・雄略天皇(478年)であります。この頃、漢字の使用も始まりました。
武内宿禰は、当時の平均寿命からすると、卑弥呼をも凌ぐ長寿で80歳~90歳まで生きたと思われ、葛城氏・蘇我氏(蘇我石川宿禰)・平群氏・巨勢氏の祖であります。上石津ミサンザイ古墳は、年代と規模から神功皇后か武内宿禰以外ありえない。蘇我氏は、聖徳太子と共に仏教を支持した偉大な豪族です。蘇我馬子は、日本人が造った初の寺である元興寺を建立しました。593年には、厩戸皇子が四天王寺を、596年に蘇我馬子が飛鳥寺を、さらに、聖徳太子が法隆寺を建立しました。また、飛鳥の山田寺・川原寺、信濃の善光寺(飛鳥時代創建)・浅草寺・645年創建の九州大分県耶馬渓の羅漢寺など、次々と仏教寺院が建立されました。この頃、前橋市で琴をひく人の埴輪が造られましたが、王と巫女との埴輪で再現される儀式には、楽を奏でる人物が必ず登場しています。聖徳太子の時代には、東日本で発見された最初の装飾古墳である茨城県ひたちなか市の虎塚古墳が造られました。古墳内部の芸術は爆発しており、古代日本人は既にダリの水準に達しておりました。日本国最古の寺は、西国観音霊場第一番札所那智山青岸渡寺で、4世紀(景行天皇の頃)に印度の裸形上人が那智の滝で修行を積み、観世音菩薩を感得し、草庵を結んで安置したのが始まりです。また、熊野那智大社は、5世紀の仁徳天皇の御世に創建されました。茨城県には飛鳥寺よりやや早い587年に、中国の僧により雨引観音楽法寺が建立され、光明皇后が出産の際には、直筆の法華経の書写を奉納されました。浅草寺よりもさらに古い東日本最古の寺であります。延命観世音菩薩を祀り、病気平癒や安産にご加護があるといわれています。蘇我馬子は、聖徳太子と共に飛鳥時代の幕を開いた大政治家でありまして、石舞台古墳に埋葬されました。蘇我氏は、仏教伝来に伴って百済からやって来た渡来人だと思われます。中国にも蘇州があります。
1970年代から、最初の水時計台跡(水落遺跡)・最古の回廊建造物(山田寺跡)・天皇発願の最初の寺院‘百済大寺跡・酒船石遺跡・飛鳥清御原宮の正殿・飛鳥京苑池・飛鳥池遺跡など、枚挙に暇がありません。聖徳太子を写したとされる法隆寺金堂釈迦三尊像のアルカイックスマイルは、ガンダーラの仏像にも見られます。(聖徳太子の頃、アラビアではムハンマドが活躍してイスラム教が誕生しました。)さらに、ガンダーラに仏像をもたらしたのは、ギリシャ人です。そして、法隆寺回廊のエンタシスの柱はギリシャのパルテノン神殿に見られるもので、7世紀初頭には中央アジアを通して西洋と交流があったことを物語っております。また、日本神話とギリシャ神話も対照的であります。牽牛子塚古墳は、斉明天皇稜であります。587年、厩戸王と縁戚関係にあった蘇我馬子が廃物派の物部守屋を滅ぼしました(未巳の変)。この頃、東京都葛飾区柴又八幡神社古墳より渥美清さんの五代ぐらい前の前世と思われる帽子を被った目の細い渥美さんそっくりの埴輪が平成13年8月4日の渥美さんお誕生日に出土しました。奈良時代には、柴又にあなほべの刀良とあなほべの佐久良売(さくらめ)という人物が住んでいたことが正倉院の書物から分かり、寅さんと妹さくらに一致し、映画そのものであります。645年には、孝徳天皇が即位し中大兄皇子が皇太子となり、元号が大化に改められました。この年、乙巳の変がおきました。また、浅草寺が建立されております。藤原鎌足の息子不比等の娘光明子は、聖武天皇の妃となられました。光明皇后は、587年に建立された常陸国の雨引観音楽法寺で、子供の安産祈願をされました。6世紀末から8世紀初頭にかけての飛鳥・藤原京時代は、日本の政治・社会・宗教・文化の大きな転換期であり、300年以上に渡って造り続けられてきた前方後円墳の築造をやめて、天皇の古墳も八角形墳と大きく変質し、前方後円墳は姿を消してゆきます。さらに、律令を基にした統一国家が作り上げられ、国号も‘倭国‘から‘日本国‘を名乗るようになります。天皇称号も始まりました。貨幣も作られ、新しい学術や芸術・技術も花開きました。仏教や道教が受容され、宗教生活も大きく転換しました。隋や唐、朝鮮半島諸国と豊かな交流によって、まさに‘文明開化‘の時代になりました。飛鳥・藤原の地で始まった多くのことが、今日に引き継がれており、私たちの大きな源流がここにあったのです。飛鳥・藤原の地は、古代史の‘無尽蔵の宝庫‘なのであります。
本居宣長・新井白石の時代から二百年以上も続くヤマタイ国論争。2009年に奈良県桜井市まきむく遺跡から卑弥呼の神殿と天照大御神のお宮が発見されました。この建造物の棟上柱は、オベリスクと同じく神が降臨する柱であり、伊勢神宮と同じ造りであることから、卑弥呼が天皇家の倭トト日百襲姫であることは確実であります。さらに、神殿遺構の時期は、3世紀前半の庄内期古相段階のものであり、その廃絶は土器の年代などから3世紀中頃の庄内3期である。この事は、下層遺構を覆う上層遺構の調査において3世紀後半の布留0期の土杭などが複数確認されていることからも分かる。国内最古の前方後墳である纏向石塚古墳は、卑弥呼が形状を創造したものと思われ、卑弥呼の箸墓と同じく皇族のものと思われる。また、3世紀末に築造され33面の鏡が出土した黒塚古墳kそ、卑弥呼の後継者である豊鍬入り姫命の墓である。漢字の大和国は、八世紀後半から使われ始めた地域の表記である。魏志倭人伝の頃は、ヤマ‘タイ‘国と書いてヤマ‘ト‘国と呼ぶのであります。
日本が弥生時代の真っ只中、百以上の‘クニ‘が次々と誕生していた紀元前51年にエジプトはクレオパトラの時代に入りました。卑弥呼神殿発見と同じ2009年には、クレオパトラの妹アルシノネの墓が見つかり、世界三大美女クレオパトラの顔が再現されました。
倭国大乱の前は、男王が倭国を治めていたとありますが、男王は大国主命と思われます。107年のスイショウに対する‘倭国王‘という表記は、西日本が統合されたことを物語っており、大国主命もしくは神武天皇(1世紀から2世紀前半付近の天皇)、あるいは北部九州連合の吉野ヶ里遺跡の王のことを指していると思われます。神武天皇とするなら、正式な皇紀元年は1世紀終わり頃~2世紀初頭の元旦(小正月)の可能性が高く、鹿島神宮の創建もこの頃となります。この頃神武天皇は、大和で大国主(1世紀に西日本一帯を支配していた王)の娘を皇后に迎えました。都城市郊外にある御池は、神武天皇が幼少時水浴びをした場所である。147年~189年が‘倭国大乱‘の時代と記されていますが(魏志倭人伝)、‘スイショウ=スサノオか大国主命か神武天皇‘の後の70~80年間の第二代天皇時代以降からしばらくは平和な時代が続いていましたが、189年に孝霊天皇皇女である卑弥呼共立前までの約40年間、初期ヤマト王権の畿内と北部九州が対立した日本最古の戦国時代がありました。また、倭国大乱は気候の変動も原因しており、青谷神寺地遺跡から百体を越える傷ついた人骨が発見され、倭国大乱の事実を裏ずけております。実際、紀元150年からの大干ばつで飢饉が起こり、人々を困窮におとしいれたことが証明されております。また、漢王朝が滅亡への道を歩んでいたことも倭国大乱の原因の一つと言われております。このことから、伊都国の女王の後継者であるかもしれない卑弥呼が、初期大和政権に派遣されて和睦したという説も納得がゆくのです。ヤマタイ国までは、不弥国から日本海に出て、海岸に沿って20日航行し、投馬国(ツマコク)=出雲に寄り、さらに10日航行し、兵庫県の但馬もしくは京都寄りの港から1カ月歩いて大和国に辿り着いたか、瀬戸内海を通り、投馬国=防府・鞆(トモ)に寄り、初瀬川から入って大和国に抜けたかどちらかです。初瀬川なら陸路1日の間違いです。ヤマタイ国畿内説を唱えた京都帝国大学の内藤虎二郎教授や1922年に箸墓が卑弥呼の墓と大きさが一致したことつきとめた中学校教諭の笠井新也先生の先見の明は確かです。トヨのトとヤマタイ国のタイが同じ漢字なので、正式にはヤマ‘ト‘国とよぶのであります。弥生時代中後期頃に、西日本で顕著になる高地性集落は、水稲農耕に不向きな丘陵尾根上や山腹に営まれた集落のことですが、戦乱時の逃げ城・周囲の監視・狼煙通信といった機能を持っています。そうした集落が西日本に多数現れるということは、軍事的な緊張状態が生じていたことを伺わせます。また、社会の階層分化と首長制の発展に伴い社会の支配的精神秩序となった新たな祖霊信仰が始まりました。そして、30カ国の王の談合があり、189年に卑弥呼(倭トト日百襲姫命)が共立され、日本の指揮を取ったのです。また、奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した中平銘鉄刀により、中平(184~190)に卑弥呼を中心とする大和の政治勢力が存在したことを物語っております。東大寺山古墳には、高地性集落もあり、卑弥呼に服属した有力氏族の遺跡と思われます。伊都国(平原遺跡)で発見された日本最大の鏡である内行花文鏡の存在からも、卑弥呼が伊都国の巫道を取り入れたことが分かります。また、畿内を中心に分布する青龍3年・正始元年の魏年号銘を持つ鏡・黒塚古墳から出土した33面の鏡・京都の椿井大塚山古墳から出土した32面の鏡、さらに1973年に島根県雲南市加茂町で発見された景初3年の銘を持つ鏡は、魏の皇帝から贈られた銅鏡百枚のことで、纏向の卑弥呼が各地の豪族に配ったり、後継者のトヨに譲ったものである。このことからも、卑弥呼の時代に出雲クニが大和の支配下に入ったことが分かります。さらに、2009年に奈良県のマキムク遺跡で発見された卑弥呼の神殿は、卑弥呼の時代の建造物で、三棟のうちの中央の建造物が伊勢神宮と同じ神が降臨するオベリスクのような棟持柱(むなもちばしら)も備えております。また、棟持柱があるため、向かって右側が入り口となっており、これは出雲大社との共通点であり、卑弥呼をいただく初期ヤマト政権が出雲を平定したことを物語、なおかつ国譲り神話が現実の出来事であったことを物語っております。マキムク遺跡の卑弥呼の神殿は、卑弥呼の他界の248年以降に取り壊されていることから、クナ国が取り壊したことに違いありません。クナ国は、古代地図で朝鮮半島から見てヤマタイ国よりもさらに遠地にあるという記述や愛知県一之宮市のマキムクに匹敵する規模を誇る3世紀の萩原遺跡群の存在からから尾張の勢力である可能性が濃厚ですが、四国の松山の勢力であったという説もあります。初期ヤマト政権が強大な権力で日本を支配していたのは、卑弥呼の男弟(男の弟子・甥)である崇神天皇が政権を担当し、四道将軍などを派遣したことからも伺えます。即ち、卑弥呼の信仰は神道であり、神政一致の古代政治を指揮し、宮崎県の高千穂に実在したと思われる天照大御神を信仰していたのであります。540年の欽明天皇の御代に第二の天孫降臨の地として霧島連山の高千穂峰に天逆鉾が立てられ、霧島神宮が建立されました。しかし、岩戸神楽や岩戸川まである高千穂の国見ヶ丘の方が本物であります。卑弥呼自身は福岡県の伊都国の女王様の後継者である可能性も高く、伊都国に一大率を置き、西日本を取り締まったのです。また、大国主命やナガスネヒコの都跡とも創造される唐古・鍵遺跡も卑弥呼共立直前まで一帯を支配していた有力氏族のものかニギハヤヒの都か大国主命が大和に造った都と思われます。倭国大乱の時期に、瀬戸内海沿岸など日本全土に高地性集落が出現しました。大国主命の宮と思われる弥生時代最大の唐子・鍵遺跡も同様であります。また、184年に漢王朝が滅亡し、220年頃には三国時代に突入しました。しかし、諸葛孔明の五丈原での病死の後、蜀は魏に滅ぼされてしまいます。
卑弥呼は、北部九州の伊都国の女王様の後継者であるとも言われておりますが、伊都国の祭事や儀式などが初期大和政権に採用されたと思われます。
平塚らいてうは、‘女性は太古神であった‘といっているように、古来より女性は太陽であり、神に仕える存在でした。元来日本の主役は命を守る本能が強い女性でした。旧暦以前の太古の正月も女正月(小正月)といいます。247年尾張のヒミココと争い、卑弥呼の他界の年‘248年9月5日‘夜明けに、皆既日食が起きたことが確定している。この時、卑弥呼の結婚相手の三輪の大物主が蛇であることが判明し、卑弥呼が事故死しました。濃尾平野の朝日遺跡も一宮市の遺跡と共にヒミココの支配下にあったと思われます。卑弥呼の後継者トヨの墓は、椿大塚山古墳か黒塚古墳であります。唐古・鍵遺跡は、銅鐸製造所でもあります。大国主命が大和に造った町かも知れません。
琉球王国にも、神と交信した聞得大君(キコエオオキミ)という女性主祭がおりました。日本初の鏡製造所である福岡県のナ国の須玖遺跡群で日本最古の鏡の鋳型が発掘され、紀元前二百年頃には北部九州の王たちが墓に鏡を埋葬するようになったのです。さらに、高千穂に伝わって天照が天岩戸でヤタノ鏡を作ったのだと思います。この時、スサノオの乱暴狼藉に起こったイザナギは、スサノオを追い出して、自分も高千穂を離れて近江国の多賀大社の地に行って余生を送ったのです。イザニギ・イザナミ二神のみを祀る神社は、日本でも多賀大社のみであります。スサノオは、母生誕の地で母他界の地でもある出雲に行って心を入れ替えたのです。
卑弥呼は、景初3年に魏に遣いを送っています。卑弥呼(倭とと日百襲姫)は、234年に諸葛孔明が五丈原で病没したことを知り、蜀の滅亡を悟って、魏に使者を送って親魏倭王の称号を給わったのです。240年に、帯方郡の太守が倭に使節を送り、その道のりが記されている。243年に倭王(崇神天皇か卑弥呼)の上献があった。245年難升米に黄どう(黄色のはた)。魏志倭人伝の記載は、ヤマタイコクではなく‘ヤマトコク‘と呼ぶことが確実であり、投馬国は出雲か広島か兵庫県の但馬であることもほぼ確実であります。2009年、卑弥呼の箸墓古墳が炭素測定で西暦240~260年の築造と確定した。卑弥呼は、崇神朝に三輪山の大物主神の妻になったが、247年に大物主の正体を見てしまい、驚き後悔したあげく死んでしまう。また、崇神天皇は、初めて日本列島を平定統治した天皇で、神武天皇は奈良県の王だったのである。庄内式土器期のホケノ山古墳や卑弥呼稜である箸墓古墳の北西四基の弥生時代の初期型前方後円墳は、卑弥呼の先祖即ち天皇もしくは皇族のものか、卑弥呼の側近の豪族重臣の古墳でありましょう。大和・柳本古墳群には、全国に35基しかない巨大前方後円墳のうち、4基がここに集中しており、孝霊天皇の皇女である卑弥呼を始まりとした初期大和政権発祥の地である何よりの証拠であります。箸墓古墳は、後円部が立派なのと幾重にも階段状になっているのが特徴で魏志倭人伝の記載と一致することと卑弥呼が他界した年代と一致することから、卑弥呼稜であることは確定的であります。ちなみに、卑弥呼の時代は三国志の時代でした。エンショウは、今川義元に似て、曹操は織田信長に似て、卑弥呼の死の三年後に他界した孫権は晩年の後継者問題など豊臣秀吉に似て、劉備は徳川家康に似て、天才軍師であった諸葛亮孔明は姫路の黒田官ベイに似ております。卑弥呼の男弟である甥の第十代崇神天皇の陵である行燈山古墳は、前方部が小さいのが特徴である。第十二代景行天皇の陵である渋谷向山古墳は、後方部が立派である。おそらく、大和盆地を支配していた6~7ぐらいの天皇側近の豪族が政治的連携をして、古来‘御諸の神奈備‘と呼ばれてきた三輪山の麓を共同墓域と定め、一代一墳的に各自4~5基の墳墓を築造したのであります。最大の渋谷向山古墳は、景行天皇稜でありますが、卑弥呼の箸墓から丁度百年後の4世紀中頃の築造であります。豪族の墓も前方後円墳であることから、天皇は王の中の王であったことが伺えます。桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳は柄鏡式と呼ばれ、前方部が発達せず、濠を巡らしていません。大和への東からの入り口という立地から大王に準じて政権の中枢を担った豪族の墳墓であります。マキムクは、磯城郡にあって、師木・志紀・志貴とも書きます。マキムクは、大神神社が鎮座する大神郷から大市郷にあった。大神神社は、弥生時代に大国主命が自らの‘幸魂‘‘奇魂‘を祀った日本最古の神社にして、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮・出雲大社と並ぶ日本国を代表する神社である。地元では、‘三輪の明神さま‘と親しまれております。
実存が確実視されている第十代崇神天皇のことをハツクニシラススメラミコトといいますが、これは、実存した初めての天皇という意味ではなく、四道将軍や垂仁天皇の弟の豊城入彦命を北関東に派遣して、初めて日本を平定統治した天皇という意味です。真の初代天皇は、当然初めて奈良に入って奈良の王となった神武天皇であり、第九代天皇の皇子である大彦の実存確実からも、第一~九代天皇も確実に実存したのであります。卑弥呼の男弟として記載されている崇神天皇の時代に、大物主神が顕れて「疫病が流行っているのは我が心である。」とおっしゃられました。そこで崇神天皇は、早馬の使いを四方に分け遣わして大田田根子という人物を探し求め、河内の美努の村で見つけ大物主のもとに奉りました。そして、大田田根子は「私は、大物主がイクタマヨリビメとの間に生んだ子孫です。」と答える。そして、大田田根子は神君(ミワノキミ)・鴨君の先祖になりました。大田田根子以来、二千年行われてきた大神神社とその荒御魂の狭井神社の疫病を鎮める‘鎮花祭‘(ハナシズメノマツリ)があります。また、ささゆりは大神神社ゆかりの花であります。また、讃岐の金刀比羅宮も大物主神を祀っていることから、大国主が四国を平定したことが分かります。イクタマヨリビメの親はスエツミミですが、須恵器のスエで、神を祀る土器であることからも、神を祀る一族であることが理解されます。イクタマヨリビメというのは、生き生きとした魂を寄せる女であります。つまり、神を寄せる巫女である。火遠理がいった海神の国は、インドネシアのスラウェシ島かも知れません。崇神天皇十年に、卑弥呼は大物主の妻になりました。しかし、大物主は昼間姿を見せず、夜だけやってきました。そこで、卑弥呼は夫に語りました。「あなたは、昼間に姿をお見せにならないので、はっきりとお顔を見ることが出来ません。どうか夜が明けたのちもしばらく留まっていて下さいませ。あなたさまの麗しいお姿を見させていただきとうございます。」すると大神が答えた。「明日の朝、そなたの櫛箱に入っていよう。どうか私の姿形に驚かないでおくれ。」そして、櫛箱を見ると小さな美しい蛇が入っておりました。卑弥呼は、びっくりして叫び声をあげました。大神は恥じて、忽ち人間の姿になり「あなたは、我慢できずに私に恥をかかせた。私も、そなたに恥をかかせてやろう。」といわれました。そして、大空を踏み分けて三輪山に登っていきました。卑弥呼は、仰ぎ見て後悔し、どすんと座り込んでしまい、床に置いた箸でホトを突いて亡くなりました。奈良時代に形と長さが揃いだした木箸と違い、当時は竹や木の細い棒を食事に使ったと思われます。あるいは、食具ではなく古墳築造を担当した土師氏のことか。卑弥呼は出雲の大国主命と結婚したのです。大国主は、大神神社や四国の金刀比羅宮に祀られているように、大和や四国まで支配下に置いていたのであります。その後、卑弥呼をいただく初期大和政権が出雲を平定したと思われます。播磨国風土記には、‘出雲国と大和国を往来するうちに土師野見宿禰が亡くなられた。すると、出雲人が来て諸人を連ね立て、川の礫を運んで古墳を造りました。その墓を‘出雲の墓屋‘と呼びました。墓は、昼は人(地域の人々)が造り夜は神(大国主が率いる出雲人)が造りました。このことからも、出雲人が古墳造りを得意としていたことが分かります。土師氏は、垂仁朝に人や馬などの埴輪を古墳に立てることを考案した野見宿禰の子孫であります。垂仁紀で、野見宿禰が土師百人を使って、垂仁天皇の皇后・日葉酢媛の陵墓に立てる埴輪を作りました。箸墓と名付けられました。墓は、大阪山(奈良県と大阪府と県境にある芝山)の石(安山岩)を運び、山から墓に至るまで人民が並んで手から手へと渡して運びまいた。卑弥呼の墓には、二重に掘が張り巡らされました。また、マキムクの神殿は、3世紀前半に築造され、卑弥呼が他界する3世紀後半には取り壊されています。大物主の‘恥‘という言葉は、神と人との関係を全て壊してしまう大切な言葉です。卑弥呼が自ら命を絶った248年の出来事です。3世紀前半に築造されたマキムク石塚古墳は、卑弥呼の先祖のものと思われ、儀式で使われたと思われる国内最古の仮面が出土しました。ホケノ山古墳や矢塚古墳は、3世紀中葉です。また、マキムク勝山古墳も3世紀の築造です。これら初期型前方後円墳は、皇族のものと思われ、前方後円墳の形状は卑弥呼が発明したと思われます。また、渡来系の人々の墓と考えられている風呂坊古墳群もあります。大和を征服したクナ国は、3世紀当時のマキムクと並ぶ規模を誇る愛知県一宮市に遺跡がある尾張連合軍の勢力であるであることは確定的です。
その後、ヒミココには誰も従わず、3世紀後半に卑弥呼の意志を次いだ皇女豊鍬入姫命(台与)を立てました。崇神天皇は、政治を担当し四道将軍や豊鍬入彦命などを派遣して日本を平定しました。この時、皇族の卑弥呼を滅ぼした尾張東海の勢力は、武ぬな川別によって平定されたのです。さらに、オモイカネの10世後の子孫を埼玉県の秩父の国造として派遣しました。現在の秩父神社に祀られております。また、出雲でも出雲大神宮に蔵する神宝を献上することがあり、神宝を司っていた出雲臣の祖である出雲振根が筑紫に赴いて不在であったが、弟の飯入根が崇神天皇の命を受けて神宝を献上しました。崇神天皇は、弟を殺した振根を、吉備津彦と武ぬな川別を遣わして平定しました。出雲臣らは、畏れましたが、やがて出雲大神を祀ることを許されました。出現期の前方後円墳である岡山県の浦間茶臼山古墳や福岡県の石塚山の古墳の存在は、この時代既に西日本が、ヤマト政権の支配化に入っていたことを物語っております。垂仁天皇の御代には、富士山本宮浅間大社が祀られました。垂仁天皇の皇女倭姫命は、神託を受けて猿田彦神社を創建しました。
二世紀(弥生後期後葉)は、畿内と北部九州で青銅製祭器の発達が頂点を迎えます。畿内では、銅鐸が巨大化し、最大のものは1,3メーターにもなります。畿内から四国の東部にかけて分布しています。北部九州から四国西部にかけては、広形銅矛が分布しております。また、吉備や山陰(出雲)でも独自の祭祀シンボルを立てて政治的結束を示しています。畿内と同じく巨大銅鐸を掲げている東海は、畿内と同盟関係にあったのではないでしょうか。しかし、大形青銅祭器が二世紀末に忽然と姿を消し、これら全ての地域のシンボルが同時に中止されたのは、奈良で日本の女王として卑弥呼が共立されたことを物語っております。そして、ホケノ山古墳から出土した中国鏡(画文帯神獣鏡)こそが新しき倭国のシンボル(権威の象徴)となったのです。天円地方の観念では、鏡の円形は天を表し、四角は人の住む地上で四神が守っているという考えであります。前方後円墳の形もここから誕生したのです。鏡の製作年代は三世紀前葉が主流である。畿内を中心に関東北部から北部九州にかけて60面以上が出土しているのは、日本が結束したことを意味しております。卑弥呼は、三輪山の大物主神に仕える巫女(ふじょ)であり、鬼道ではなく巫道であり、卑弥呼ではなく正式には日巫女なのです。北は、常陸国(茨城県)までが邪馬台国(大和政権)の支配下におかれました。鏡は、ホケノ山四面・柳本天神山古墳四面・桜井茶臼山古墳四面の出土から、大和盆地東南部が、当時の日本の政治・祭祀の中枢だったことが伺えます。さらに、畿内から東部瀬戸内にかけての分布が濃密なことから、やはりこの地域が日本の中枢部であったことが解りますま。また、卑弥呼が魏に遣いを送る前年、魏が中国東北部の豪族公孫氏を滅ぼしていて、卑弥呼は公孫氏と子弟関係にあり道教を学んでいたが、倭国や奈良に類が及ぶのを避けるため、自ら積極的に魏によしみを通じ、外交関係の樹立を図った。魏は、卑弥呼に印度王と互角の親魏倭王の称号を与えたのである。画文帯神獣鏡は、日本史上初めて畿内に分布の中心を持つことになった中国鏡なのです。中国鏡は、紀元前二世紀後葉の前漢鏡から日本への流入が始まっておりますが、最も流入が多かったのは、北部九州地域でした。三世紀前葉には、中国鏡の入手という点からも東西の力関係は明らかに逆転したのであります。この鏡には、神仙世界の住人たちに瑞獣を加えたモチーフを描いていることから、二世紀代の中国における神仙思想の隆盛と関係しており、三世紀前葉の倭国において、神獣鏡が邪馬台国政権の各地の有力者に多くもたらされていることは、不老長寿の神仙思想が邪馬台国支配地域のイデオロギー的な共通項になったことを示しており、伊都国の女王や邪馬台国の卑弥呼も鏡と卜占と神仙思想で祭祀を行い、神のお告げを男弟崇神天皇に伝え、国をまとめていたのかも知れません。そして、三世紀中葉にはマキムク遺跡で前方後円墳が生まれ、順調に数を増やしてゆき、画文帯神獣鏡をシンボルとしたヤマタイ国政権(初期大和政権)が、前方後円墳という首長墓のスタイルを整えることによって、日本を支配していったことが解ります。また、青龍三年(235年)・景初三年(239年)・正始元年(240年)の魏年号銘を持つ鏡が畿内を中心に分布するが、魏の皇帝から送られた銅鏡百枚を初期ヤマト王権の卑弥呼が各地の豪族に分与したものであります。京都府の椿井大塚山古墳やマキムク遺跡付近の黒塚古墳からは、30面以上の三角縁神獣鏡が発掘されました。さらに、東北地方で唯一卑弥呼の三角縁神獣鏡が発見された会津若松市の会津大塚山古墳は4世紀末のもので、倭建命によってヤマト王権の支配下に入ったことがわかります。また、淡路島で青銅器が大量に発見されており、淡路市では弥生時代の大規模な鉄器製造工房が発掘されたことから、初期ヤマト王権が瀬戸内海を掌握し、ここで武器を作らせていたことが伺えます。卑弥呼の墓である箸墓古墳は、当時の岡山の浦間茶臼山古墳(卑弥呼の兄弟である吉備津彦命の墓か・140メーター)や福岡の石塚山古墳(120メーター)に比べて280メーターと圧倒しており、魏志倭人伝の径百余歩のサイズとぴったり一致しております。後円部の円径は155メーーで、大いに塚を作ること径百余歩と記されており、直径150メーター前後だったことになる。箸墓古墳男の周辺調査から出土した布留0式期の土器が、2009年の国立歴史民族博物館の研究チームのよる炭化物の放射性炭素年代測定によって、紀元240~260年であることが発表され、卑弥呼の没年が紀元248年であることから、箸墓が卑弥呼の墓であることが確実視されている。また、この前方後円墳が4世紀半ばごろまでに東北地方中部まで波及していることから、東日本の広大な地域も初期ヤマト政権に組み込まれいたことが伺えます。前方後円墳は、正に日本各地の首長の墓なのであります。正に4世紀は、景行天皇と倭タケルノ命の東征の時代であります。群馬県天神山古墳から出土した三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から給わったもので、毛野国が東北を牽制するために初期ヤマト政権の東日本における重要な拠点であったことを物語っております。さらに、各地の首長が司祭者的性格を持っていたことも分かります。宋書倭国伝からは、雄略天皇までの五世紀の天皇が日本全土と朝鮮半島を平定するために苦心していたことが書かれています。
卑弥呼=姫命もそくは日巫女は、三輪山の大物主神の妻であり、247か248年に大物主の正体が蛇であることを知り、びっくりして以って死したことが古事記に記されております。以って死すと記されていることから、卑弥呼は自害しており、倭トト日百襲姫であることは、確定的であります。卑弥呼は、愛知県北西部の一之宮市の萩原遺跡群の王ヒミココ=彦命との戦いで劣勢になった責任を取らされて自害させられたものと思われます。それを、大物主に恥をかかせて事故死したと表現しているのです。そして3世紀最大の前方後円墳である箸墓が卑弥呼が亡くなった直後に築造されていることや当時の圧倒的な巨大さから卑弥呼の墓であることは確実です。尾張の一宮市の萩原遺跡群は、マキムク遺跡と並び、3世紀最大級の遺跡群であることから、クナ国であることは確実です。さらに、萩原遺跡群から発見されたS字甕が、東海・関東・甲信越からも出土していることから、クナ国が東日本一帯を支配していたことも確実です。また、卑弥呼が亡くなった3世紀半ば以降からマキムク遺跡でも東海系のS字甕が急増していることから、ヒミココが一時期マキムクも支配下に置いて日本の王となったことは確実です。しかし、この男王には誰も従わず戦争が始まったため、13歳のトヨ=豊鍬入姫命が卑弥呼の後継者となったのです。加茂岩倉遺跡も、わずかにヒミココの国である可能性があります。マキムク遺跡で卑弥呼の神殿が発見された同2009年、魏の曹操の墓が魏の鬼門の東北に位置する河南省安陽で発見されました。石牌に魏武王と銘が打たれており、曹操のことだからです。箸墓古墳も三世紀中葉と判明し、円部の直径が魏志倭人伝に記されている歩数と一致していることから、卑弥呼稜であることは明らかです。さらに、この巨大な墓は、地層からも3世紀のものと分かりました。三輪山の麓には、八十のちまたと呼ばれる歌垣の名所が残っております。
崇神天皇の第一皇子である豊鍬入彦命(宇都宮二荒山神社の神)の子孫である上毛野氏(カミツケノシ)の遺跡は、東日本最大の太田市の天神山古墳(5世紀中葉)や高崎市の八幡塚古墳や綿貫観音山古墳であると思います。古墳時代前期に奈良の卑弥呼と対立していた濃尾平野のヒミココが形状を創造したと思われる前方後方墳が多く、濃尾勢力が3世紀中頃~後半にかけて利根川を遡って赤城山南麓に移住したと思われます。そして、応神朝に活躍した荒田別の5世紀初頭には高崎市に大型前方後円墳が築かれていることから、ヤマトの勢力に吸収されたものと思われます。仁徳朝には、新羅や蝦夷を討った上毛野田道がいました。次の時代、雄略天皇は南の埼玉古墳群を拠点にして蝦夷を平定したようです。さらに、吉備の反乱を平定し、熊本でも埼玉(471年)と同じ雄略天皇の鉄剣が発見されており、ヤマト政権の中央集権化が完成したことが分かります。さらに、朝鮮半島の栄山工流域から雄略朝の前方後墳が多数見つかっており、朝鮮半島の一部も支配していたと思われます。雄略天皇は、478・479・502年の中国書に記されています。応神天皇は、421年と425年に、仁徳天皇は438年に、允恭天皇は443年と451年に、安康天皇は462年に記されています。さらに、履中天皇稜は、土師二サンザイ古墳と思われます。上石津ミサンザイは、仲哀天皇稜と思われます。つくば市の水守には、豊鍬入彦命の曾孫に当る御諸別王の宮殿がありました。
おそらく、方墳とエジプトや南米アンデスのインカ帝国などのピラミッドは、同じ発想から創造され、人類の発想が共通していることが伺えます。インカでは、小さなピラミッドや神殿が建造されてから、都市が出来ました。さらに、三世紀前葉から中葉にかけては、鏡も三角縁神獣鏡へと急速に変化してゆきます。これは、魏王朝が邪馬台国の女王卑弥呼に与えた銅鏡百枚が始まりである。これは、邪馬台国の発展が魏王朝の後ろ盾を得て実現したことを物語っているのです。ヤマタイ国のタイと卑弥呼の親族であるトヨのトが同じ漢字であることから、ヤマタイ国のタイをトと呼ばせてヤマト国即ち大和国で確定である。卑弥呼と交戦した狗な国は、関東の毛野国か東北と思われます。東北だとしても、英雄アテルイの前に卑弥弓呼がいてもおかしくありません。佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国以前のもので、「後漢書」東夷伝に書かれている107年に倭面土国王帥升等が生160人を安帝に献じたとあるが、このスイショウこそが神武天皇かそれ以降の天皇または吉野ヶ里遺跡の王の記述だと思います。吉野ヶ里では、1世紀~3世紀に祭祀が整い、大型建造物が建てられました。縄文時代の祖霊信仰が、紀元前500年からは稲の豊穣を祈る穀霊信仰に変わりました。稲荷信仰の原点です。そして、社会の階層分化と首長制の発展に伴い、社会の支配的精神秩序となった新たな祖霊信仰が始まったのです。
島根県斐川町の荒神谷遺跡からは、358本もの銅剣と39基の銅鐸と銅矛など青銅器が大量に発掘されており、スサノオノ命や大国主が実存していた当時の遺跡であることが濃厚です。八岐大蛇退治の舞台は、良質な砂鉄の採れる斐伊川上流で、スサノオが討ち取ったのはたたら製鉄の技術を持つ八人の率いる渡来人の集団であったと思われます。三種の神器天ムラクモノ剣は、この集団の宝だったと思われます。三輪の大物主(大国主の幸魂・奇魂)活玉依姫との神婚では、男の着物の裾に付けた糸を辿っていったら、大物主と分かったそうです。出雲の大国主は、大和にも住んでいた時期がある可能性が高く、卑弥呼と結婚していたかもしれないのです。摂津国の三島のミゾクヒの娘で巫女であったセヤダタラヒメは、しっかりした麗しい乙女でございまして、三輪の大物主が見惚れてしまい、聖なる白羽の矢を立てて、わざわざ大和国から出向いて契りを交わし、イスケヨリヒメが生まれました。神武天皇は、日向で土地の女性と結婚していたが、大和に入り、大和の王になったら王に相応しい皇后が必要で、イスケヨリヒメを見つけました。そして、三男のカムヌナカハミミが次のスイゼイ天皇になりました。垂仁天皇と景行天皇の宮がマキムクであることから、巻向が初期ヤマト王権であることは確実です。崇神天皇のしき瑞がきの宮も桜井市です。
景行天皇朝は、4世紀前半ですが、日本を平定する時代でした。纏向で日本を統治していた景行天皇は、熊襲が朝貢しなかったため周防に出向き、神夏磯媛から状況を聞き、筑前・豊後・豊前の土豪討滅し、天皇家の故郷である日向の高屋宮で熊襲梟帥を襲わせました。それから、阿蘇の二つの豪族も平定して7年に及ぶ遠征を終えられました。しかし、また熊襲が背いたので子の16歳の小碓命を派遣しました。小碓命は少女に変身して川上梟帥を討ちました。死に際、小碓命に倭建命の名を授けました。さらに、出雲に出向いて出雲建を水遊びに誘い出して討ちました。そして、陸奥に到るまで東国の土豪たちを帰順させました。この後4世紀末、会津に前方後円墳が誕生しました。1世紀に大国主が王だった出雲国が4世紀に入ると出雲タケルが景行天皇の皇子である倭建命に滅ぼされ、完全に大和政権の支配化に入りました。景行天皇41年に府中市に大国魂神社が祀られると、出雲族が武蔵国造に任じられるようになりました。
倭建命は、蝦夷(縄文人か)平定に向かう途中、茨城県の霞ヶ浦周辺に立ち寄っています。
倭建命は、翌年の秋、4世紀前半の景行天皇40年の冬に奈良を出発され、木更津でオトタチバナヒメを偲んで立ち去らなかったため‘君去らず‘と呼ばれた。そして、弟橘媛の遺品である櫛を納めた御陵を築いたのが、茂原市の橘樹神社の由縁である。さらに、海神を鎮めるために海に飛び込んだ弟橘媛の遺品が東京都墨田区立花に漂着し、弔って塚を築いたのが吾嬬神社の発祥である。
翌年の秋には茨城県行方群の相鹿の仮宮に着いて冬を過ごされた。このとき、神示によって鹿島神宮に船が献上されました。飯塚の湯(飯坂温泉)は、1700年前に倭建命が東征の折に立ち寄った我が国最古の温泉である。さらに、北上して多賀城市の竹水門まで平定しました。西日本最古の温泉は、 愛媛県松山市の道後温泉であります。
スサノオノ命・稲田姫命・オオナムチノ命を祀っている埼玉県の氷川神社は、第五代孝昭天皇の創建で、倭建命が酒折宮を出立し、北杜市で山高神代桜を植えた後、秩父を目指す途中、夢枕に現れた老人・孝昭天皇の教えに従って参詣したところ、立って歩けるようになった場所です。第十三代成務天皇の御世には、出雲族の兄多毛比命が武蔵国造として派遣され、東国鎮護の社として崇拝しました。代々出雲の宮司家が武蔵国造になっています。箱根神社も2世紀の孝昭天皇の御代に、聖占上人が箱根山の駒ケ岳から神山を御神体として祀ったことがはじまりです。倭建命が酒折宮を出立したあと、秩父の両神山を八日間眺め続けたという八日見伝説があります。秩父には、宝登山神社や三峰神社があり、倭タケルが祀りました。
倭タケルは、蝦夷平定の帰り、常陸国に入り、北茨城で鯨が泳いでいたためクジと地名を付け、久慈郡大子町下野宮の近津神社を創建した。近津神社は、後年景行天皇行幸の折、霊鏡一面・霊剣一振・金鈴一口を神宝として給わっている。さらに、水戸では、ヨシと田圃ばかりだったので、ヨシダとなずけ、元吉田町に吉田神社が建てられ、倭建命が祀られました。さらに、筑波山の男体山に登って関東平野を見渡したあと、元つくば市の作谷に立ち寄り、ここで矢を作ったので、ツクリヤと地名を付けました。さらに、作谷に鹿島神社を建立しました。今でも、倭タケルの石碑が立っております。また、旧大形小学校の立つ山には、倭タケルが沸かせた泉があります。

つくばねの峰よりおつるみなの川こひぞつもりて淵となりぬる  陽成院

倭建命は、宮城の竹水門に向かう途中、土蜘蛛一族を平定する前後に福島の飯坂の湯で体を休めました。飯坂温泉は、実に1650年以上の歴史を誇ってります。帰路、連歌発祥の地である酒折宮(現在神社)を出立した後、さらに北上して武蔵国の氷川神社に立ち寄り、秩父に出ました。秩父神社は、3~4世紀の崇神天皇の御世に知知夫彦命が知知夫国の国造として派遣され、祖神の八意思兼命を祀ったのがはじまりです。武甲山が御神体になっています。毎年12月に行われる夜祭は、日本三大曳山祭に数えられます。また、倭建命も三峰山上にイザナギとイザナミを祀りました。役小角も三峰山で修行しました。さらに、倭建命は宝登山に登り、神武天皇を祀りました。倭建命が宝登山に登る地中、山火事に遭い、大犬が現れて火を消したことから、火止山と呼ばれるようになりました。椋神社も倭建命が創建しました。秩父からさらに北上して群馬に入り、現代の吾妻郡一帯(吾妻地域)を廻り、碓氷峠に抜けました。ここで、弟橘姫を思い出して‘吾妻よ‘と叫んだのです。ここから、関東を吾妻国と呼ぶようになったのです。さらに、帰路アサケ川で口を漱ぎました。のぼので命を落とした倭建命が姿を変えた大鳥が最後に舞い降りたのが大鳥大社の地であります。三重県亀山市ののぼの墓が、倭建命が埋葬された場所である。また、静岡市の草薙神社は、倭建命の足跡を辿った景行天皇が草薙剣を納めたことが由来である。景行天皇は、上総や霞ヶ浦周辺も行幸され、子が平定した地を確認されました。倭建命は、徳川家康と同じく日本を平定しましたが、家康よりもさらにスケールが大きく偉大で、弟橘媛と同様に人生のほとんどを犠牲にしたのであります。この後、3世紀中葉の成務天皇朝に武内宿禰などが活躍して平定作業を受け、国郡に造長・県に稲置を任じて行政機構を整えました。そして、仲哀天皇の御代にも熊襲が背きましたが、神の神託を無視したため天皇は他界してしまいました。
山梨県韮崎市にある‘わに塚‘は、倭タケルの王子である武田王のものであります。武田信玄公の御先祖もここから来ているのではないでしょうか。倭タケルの時代、古代ローマ帝国のポンペイ遺跡では、紀元前4世紀に活躍したアレクサンドロス大王が描かれました。古代ローマ帝国の最初の皇帝アウグストゥスの頃、神武天皇が活躍していました。4世紀の日本では、福島県会津若松市が大和政権の支配下で、東北の要衝となっておりました。そして、征夷大将軍坂上田村麻呂が802年にアテルイ率いる東北を平定しました。この折、八幡平頂上付近に辿りつき、瑠璃色の湖沼や高山植物の美しさに感銘し、この地で八幡大菩薩に必勝を祈願しました。その後、八幡大菩薩に戦勝報告して、この地を八幡平となずけたのです。807年、京都の東寺で小児の成長安全を祈願し、空海が子育出世正観世音菩薩を彫り、茨城県つくば市の泉子育観音慶龍寺に安置されました。
景行天皇は、4世紀前半天皇五十三年倭建命の跡をしのんで、伊勢神宮にお立ち寄りになられてから、東国に行幸に出立しました。そして、天ムラクモノ剣を奉納し、草薙神社を創建した。景行天皇は、後に剣を移して、熱田神宮を創建しました。太古暦の冬十月、浦賀水道を渡って上総国安房の浮島の宮に入りました。鋸南町の東方の浮島であります。ここには、天皇御駐在の遺跡があります。さらに、霞ヶ浦の辺を旅し、茨城県稲敷市の浮島の帳宮に行幸され、大嘗祭が執り行われ、大甕を移し、東国初の天皇宣言をしたのである。ここには、景行天皇行在所遺しが建てられました。そして、浮島の仮宮で大祭典が執り
古代記 2010/4/13 
57年の金印の頃に、倭国に漢字が伝わりました。卑弥呼は、日本最大の内行花文鏡が5枚も出土した女王が治める伊都国の祭祀を採用しました。卑弥呼が魏から賜った鏡は、画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡、さらに内行花文鏡も含まれていたのでは。群馬県の高崎から正始元年(240年)の鏡が出土していることから、群馬県や鹿島神宮を擁する常陸国まで初期ヤマト王権の支配下に入っていたことは確実である。丹後は、古墳時代以前の墳丘墓や古代遺跡が多く、大陸文化の流入口だったのである。ヤマタイ国(奈良県)への陸行は、ここから歩いたのかも知れません。神功皇后の4世紀後半には、日本海側最大の網野銚子山古墳が築造され、5世紀にはこれに次ぐ神明山古墳が築造されています。丹後一之宮にして元伊勢の籠神社があることからも、古代日本における重要な地であったことは確かです。天照を岩屋から出すために、策を練った思金は、マルチアーチストの元祖で、秩父神社に祀られております。葛城氏の祖は武内宿禰であり、武内宿禰の先祖が天照大御神と並ぶ天皇家の最高神である高皇産霊尊である可能性が高く、紀元前1世紀頃高千穂から奈良に移り住んだと思われます。
筑波山の信仰は、日本の自然崇拝の原点であり、神話よりも早い3千余年前の縄文時代に始まる3千年の歴史を誇る日本最古の神社であります。筑波山は、その美しい姿から古来‘西の富士 東の筑波‘と称されてきました。朝夕には、山肌が美しく染まることから‘紫峰‘と呼ばれています。さらに、茨城を代表する貝塚である美浦村の陸平貝塚は、規模が日本最大級で、日本人が初めて発掘調査した遺跡でもある。そのため、日本考古学の原点と呼ばれています。富山市で縄文前期(5500~6750年前)の厳しい環境で寿命が短い10代後半~20代の53人の人骨が発見され、バイカル湖や北海道周辺に多い北方系と東南アジアから中国南部に多い南方系の両方が混在していました。縄文人は、海を渡って行き来していたのであります。土浦市の上高津貝塚も3000~4000年前に作られた霞ヶ浦沿岸最大規模の貝塚です。土浦市の武者塚古墳で発見されたみずらは、古墳時代の髪型を日本で初めて実物の髪の毛で確認できたものです。土浦市の清滝寺は、イザナギノミコトが、この山に鉾を立てたときに滝が湧き出たことに由来しています。イザナギとイザナミの生誕地が筑波山周辺だからこそ、日本を代表するカガイの名所が筑波山なのかも知れません。日本人の祖先は縄文人であり、日本文化の基礎は縄文文化であります。縄文時代の東日本には、豊かな海と森と食料があり、遺跡の数も圧倒的に多く、東高西低の時代でした。ところが、紀元前600年の縄文晩期に唐津市の菜畑遺跡に争いの元となった稲作が伝わり、キリスト誕生の頃には津軽平野にまで達しました。
大乗仏教は、天御中主神や国常立命や奈良の高御産霊尊が日本各地の王だった紀元前1世紀に誕生しました。大乗仏教がアジアに伝わった1世紀頃の倭国は、もともとイザナギ・イザナミの子である大綿津見が志賀島の志賀海神社がある場所に住み、ナ国の王として57年に金印を授けられ(志賀島で発見)、その娘が火遠理と結婚して神武天皇の父をお生みになられました。イザナミは、カグ槌を生んだ後、スサノオが支配していた熊野の花の窟にて黄泉の国に他界されました。ここが、日本最古の神社であります。秦の始皇帝の御世、方術師の徐福が熊野のはだすの地区に着き、大陸の先進技術や農業を伝えました。熊野本宮大社は、崇神天皇の御世に創建されました。熊野那智大社は、景行天皇の御世と思われる317年に、現在地にオオナムチとイザナミを祀り、建立されました。聖武天皇は、神宮を日が昇るところ、出雲の日御崎神社を日の沈む場所と定めました。火遠理は、宮城県の塩釜神社の海の神である塩椎神の言うとおり志賀島に行くと、手厚くもてなされました。さらに、兄弟の大山津見は愛媛県の三島に住み、絶世の美女の木花咲耶姫が宮崎を訪れたときに天孫ニニギと結婚しました。1~2世紀の日本の王だった‘出雲の大国主命か奈良に行った事代主命か神武天皇かスイゼイ天皇=107年に中国に朝貢した日本人初の名前を持つスイショウ‘が日本を治めていたが、147~189年の倭国大乱の前の70~80年間はに倭国の男王が治めていたというのは西日本の王だった大国主命から奈良県の孝安天皇ぐらいまでであり、147~189年の孝霊天皇や孝元天皇が奈良県の王だった頃に古代の戦国時代である倭国大乱が起こり、189年頃に孝霊天皇皇女である卑弥呼を共立して戦争が治まったのである。スイゼイ天皇45歳・安寧天皇49歳・イトク天皇45歳・孝元天皇57歳・開化天皇63歳の崩御です。大国主の国譲りは倭国大乱初期の戦いかも知れません。倭国大乱の証拠は、因幡と伯耆が争った青谷の遺跡であります。卑弥呼は、西日本最古にして奈良最大の聖地である三輪山の大物主を信仰しました。卑弥呼の祭祀は、神道に道教も取り入れています。その証拠に、卑弥呼が創造した前方後円墳の形状が、仙人が住むユートピアの再現である中国の壺の形をしています。天=円・地=方であります。
崇神天皇6年(240年頃)疫病の流行を鎮めんとした天皇は、天照大御神を台与に、日本大国魂大神をヌ名城入姫命に祀らせました。しかし、間もなくヌ名城入姫命は髪が落ち、体は痩せ細り、祭祀を続けられなくなりました。このとき、卑弥呼が天皇に‘大田田根子を神主にして大物主大神を、市磯長尾市(いちしのながおち)を神主にして日本大国魂大神を祀れば天下が鎮まる‘と神託を受けました。この近くの西殿塚古墳か東殿塚古墳が、市磯長尾市の墳墓と思われます。ヌ名城入姫命の墳墓は、ホケノ山古墳か黒塚古墳と思われます。大田田根子の墳墓は、黒塚古墳と思われます。
日本には、前方後円墳が4800基ありますが、世界でも圧倒的な面積を誇るのが仁徳天皇稜であります。また、3世紀中頃からヒミココが支配していた尾張で古墳の築造が始まりました。3世紀後半~末の東之宮古墳からは、昭和48年発掘当時三角縁神獣鏡が出土し、崇神天皇の皇女にして、史上初の斎王・台与(豊鍬入姫命)を共立した後、尾張のヒミココの勢力が崇神天皇のヤマト王権の支配下に入ったことを物語っています。ヒミココの墓は、日本最大の前方後方墳である奈良の西山古墳であります。豊鍬入姫の時代の280年西晋が中華王朝を統一しました。崇神天皇稜は、行燈山古墳である。台与(豊鍬入媛命)の墳墓は、正始元年の鏡を含む13種類81枚の卑弥呼の鏡を継承した人物であることから、桜井茶臼山古墳で確定である。また、メスリ山や33面の鏡が出土した黒塚古墳・椿井大塚山古墳も可能性はあります。福岡県のナ国(岡本スグ遺跡)で、紀元前2世紀の鏡の鋳型が発見されたことから、国内で鏡製造が始まったことが確定しました。ここから、高千穂に伝わって、天岩戸でヤタノ鏡が作られました。
1700年前の300年前後に垂仁天皇の皇女である倭姫命に天照大御神の神託が降り、御杖代となって大和から伊勢に巡幸なされ、美し国が神都になりました。メスリ山は、御間城入媛稜か遠津年魚眼眼妙媛の墳墓の可能性があります。マキムク勝山古墳は、孝霊天皇稜と思われます。ホケノ山古墳は、孝霊天皇か孝元天皇かヌ名城入姫命のものと思われます。卑弥呼の男弟は、甥の開化天皇か崇神天皇です。椿井大塚山古墳は、台与と同じ世代の祭祀を司っていた京都の王のものか王の娘の巫女のものである。伊勢神宮は、垂仁天皇の御世の創建ですが、垂仁天皇稜は、年代と規模からメスリ山古墳か五社神古墳と思われる。宇和奈辺古墳は、葛城襲津彦の娘にして仁徳天皇皇后陛下である磐之媛命か八田皇女のものである。
崇神天皇の磯城瑞がきの宮は、志貴御県坐神社付近に石碑が建っている。布都御魂大神は、神武天皇の時代から橿原宮に祀られていましたが、崇神天皇の御世に剣を祀る社として石上神宮が建てられました。崇神天皇は、皇女のぬなきいり姫命に命じて、天皇の枕元に鎮座していた、大和国の地主神である大倭大国魂大明神を大和神社に祀らせました。大和神社が大和国の国名の由来になりました。年代からメスリ山古墳は、崇神天皇皇后御間城姫命の可能性もある。熊野本宮大社は、3世紀~4世紀初頭の崇神天皇の御世に創建されました。三輪山の隣の龍王山古墳群には、愛妻家だった歌聖・柿本人麻呂の妻の墓がある。

衾道を 引手の山に妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし
 
東の野に かぎろひの立つ見えて かえりみすれば 月かたぶきぬ

淡海の海 夕波千鳥汝が鳴けば 情もしのに 古思ほゆ

神武天皇が大和国の王になる前、出雲の大国主命が大和国を平定して、唐古・鍵遺跡で西日本の王=スイショウとして政治を支配しておりました。三上氏の筑波命と同世代の開化天皇稜は、奈良駅と興福寺の間にあります。開化天皇は、倭国大乱末期の189年頃の奈良の王と思われます。卑弥呼(倭トト日百襲姫)の後継者である豊鍬入姫命(台与)の墓は、黒塚古墳と思われます。台与の姉妹ヌナキ入媛の墳墓は、3世紀後半に築かれたホケノ山古墳と思われます。23枚の鏡が出土した大和天神山古墳は、市磯長尾市のものと思われます。継体天皇皇后・手白香皇女の陵墓は、西山塚古墳です。
313年の垂仁天皇の御世の頃、高句麗が国家形成の歩みを加速させ、伽耶南部の金官国が倭に鉄を供給する重要な地だったため、高句麗・新羅と対立したのだ。装飾騎馬文化は高句麗がルーツだ。316年、晋が滅亡。
卑弥呼の221年劉備が蜀を建国しました。234年諸葛孔明五丈原にて病死。卑弥呼の男弟王である崇神天皇が、四道将軍の前後に建借間命や黒坂命を茨城県に派遣して、東北勢力と戦った。卑弥呼の3世紀に桜井市金屋の磯城瑞がき宮に遷都した崇神天皇が初めて日本国家成立を成し遂げた天皇であり、神武天皇から九代天皇までは奈良県の王だったのである。卑弥呼が信仰した大神神社を創建したのも崇神天皇である。大神神社の祭主は、三輪氏の祖大田田根子である。卑弥呼は三輪山の大物主神に使え、崇神天皇に神託を伝えました。崇神天皇も、三輪氏の祖である大田田根子に祀らせました。奈良県の龍田大社も崇神天皇が凶作・疫病を鎮めるために創建しました。
178年~183年年頃、日本は過去7600年で最大の寒冷期になり、飢饉が勃発しまし、戦国時代でした。卑弥呼は、伊勢神宮の斎王と同じく卜定によって選ばれました。卑弥呼には、千人もの巫女が仕え、宮殿や砦の構えは厳重で武器を持った兵士がいました。景初3年、卑弥呼は魏に使いを送りました。卑弥呼の副使は都市牛利で、つば市を監督する役職でした。周辺の古地名が大市で、関東から九州に至る型式の土器が発掘されていることから、ヤマタイ国の経済が市の交易で支えられていたことが分かる。要職の都市に牛利がついて外交副使となった。卑弥呼が、魏から給わった鏡は画文帯神獣鏡であり、中国でも以降の鏡は、画文帯神獣鏡の模倣鏡であることから、日本も同様に模倣して三角縁神獣鏡を500枚以上作り、日本全国の豪族たちに祭祀のために配ったのである。牛利の墳墓は、メスリ山古墳や黒塚古墳かもしれません。240年頃、寒冷期になりました。240年、帯方郡太守の使いに鏡を献上しました。243年、卑弥呼もしくは崇神天皇が再び魏に使いを送りました。245年、魏の小帝から証書と黄ドウを帯方郡を通して授与されました。大和国の卑弥呼は、245年と247年に使者を帯方郡に派遣ニギハヤヒ(物部氏の先祖)を祖とし、尾張氏を末裔とする尾張のクナ国の男王卑弥弓呼との交戦を宣言しました245年・247年魏に使いを送りました。。魏は、帯方郡太守・張政を派遣、難升米に証書と黄ドウを与え、檄を作って応援しました。しかし、247年3月24日の太陽が欠けながら沈んだ皆既日食か249年9日5日の太陽が昇りながら欠けがなくなっていく皆既日食に箸の事故で他界したことが確定しています。卑弥呼の箸墓は、240~260年の間に築造されたことが確定しています。後円部157メーターと、当時の魏の一歩が4尺7寸7分なので、魏志倭人伝の記述とほぼ一致することから、大市墓こそ卑弥呼の墓で100パーセント確定です。近年、卑弥呼の箸墓に宮殿が建っていたことが分かりました。特殊器台も見つかり、吉備との深い関係が伺えます。笠縫邑、桜井市小夫です。ヒミココが王となるが、国民が服さず、248か249年に皇族の卑弥呼の後継者である豊鍬入姫命が女王となりました。266年、豊鍬入姫命は西晋に使いを送りました。
孝霊天皇稜は、時期から纏向石塚古墳です。卑弥呼は、巫術に道教を取り入れていたことは無数の桃の種の発見から分かりますし、卑弥呼が創造した前方後円墳の形状は、天円地方からきております。天円地方とは、天文学の知識に優れていた古代中国の道教から生まれた思想で、空は円く地は方形であるという伝統的宇宙観を表しています。至上の存在である天と万物の母なる大地の二つのエナジーを取り入れ調和させることで最強のエナジーを生み出す前方後円墳を完成させたのです。高松塚古墳やキトラ古墳にも天円地方や風水の壁画があります。卑弥呼の纏向遺跡には、日本中から人が集まって来る政治・経済の中心的施設があり、古代日本の首都であったことが確定しております。出雲の神原神社古墳や尾張の東之宮古墳など4世紀の古墳から三角縁神獣鏡が出土していることから、卑弥呼や伊都国の女王が始めた祭祀が、奈良を中心として全国の首長達の間で代々鏡と共に引き継がれていったことが分かります。この鏡は、会津の大塚山古墳でも岡山の丸山古墳と同じ三角縁神獣鏡が出土しております。卑弥呼が中国から賜った銅鏡百枚は、内行花文鏡と画文帯神獣鏡かもしれません。高松平野を見下ろす岩清尾山古墳では、3~7世紀の古墳が200基あり、吉備の双方中円墳があります。4世紀は、前方後円墳が倭建命などによって全国に広まりましたが、地域が一定の自立性を保っていたことも分かります。尾張の大海氏の祖は、天火明命でであり、子孫がヒミココである。尾張氏は、卑弥呼の時代のヒミココの頃から強大な勢力を持つ海の民であり、東海に逃れた大海人皇子を迎え入れたのが尾張宿禰大隅であり、壬申の乱勝利の立役者である。大海人皇子は、大海宿禰アラ蒲に養育された。宣化天皇元年、天皇は飢饉に備えて筑紫に穀物を集めて備蓄しようとして、物部・阿部・蘇我に準備させました。このとき、蘇我氏は尾張氏を派遣しました。
斎王は、卑弥呼・豊鍬入媛命・倭姫命から南北朝時代まで続きました。三重県明和町の斎王宮跡だった場所に斎宮歴史博物館があります。会津の田村山古墳は、古墳時代前期に築かれた帆立貝に似た前方後円墳で、中国から卑弥呼に渡された内行花文鏡や直刀が出土しており、古墳時代前期には会津がヤマト王権の支配下に入っていたことが分かります。奈良県河合町の広瀬神社は、崇神天皇9年の創建である。垂仁天皇の兄の豊鍬入彦命が、上毛野国を支配することになった際、山と沼の霊を奉斎したのが赤城神社の始まりであり、戦場ヶ原の蛇と百足の領地を争った闘いは、豊鍬入彦命と赤城の豪族との戦いのことだと思われ、傷を負った赤城の豪族が老神温泉で傷を癒して元気を取り戻して豊鍬入彦命を追い返したことから追い神と呼ばれました。1700年の歴史を誇ります。垂仁天皇は、田道間守にときじくのかぐのこのみを探し出させました。和歌山県の橘本神社で菓子祭が行われています。垂仁天皇稜は、3世紀初頭の御代から行燈山古墳かと思われます。垂仁天皇皇后日葉酢媛命稜は、年代と規模からメスリ山古墳の可能性が最も高い。佐紀石塚山古墳は、位置と年代から成務天皇稜の可能性が高い。佐紀陵山古墳は、成務天皇皇后稜です。
イザナギは、出雲の黄泉の国から戻ると、宮崎県の江田神社のみそぎ池で禊をして、天照大御神・月読命・スサノオノ命を生みました。神生みの事業を全て終えたイザナギは、高千穂を出て、淡路島に幽宮を建てて暮らし、滋賀県の多賀大社に埋葬されました。宮崎県西都市には、コノハナサクヤヒメを祀る都萬神社があり、ニニギと出会ったことを裏つ‘けている。また、神武天皇の祖父が行ったワタツミの国は、和多津美神社対馬か志賀島で確定です。津島市の和多都美神社には、海彦・山彦と竜宮の伝説が残り、火遠理命と結婚して神武天皇の父を生んだ豊玉姫の墳墓である岩クラが残っています。志賀海神社は、2世紀に綿津見三神を祀り、創建されました。
356年、辰韓の六カ国が連合して新羅が建国されました。神功皇后は、百済の朝貢品を百済が強奪していると知り、新羅を問責しました。そして、364年新羅に接する卓淳国の要請を受け出兵しました。364年、武内宿禰が神託を求めると、西方の国に行く方法を事細かに指示され、神功皇后に住吉大社の神が神がかりして、建内宿禰が神懸かりの言葉をお聞きになられて神託を受け、和邇氏の武辰熊・吉備津彦の孫の大乙世命と石邊古命・中臣氏の雷大臣・大伴氏の武持連・三輪氏の大友主命・忌部氏と共に対馬を出発、風の神・海の神の力を借りて新羅に到着、新羅と戦い、七カ国を平定し、驚いた新羅王は直ちに降伏し、それを知った高句麗王・百済王も屈服し、戦うことなく三韓を服属させ、それ以上の戦果を百済に与えました。371年、百済の肖古王が高句麗に攻め入り、故国原王を滅ぼしました。勝利した百済は、漢山へ遷都し、372年に東晋に朝貢し、鎮東大将軍に任命されました。神功皇后は、364年の遠征後に産気つ`き、腹を鎮める鎮懐石を腰に巻きつけた。8世紀に、山上憶良が詠んだ歌に、筑紫国に鎮懐石があり、多くの人が参拝している様子が描かれています。神功皇后は、福岡県の宇美八幡宮の地で応神天皇をお生みになられました。この後、押熊王が難波で神功皇后の兵船を奇襲しました。これを読んでいた神功皇后は、兵船の軍勢を別の船に乗せ替え、敵の隙をついて上陸して反撃しました。淡海の海で押熊王は自害しました。
古代から、瀬田唐橋は、天下分け目の場所だったのです。
淡海の海 夕波千鳥汝が啼けば 心もしのに いにしへ思ほゆ  柿本人麻呂  
この後、武内宿禰は敦賀の仮宮を造ってホムタワケノミコトを迎えました。366年百済は、加羅諸国を通じて倭国と正式に国交を開始しました。百済王は、倭国の親交に感謝して、372年に369年製造確実の七枝刀・七子鏡を同盟の証として献上しました。これは、任那日本府を建てて高句麗・新羅と対立しながら、近きゅう首王から神功皇后に献上されたものである。宋史にも神功皇后の記述があります。369年、高句麗が百済を攻撃しましたが破れ、勝利した百済は漢山に遷都しました。385年ギリシャ周辺の国々から選手が参加してオリンピックが開催されました。391年、神功皇后か応神天皇の御世に武内宿禰の子である葛城襲津彦が新羅と戦い、倭軍が新羅を平定しました。倭国は、加羅から鉄を入手していたが、高句麗が加羅を攻撃したため、鉄を守るため、391年の神功皇后摂政期か応神天皇期に葛城襲津彦を将軍として遠征した。これに対し、高句麗の好太王は、396年に百済に攻め入り、倭国軍を退けた。394年、ゼウスに捧げられてきたオリンピックがキリスト教によって廃止になりましたが、1896年に再開しました。
福岡市東区に神功皇后が三韓征伐に出かけた際の、舟の帆柱の化石が残っています。押熊王を退けて神功皇后を助けた和邇氏の武辰熊は、石塚山もしくは小奈辺古墳が最も可能性が高い。神功皇后稜は、五社神古墳である。上石津ミサンザイ古墳は、日本3位の規模と年代から、香椎宮の後に正式に築造された仲哀天皇陵以外ありえません。仲ッ山古墳は、応神天皇皇后仲津媛陵である。葛城氏と蘇我氏の先祖である武内宿禰は、当時としては驚異的な長寿で、5人の天皇に仕えたことから、90歳~100歳以上生きたと思われます。武内宿禰の墓は、規模と年代から茨木市の太田茶臼山古墳です。沖ノ島では、4世紀後半に航海の安全を祈願する国家的な祭祀が始まり、三角縁神獣鏡が使われており、4世紀後半の神功皇后や応神天皇の新羅遠征を祈願していたことは間違いありません。また、神武天皇ゆかりの宇佐に応神天皇を祀る宇佐神宮が建てられました。5世紀に、敦煌で妙法蓮華経が漢字で書写されました。五社神古墳は、年代から成務天皇稜である。新羅王が朝貢を怠ったため、応神天皇の402年に新羅の王を人質として倭国に連れてきていて、418年に逃げ帰っています。応神天皇は、400年(新羅から撤退)と404年に高句麗の帯方郡に将軍葛城襲津彦らを送ったが、逆に加羅国が攻撃され、加羅王が百済に逃げました。仁徳天皇も、葛城襲津彦を送りました。414年、高句麗は広開土王碑を建てました。応神天皇37年(404年以降)に奈良県飛鳥村の阿知使主と都加使主を呉国=南宋に派遣した。これは、高句麗に敗れたため南宋との関係を築こうとしたのである。応神天皇は、364年に生まれて405~413頃に崩御されたと思われます。応神天皇稜は、420年までの築造で、体積は日本一を誇り、後円部直径も仁徳天皇を越える250メートルで日本一です。武内宿禰の墳墓は、太田茶臼山古墳と思われます。葛城襲津彦の墓は、室宮山古墳です。ヒシアゲ古墳もしくは宇和奈辺古墳は、仁徳天皇皇后磐之媛稜と思われます。5世紀に、中国に達磨が禅を伝え、日本には儒教が伝わり、仁徳天皇が儒教の教えを実践されたのです。欽明天皇の御代に宇佐に応神天皇が示現したのが宇佐神宮の始まりである。応神天皇の前の時代に、新羅の王子だった天之日矛が、八つの航海安全の宝を但馬に祀ったのが出石神社の始まりである。ヤマタイ国の経路も但馬を辿っています。子孫は、田道間守である。仁徳天皇の御世は、現実的には5世紀上旬である。4世紀末~5世紀上旬の応神・仁徳朝に大規模な土木工事の技術が朝鮮半島から伝わったのである。神功皇后稜は、当時としては最大規模の前方後円墳が集中する佐紀盾列古墳群西郡の市庭古墳と思われます。武内宿禰は、久留米市の高良大社に祀られており、水沼氏は景行天皇と襲武媛の間に生まれた国乳知別命を始祖とし、364年の神功皇后の新羅遠征の際弓頭として従いました。津堂城山古墳が、後に築造された倭建命・白鳥陵と思われます。上石津ミサンザイは、その規模と年代から仲哀天皇陵以外にありえません。茨木市の450年頃に造られた太田茶臼山古墳は、武内宿禰の墳墓です。応神天皇の御世に百済から来日した阿智使主の氏寺だった場所に建てられたのが、奈良県飛鳥村の於美阿志神社である。仁徳天皇の皇后磐之媛は、皇后陛下稜が多い佐紀盾列古墳群のヒシァゲ古墳(218メートル)に埋葬されています。神功皇后の後を継いだ応神天皇は、河内国古市郡誉田付近を拠点とする首長品陀真若命の娘仲津姫命に婿入りしました。応神天皇は、初め奈良県橿原市大軽町の軽嶋明宮で政治をしましたが、大阪市東淀川区大桐付近にあった大隅宮に移りました。さらに、日本にいた直支王を百済の王にしたり百済の暴政を糺しました。また、皇太子が高句麗の国書を難詰して破棄しました。この時代、蝦夷や韓人に道や池を作らせ国家的土木工事の進展が図られました。さらに、呉から縫工として呉織・穴織が連れてこられました。応神天皇は八幡神となり、皇室の第二の宗廟として特に大切にされました。
364年の新羅平定の後、神功皇后は赤子の応神天皇を日高に残し、武内宿禰や武振熊らと近江の瀬田唐橋まで追い詰め、香坂・忍熊王の乱を平定しました。仁徳天皇の御代になっても新羅が朝貢してこなかったため、群馬県の上毛野氏の祖・田道を派遣して持久戦の後破りました。413年、仁徳天皇は東晋に朝貢しています。
倭の五王の朝貢は、413年に仁徳天皇(日本4位の360メーターの上石津ミサンザイ古墳)・421年に履中天皇(世界最大の486メーターの大仙陵古墳)が宋に朝貢し安東将軍の称号を与えられ、425年に再び朝貢して「安東大将軍」という軍号を宋に要求、430年1月に宋に使者を送り貢物を献上・438年履中天皇の弟の反正天皇(土師二サンザイ古墳)が即位して宋に朝貢、4月安東将軍になる・443年允恭天皇(前の山古墳か市野山古墳))宋の文帝に朝貢して安東将軍になり、451年允恭天皇宋から加受され、7月に安東大将軍となり、460年宋の孝武帝に使者を送って貢物を献上・462年3月、安康天皇宋に朝貢して孝武帝から安東将軍を認められる・477年に雄略天皇が即位、自ら安東大将軍倭国王と称し、478年雄略天皇(岡ミサンザイ古墳)が自ら「開府儀同三司」と称して宋に上表文を送りました。順帝は、雄略天皇を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」としました。478年のことは、雄略天皇8年と12年に身狭村主青と檜民使博徳を呉=南宋に派遣のどちらかである。479年雄略天皇は、鎮東大将軍に進号しました。(高句麗に敗れたあとも雄略天皇は、南宋との関係を強固なものにしていたのである。)群馬県の5世紀築造の保戸田八幡塚古墳は、雄略天皇時代の上毛国の王の墓である。502年に梁の武帝が王朝樹立に伴い、武列天皇を征東大将軍としました。古墳時代中期に馬具の副葬品が増えたことは、高句麗に敗れたことにより、騎馬の戦いを取り入れたためである。さらに、雄略天皇の御世である475年に高句麗が百済を滅ぼしますが、477年に雄略天皇の援助で再興しています。471年の埼玉や熊本の鉄剣に‘治天下‘記されるており、時期天皇のワカタケルが不動の権力を握ったことが分かります。葛城氏は、スイゼイ天皇からの天皇家と結びつきが強かった葛城氏は、最初に高天原に現れた天之御中主・神産巣日神と共に造化三神とされる高御産巣日神であり、天照大御神と共に高天原の最高神であります。熊本県の江田船山古墳は、雄略天皇が訪れた5世紀後半のものだ。伊勢の豊受大御神は、雄略天皇の御世に、天照大御神の御神託により丹波の国から招かれました。475年には、高句麗が百済を攻め、首都漢城(ソウル市)が陥落した。百済は熊津に遷都した。雄略天皇の479年に、栄山江流域に前方後円墳が伝えられたが、筑紫国兵士五百人が人質だった百済東城王の帰国の際護衛したときである。奈良県の脇本遺跡は、雄略天皇の初瀬朝倉宮の可能性が高く、大阪市の法円坂遺跡も雄略天皇関係である。岡ミサンザイ古墳は、雄略天皇陵の可能性が非常に高い。橿原市の見瀬丸山古墳は、欽明天皇陵。都塚古墳は、蘇我稲目の墳墓である。群馬県の東日本最大の210メートルの太田天神山古墳は、5世紀中葉から後葉の雄略天皇の御世であることから、下毛野と上毛野が雄略天皇により統一されたときの毛野国を任された首長のものであることが分かる。埴輪が素晴らしい群馬県の保土田八幡山古墳も、雄略天皇の御世の上毛野国の首長の墳墓である。また、上毛野国一之宮の貫前神社が長谷川零余子の故郷富岡市にあり、富岡まで上毛野国だったと思われる。さらに、経津主大神が豊鍬入彦命よりも早く上毛野地域を平定した可能性がある。建御雷大神と経津主大神は、塩土命が住んでいた宮城の塩釜付近まで平定したと思われる。4世紀前半に倭建命が平定した竹水門(タケミナト)は多賀城市である。群馬県の天神山古墳からも三角縁神獣鏡が出土しており、5世紀に雄略天皇によって完全にヤマト王権の支配下に入ったことが分かります。大阪府高槻市の今城塚古墳が、森田愛子の故郷福井県三国出身の継体天皇陵でありますが、継体天皇は応神天皇の5世である。継体天皇は、福井市の足羽神社に自らの生霊を鎮め、越前開闢の祖神となられ、ました。和歌山県橋本市の隅田八幡神社の人物画像鏡には、男弟王という銘がある。この鏡の銘文は、502年に朝鮮半島の百済王に即位した武寧王が命じて記したもので、癸未年=503年とあり、継体天皇がオシサカにいたときに百済の武寧王が継体天皇に長く奉仕することを願ってつくらせたと記されている。523年、百済の武寧王が他界した。継体天皇の即位は507年である。継体天皇の出身は、福井県福井市の足羽山で、大阪府の枚方市で即位しました。森田愛子と同じく三国の出身である。511年、継体天皇、山背の筒城へ遷都。514年、新羅の法興王即位。518年、継体天皇が山背の弟国に遷都。526年、継体天皇が奈良の磐余玉穂宮に遷都。527年に、近江毛野が6万の軍勢で任那の中心部である南加羅を復興しようとした。このとき、磐井が妨害した。528年には、物部アラ鹿火が久留米市で磐井と交戦し、磐井は逃亡し、ヤマト王権の軍勢が石人・石馬を磐井の象徴として破壊した。磐井の墓は、岩戸山古墳群である。筑紫は、石人・石馬を埴輪に変え、装飾古墳を開花させた。百舌と古市古墳群の間にある河内大塚山古墳は、安閑天皇稜であります。28,4メーターの日本最大の横穴しき石室を持つ見瀬丸山古墳は、欽明天皇稜である。蘇我稲目の墓は、東西41メーター・南北42メーターで高句麗でよく見られるピラミッド型の方墳である都塚古墳である。
奈良の大和神社は、崇神天皇が祀りました。卑弥呼稜は、3世紀中葉としては破格の規模を誇る272メーター・卑弥呼と共に国内統治の基盤を作った崇神天皇稜は240メーター・倭建命と共に日本平定に生涯を捧げた景行天皇稜は310メーターです。
528年、磐井の乱平定。欽明天皇は、531年に磯城嶋金刺宮で即位しました。物部アラ鹿火と大大伴金村を大連にし、蘇我稲目を大臣に任命しました。欽明天皇は、任那の復興に尽力しましたが、大伴金村失脚、任那日本府は退去を命じられました。仏教と経典が、百済の聖明王より欽明天皇の御世の538年に初瀬川から伝来しました。同時に、五経・易・暦の博士・採薬師なども提供されました。欽明天皇は、蘇我稲目に仏像を預け、仏教を敬うよう指示した。蘇我氏の先祖である建内宿禰は百済からの渡来人であります。蘇我石川宿禰・満智・韓子・高麗(こま)と継続しました。538年、百済の聖明王は、熊津からサビに都を移して高句麗からの攻撃に備えましたが、結局新羅に捕らえられ戦死しました。朝廷は、蘇我稲目を軸に屯倉経営に着手し、財務体質の強化が図られました。石上神宮の物部尾輿や鹿島神宮の中臣鎌子は廃仏を主張し、確執が生じました。548年に高句麗の陽原王が百済に南下。551年、新羅が百済に援軍を送り、新羅の真興王が高句麗を討つ。552年には、新羅が漢城をとって、勢力を広げ、これを機の伽耶(任那)も新羅に移りました。継体天皇の崩御後、欽明天皇朝と安閑・宣化朝が並立しました。蘇我稲目は、娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇の妃としました。二人の娘が生んだ皇子・皇女から三人が大王として即位しました。570年、アラ鹿火は疫病流行の責任は仏教にあると思い込んで、仏像を難波の堀江に捨ててしまいました。576年、額田部皇女が皇后となる。584年、蘇我馬子が仏教を再興、難波の堀江から仏像を引き上げ、司馬達等の娘らを出家させました。585年には、各地に堂塔を建立し、大規模な法会を執り行いました。585年、再び疫病が流行すると、物部守屋と中臣勝海が馬子が建立した仏塔を焼いて、仏像は壊れなかったため、難波の掘江に投げました。それを、善光が引き上げました。571年に崩御された欽明天皇と堅塩媛の陵墓は、二基の家型石室が横たわっている日本最大の横穴石室を誇り、331メーター(全長402メーター)の檜隅坂合陵(見瀬丸山古墳)であります。稲目の墓は、奈良のピラミッド・都塚古墳であります。日本を仏教国にした聖徳太子とイスラム教の開祖預言者ムハンマドは、同じ時代を生きています。また、イラン出土の紀元前10世紀~紀元前6世紀に造られた女性土偶は、縄文のビーナスそっくりで、既に縄文時代には日本からイランまで交流があったことが分かります。縄文こそ日本文化の基層であり、三内丸山遺跡の木柱列や諏訪大社の御柱など、神社に繋がってゆく神体木への信仰が縄文時代からありました。筑波山信仰は、3000年前の縄文時代から始まっており、日本山岳信仰の始まりであります。筑波山の麓には、日本一社の蚕影神社があり、天竺(インド)から流れ着いた金色姫が老夫婦に助けられたお礼に養蚕を伝えました。会津にも、蚕養国神社があり、811年の空海・坂上田村麻呂の時代の鎮座した養蚕成就の総本社であります。筑波山の里宮だった六所神社は、六柱の神を祀り、801年に坂上田村麻呂も奉納しており、裏の明神宮山にはイワクラがあります。今は、蚕影神社に合祀されています。
仏教の始まりは、欽明天皇の命を受けて、552年に蘇我稲目が向原家(むくはらのいえ)に仏像を祀ったのが始まりです。574年、仏教の蘇我氏から聖徳太子が誕生しました。576年に敏達天皇が即位し、蘇我氏系の額田部皇女(推古天皇)が皇后となった。586年、用明天皇が額田部皇女と蘇我善徳を召され、自らの病気平癒のために斑鳩寺と薬師如来像の造立を発願されました。587年、用明天皇崩御。欽明天皇・用明天皇・崇峻天皇が蘇我氏から后を迎えており、蘇我氏がいかに絶大な権力を持っていたか伺える。593年、推古天皇即位。天皇の称号を初めて名乗りました。
587年7月、長男で15・6歳の蘇我善徳や諸豪族を率いた蘇我馬子が物部氏を滅ぼしました。善徳は、善が仏教・徳が儒教で、名の通り仏教と儒教の奥義を極め、さらに未来を予知しました。蘇我善徳は、木で四天王の像を作って、‘敵に勝たせてくださるのなら四天王のため寺を建立しましょう‘と願をかけました。さらに、蘇我馬子も願をかけました。蘇我善徳が、物部守屋討伐の祈願を信貴山でしたところ、寅年・寅の日・寅の刻に毘沙門天が現れ、その加護で勝利することが出来、信ずべき山・貴むべき山と感激して信貴山となずけました。蘇我氏は、翡翠を大切に扱いました。蘇我善徳は、蘇我刀自古郎女と近親結婚しました。そして、山背大兄王を生みました。本当のシェイクスピアがネウ`ィルであるように、本当の聖徳太子は蘇我馬子の長男である蘇我善徳である。厩戸王は聖徳太子とは別人として実在しました。589年、隋が中国を統一しました。592年12月、推古天皇が豊浦寺の地にあった豊浦宮で大王に即位しました。向原寺の豊浦宮跡は、全面石敷になっており、推古天皇・蘇我馬子・蘇我善徳が歩きました。593年、蘇我善徳は四天王寺を建立し、敬田院・悲田院・施薬院・療病院の四カ院を設け、お釈迦さまのような溢れる慈悲の心で困窮者の救済にあたられました。603年、推古天皇は飛鳥寺の北北西に位置する小ハリ田宮に移りました。翌年、蘇我善徳を摂政に迎えました。588年に蘇我馬子が法興寺建立を発願し、593年に法興寺の塔心礎に仏舎利が納められ、596年に創建されました。蘇我善徳は、推古天皇や父の馬子と共に改革に着手しました。593年、推古天皇の摂政に任命された蘇我善徳によって四天王寺が建立されました。三重県津市の四天王寺も蘇我善徳の開基です。594年、三宝興隆の詔が発布されました。596年、蘇我馬子が法興寺を建立しました。595年、善徳は淡路島に流れ着いた天竺の栴檀香木を使って観音像を作りました。597年、百済の阿佐皇子が来日して、善徳を菩薩として礼拝しました。600年、蘇我善徳が倭王として第一回遣隋使を派遣しました。摂政が大王の代理であり、蘇我氏の権力が天皇と同等であったことが分かります。さらに、600年、新羅に出兵して、日本に貢物を朝貢させました。善徳は、‘一に十人の訴を聞きたまひて、失ちたまはずして能く弁へたまふ。605年、善徳は上宮から斑鳩宮に移りました。斑鳩は、難波と奈良盆地を結ぶ交通の要衝でした。飛鳥と斑鳩は、太子道で結ばれていました。605年、推古天皇が聖徳太子や蘇我馬子及び各皇子と誓いを立てて発願し、609年に造られたのが、飛鳥大仏である。飛鳥大仏は、蘇我稲目をモデルにしたと思われます。607年、蘇我善徳は斑鳩寺を建立し、若草伽藍が完成。エンタシスの柱は、当時シルクロードを通ってギリシャ人が来ていた証です。飛鳥の猿石は、鼻の幅が広いポリネシア人や東南アジアの人が来ていた証拠です。東北の山奥にモアイがあることからも、77トンの石を動かす技術があった日本人がイースター島に渡って石舞台を縦にしたようなモアイを作ったのです。小野小町終焉の地である土浦市小野の清滝寺は、607年にアジア初の女性君主である推古天皇の勅願により聖徳太子が彫った聖観音像を龍ヶ峰に安置したのが始まりで、開基は行基であります。穴穂部間人皇后は、中宮寺を建立しました。穴穂部間人皇后の6世紀後半、東京の柴又八幡山古墳が築造されていますが、寅さんそっくりの帽子かぶった6世紀後半の埴輪が2001年に出土しました。また、奈良時代(723年)に柴又で穴穂部刀良と穴穂部佐久良女がおそらく蘇我氏から派遣されて柴又周辺を治めていたことが正倉院の書物に記載されており、霊的なものを感じます。つくば市の北斗寺も奈良時代の創建であります。聖徳太子の子である山背大兄王は、法起寺と法輪時を建立しました。推古天皇が御ハリ田宮は、飛鳥寺(法興寺)の北北西にあり、蘇我善徳が十七条の憲法と官位十二階を制定した場所です蘇我善徳は、593年に四天王寺を、自らの出生の地である明日香村の橘寺も建立しました。蘇我氏は、冠位十二階の上に位置しておりました。595年、高句麗僧の慧慈が来日し、蘇我善徳が師事しました。さらに、百済の僧・慧聡も来日しました。596年、蘇我馬子の法興寺が完成しました。600年、第一回遣隋使を派遣しました。601年、蘇我善徳斑鳩宮を造営しました。603年、小ハリ田宮に遷り大仏が完成。603年、蘇我善徳により冠位十二階が制定されました。604年、蘇我善徳により憲法十七条が制定されました。605年、蘇我善徳が斑鳩宮に移住しました。606年、法興寺に仏像が安置されました。607年、法隆寺が創建され、7月3日に小野妹子・通訳鞍作福利が第二回遣隋使として派遣されました。蘇我善徳は、日本を隋に服属しない対等な独立国であることを明確にするために‘日出つ`る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや‘としたためました。小野妹子は、ハイ世清と帰国しました。次の小野妹子の遣隋使では、‘東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす‘と国書をしたためました。609年、飛鳥ました。小山田遺跡の馬子の石舞台を上回る一辺が50メーター以上の方墳は、蘇我蝦夷の大陵である。587年、馬子と縁せき関係にあった厩戸王と蘇我馬子が未巳の変で物部守屋を滅ぼしました。587年創建の茨城県の雨引観音では、推古天皇の病気平癒祈願が執り行われ、慈悲深い光明皇后様が御自身で書写された法華経と御自身の肌身にお付けになられた緋色の常衣を御奉納され、ひたすら安産をお祈りあそばされ、勅願時と定め、歴代の皇后・中宮様に安産のお守りとお腹帯を御奉呈しました。奈良の帯解寺に似ています。さらに、空海によって真言宗の道場になりました。607年、日出る処の天子、書を日没する処の天子に到すの書を小野妹子に持たせて隋に派遣しました。580年に誕生したムハンマドが神の啓示を受けて、610年頃イスラム教が誕生しました。。615年、聖徳太子41才の折、三経義疏を完成しました。622年2月21日妻が他界すると、22日48歳で善徳死去。善徳の死後、国民は釈迦が亡くなった時のように嘆き悲しみました。日本書紀でこれほどの哀悼に記述は蘇我善徳だけである。大阪の叡福寺北古墳が太子稜(善徳墓)である。聖徳太子の名は、善徳死後贈られた諡号である。奈良時代に、聖徳太子が聖人として崇敬されていたというのは、紛れもない事実である。後に、親鸞が‘和国の教主‘とまで強く思慕し、夢に聖徳太子が現れました。代表的日本人は、弟橘媛・仁徳天皇・聖徳太子・和気清麻呂・菅原道真・日蓮・松尾芭蕉であります。推古天皇の甥の厩戸皇子も、聖徳太子とは別の人物として実存していたのも確実です。藤原氏が、蘇我氏の業績を隠蔽するために、蘇我善徳の功績を厩戸皇子にすり替えたのである。626年、馬子が他界して石舞台古墳に葬られました。628年、推古天皇崩御。奈良そのもの、飛鳥そのものが神々の住まう山々に護られてきたのである。同628年、浅草寺が建立されました。那須温泉は、蘇我聖徳太子の直後、630年頃の舒明天皇の御世に創建されました。善光寺は、欽明天皇13年に印度から朝鮮半島経由で阿弥陀如来が渡って来たことが起源です。後に物部氏によって難波の堀江に捨てられた蘇我氏が祀っていた阿弥陀仏は、聖徳太子の呼びかけにも出て来ず、信濃の本田善光が通りかかった時、輝きながら顕れ、「あなたは過去、印度と百済で私に仕えていた。この日本でも多くの衆生を救うために私に従うように」とおっしゃられた。そして、642年に善光寺が建立された。廃仏派の中臣鎌足と中大兄皇子による乙巳の変が起きた645年に、孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となりました。そして、藤原鎌足~不比等~慈悲深い光明子へと繋がってゆきました。日本書紀編纂に関わった藤原不比等は、天皇家を完成させるため、、蘇我王家の功績を厩戸王の功績に差し替えたのである。百済大寺は、舒明天皇の創建であります。大阪府河南町の弘川寺は、役小角の開基ですが、西行もここで晩年を過ごしました。また、三重県松阪市の飯福田寺も役小角の開基であります。道明は、天武天皇の病気平癒を願って長谷寺を建立。道明の弟子が地元の楠の木で長谷観音を作りました。楠の大木の半分が鎌倉に流れ着いて、鎌倉でも長谷観音を作りました。元伊勢・笠縫邑は初瀬にあります。8世紀末葉~802年に徳一菩薩が筑波山中禅寺を開山しました。796年、桓武天皇が最澄の弟子最仙に命じて茨城県土浦市に勅願寺の東城寺を建立しました。
菅原道真公の第3子・景行公(かげゆきこう)が道真の安否を尋ね大宰府を訪れたところ、「我死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たると知り、即ち墓を築くべし」と仰せになり、903年二月二十五日他界されました。そして、景行公が遺骸を奉じ、家臣数人と共に日本諸国を巡り、926年に真壁町羽鳥に塚を築き、源護・平良兼らと共に遺骨を納めましたが、929年飯沼湖畔に浮かぶ島を道真公が永遠にお鎮まりになる奥都城と定めて社殿を建て、遺骨を移しおまつりされたのが大生郷天満宮の始まりです。道真公を祀る神社は1万余社ありますが、関東~東北にかけては最古の天満宮であり、日本三天神にして御廟天神であります。書道の七蹟は、嵯峨天皇・空海・橘逸なり・菅原道真・小野道風・藤原佐理(すけまさ)・藤原行成であります。805年、空海が密教を伝授されました。807年、空海が伊豆の修禅寺を開きました。さらに、川に独鈷を投げ入れて開湯しました。また、東海村の村松山虚空蔵堂も、807年に空海によって開山されました。さらに、大子町の日輪寺は、役小角によって創建されましたが、807年に空海が自ら刻んだ本尊を安置して再興しました。空海が彫った関東三大不動の不動院願成寺も、808年に空海が開基しました。809年、空海が高雄山寺に入りました。茨城県常総市の一言主神社は、809年に現在の社殿の西に雷光を放つ筍が生え、数夜にして三またの竹に成長したので、葛城山から事代主神を迎え祀ったのである。空海は、815年に尊敬の念を持っていた磐梯山時代の徳一菩薩や広智に経典の書写を依頼しています。806~810年に、徳一菩薩が磐梯山に恵日寺を開山、仏都会津の礎を築きました。徳一は、粗末な食事をし、破れた着物を着てでも玄奘三蔵の法相宗の教えを広めようとしました。816年、空海が四国八十八カ所霊場巡りをしました。819年、高野山が開山されました。823年、空海が嵯峨天皇より東寺を賜りました。東国三社のひとつである神栖市の息栖神社は、応神天皇の御世に創建されましたが、807年に藤原内麻呂によって当地に遷座しました。下妻市には、701年創建の関東最古の八幡宮である大宝八幡宮があります。828年、空海が日本初の大学であるしゅ芸種智院を創立しました。
上毛野国の東日本最大の太田天神山古墳の築造は、雄略天皇の頃で、さきたま古墳群より北の上毛野国に雄略天皇自ら行ったのでしょう。また、富岡に上毛野国一之宮貫前神社があることは、倭建命が通った碓氷峠を抜ける道の重要さを物語っている。また、会津の大塚山古墳も4世紀末の築造で、雄略天皇の指導で造られたものと思われます。東日本を共に初めて平定した武甕槌の盟友・同盟王経津主が群馬を平定した最初の人物かもしれません。雄略天皇の御世から百済の栄山江流域で前方後円墳が造られ始めました。武寧王は、日本の人質に来ていて479年の雄略天皇の御世百済に戻った東城王の子である。卑弥呼の後継者トヨの墓は、黒塚古墳か椿大塚山古墳か五社神古墳の三つが最も高い可能性を示しています。ヌナキ入媛命は、西殿塚古墳と思われます。行燈山古墳は、4世紀前半の築造で、斎王卑弥呼に仕えていた男弟王崇神天皇が西暦300年前後に他界されたことが分かります。また、新潟県胎内市の城の山古墳も同時期であることから、3世紀には、新潟まで卑弥呼と崇神天皇の初期ヤマト政権の支配下に入ったことが分かります。武内宿禰を大臣にして、国造や県主を設けた成務天皇稜は、4世紀中葉という年代的にも佐紀盾列という点でも佐紀陵山古墳と思われます。仲哀天皇稜は仲ッ山古墳と思われます。武内宿禰の墓は、その活躍からも年代からも茨木市の太田茶臼山古墳か大稜古墳と思われます。清寧天皇稜は、白髪山古墳と思われます。福井県の高向神社は、継体天皇の実家である。俳人森田愛子は、福井県三国出身。見瀬丸山古墳は、蘇我氏を大臣に起用した宣化天皇稜の可能性が高い。牛子塚古墳は、斉明天皇稜です。593年、厩戸皇子が日本人が建立した初めての寺院である四天王寺を建立しました。594年には、三宝興隆の詔が出され、仏教国家の礎が築かれたのです。596年、蘇我馬子が法興寺を建立しました。茨城県の雨引観音楽法寺は、587年の創建で、慈悲深い光明皇后が子の祈願のためにお経を奉納しました。571年に崩御された欽明天皇の墓は、見瀬丸山古墳です。蘇我馬子の墓である明日香村の石舞台古墳は寝釈迦に見え、縦にするとモアイで、飛鳥の石造文化が舟でイースターに渡り、モアイ文化を創造したと思われます。その証拠に東北の山奥(山形)にモアイ像そのものがあります。和邇氏は、第5代孝昭天皇の子孫で、小野氏や柿本氏の先祖です。また、鹿島神宮や大生神社を主祭していた潮来の多氏の先祖は神武天皇の子で日本最古の皇別氏族である。田原本町に多氏先祖の神社があり、唐古・鍵遺跡は神武天皇の子=多氏の遺跡と見て間違いありません。武内宿禰~平群氏~紀氏の系譜もあります。有力氏族の原点はみんな奈良です。茨城県石岡市には、舟塚山古墳があり、186メートル(周講を含めると266メートル)と東日本第2位の規模を誇る茨城国造の始祖筑紫刀禰の墓である。仁徳天皇稜にそっくりで5世紀中葉も同時代である。小美玉市には、5世紀中葉の舟塚古墳がある。茨城県の前方後円墳の7割が霞ヶ浦周辺であることから、鹿島神宮を含めてヤマト政権の重要地であることが分かる。常陸国最大の古墳群は、大生神社を中心に大小130基を有する潮来市の大生古墳群である。倭建命や景行天皇も巡幸し、北浦をはさんで鹿島神宮が存在する重要地である。茨城の由来は、山の佐伯・野の佐伯という豪族を茨棘(いばら)で黒坂命が征伐して、茨を以って城を作ったから来ている。また、赤城神社の由来は、豊鍬入彦命が上毛野を支配したときに山と沼の霊を奉祭したのが始まりです。負けた赤城の豪族は老神温泉で体を癒しました。その子孫が赤城神社を奉祭した上毛野氏である。その後、東国に派遣されたのは、崇神天皇の曾孫の御諸別命で、つくば市水守に基地を構えて蝦夷の乱を鎮め、善政で東国を治めました。御諸別王の子の荒田別と鹿我別、上毛野竹葉瀬が新羅征討に、上毛野稚子が百済救援に送られました。上毛野氏の本拠地は二宮赤城神社であります。赤城という名称は、中国天台山の赤城峰に由来します。
崇神天皇十年七月二十四日(3世紀中葉~後葉)に、孝霊天皇の皇子である吉備津彦命を西道(山陽道)へ、孝元天皇の第一皇子である大彦命(埼玉古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣に雄略天皇と共に記銘)は、武埴安彦の反乱を平定して北陸道へ、武ぬな川別を東海道へ、開化天皇の孫の丹波道主命(京都府の神谷神社に祀られている)を丹波(山陰道)へと四道将軍として派遣しました。さらに、常陸国に建借間命や比奈良珠命を蝦夷平定のため派遣。崇神天皇の皇子である豊鍬入彦命が関東に派遣された後、筑波命を紀の国の国造として派遣されました。筑波山も筑波の地名も筑波命からきているのだ。さらに、中臣神聞勝命を鹿島神宮に奉幣させました。崇神天皇は、出雲臣の祖・出雲振根を吉備津彦と武ヌナ川別を派遣して誅滅している。高鴨神社や鴨都波神社は、崇神天皇の御世の創建である。
倭建命の西征で、美作の勝間田の池で櫛を落しました。霧島市隼人町には、倭建命に滅ぼされた熊襲の穴があります。さらに、肥前長崎で土蜘蛛を討ったり、舟の綱を藤に繋いだり、栄の国と名付けたりしています。垂仁天皇は、4世紀初頭頃の天皇であり、伊勢神宮と高千穂神社を創建しました。
出雲の神原神社古墳は、倭建命が討伐した出雲建の墓と思われ、卑弥呼の鏡も埋葬されました。その後に、倭建命が鹿島を訪れた際、炊事の水を得ようと鹿の角で土を掘ったところ角が折れたので角折の浜と名がついた。行方郡では、倭建が炊事舎を作り、大生の名称が生まれた。さらに、信太郡を訪れると海苔が干してあったので能理波麻と名ずけました。陸奥の土蜘蛛を討伐した際、八目の鳴鏑の矢で敵を倒した。戻って、新治郡を訪れ、井戸を掘らせると清らかな水が湧いたため、そこで手を洗った。その際、袖が濡れたので袖をひたすが常陸の語源になったのである。崇神天皇が使わした比奈良珠命が新たに井戸を掘ったところ、水が清らかに流れ出たため新治郡の語源になった。常陸国土は広大で土壌は肥え山海の珍味も豊富で人々は満足していると記されている。大和朝廷から見て、理想郷だったのである。倭建命は水のある場所が分かり、修善寺温泉を発見した空海のような超能力も持ち合わせていたのである。倭建命は、海を渡って上総に入り、房総半島・上総・下総・常陸と北上して陸奥国に入ました。4世紀前半の景行天皇の御世に陸奥国に8人の土蜘蛛がいました。名は、黒鷲・神衣媛・草野灰・保保吉灰・阿邪爾那媛・たく猪・神石萱・狭し名で、それぞれに部下がいて、8つの岩室で暮していました。八岐大蛇と同様です。8つの岩室は、要害の地だったため、土蜘蛛たちは、天皇の命令に従いませんでした。陸奥国造の磐城彦が討伐の兵を挙げましたが追い返され、百姓たちから食料を略奪していました。そこで、景行天皇は、熊襲征伐から戻ったばかりの倭建命に陸奥の土蜘蛛を討伐する勅命を与えました。倭建命が陸奥に到着すると、土蜘蛛たちは力を合わせて防ぎ、津軽の蝦夷・許多を大勢味方に引き入れ、狩猟用の大きな弓を連ねて矢の雨を降らせました。兵士たちが岩室を攻めあぐねているのを見た倭建命は、槻で作った弓と矢を取り出し、7度矢を放つと、雷のごとく音を轟かせ、驚き恐れた蝦夷たちは逃げ出しました。倭建命がさらに八度矢を放つと八人に命中し、矢が落ちた場所から芽が生えて槻の木になったので、この地を八槻と呼ぶようになったのです。また、神衣媛と神石萱の子孫は許されて、今は綾部の名で同地に住んでいます。倭建命は竹水門まで平定し、日高見国に寄って筑波山に登り、山梨から秩父を経由して群馬に入り、上毛野国の碓日坂で媛を偲んで‘吾妻はや‘と三度嘆いています。それで、坂以東の坂東を東国と呼んだのです。
倭建命は、行きも帰りも茨城県といわき市を通りました。多珂で倭建命が舟に乗って島を眺めていたら、海藻があったので藻島と名ずけた。久慈郡助川の駅家は、姫と出会あった場所とされる。帰り、多珂
2016/8/15
今日は、脅威の400メーターの世界新記録が出ました。マイケルジョンソンの永久不滅と思われた43秒18を17年ぶりにバンニーキルクが奇跡の43秒03を打ち立て更新しました。グレナダの英雄キラニージェームス選手も脱帽です。ボルトの100mの9秒58と200mの19秒19とバン二ーキルクの43秒03は人類の永遠の記録となりました。フローレンス・ジョイナーの女子100mの10秒48も100年は破れないでしょう。女子ハンマー投げのポーランドのコバルチク選手も82メーター越えの世界新記録を打ち立てました。アヤナも10000メーター世界新記録を出しました。錦織選手も96年ぶりに銅メダルを取りました。卓球の水谷選手も日本初の銅メダルに輝きました。今日は奈良の春日大社の万灯篭と大文字焼と燈花会です。
2010/4/3
今日は、牛久シャトーに行って参りました。日本で初めてのワイン製造所です。たくさんの樽にワインが入っていて、中には50年前のものまでありました。ワインには、ポリフェノールが含まれておりまして、アルコールの中では最も体にいいそうです。牛久シャトーの建物は、西洋風で暖かな春空に明るく光り輝いておりました。桜もいくらか咲き始めて、春本番が予想されました。園内は、西洋風庭園でいろいろな花が咲き誇り、これからは散歩するのに最高だと思います。皆様もぜひ、牛久シャトーで春の贅沢なひと時をお過ごしください。
ちなみに、茨城県には日本を代表する桜の名所があります。古来より「西の吉野・東の桜川」と並び称され、「磯部の百式桜」として世に知られ、まt紀貫之が和歌を詠み、世阿弥の謡曲‘桜川‘の舞台で、日本三名園の梅の偕楽園と並んで国の名勝にも指定されている桜川市の磯部桜川公園であります。1000本の桜が咲き、30種類以上の桜が観賞できます。また、ここにしかない‘桜川匂‘もあります。近くの磯部稲村神社には、天照大御神や木花佐久耶姫など150以上の神様が祀られております。ここは、鹿島神宮の吉方位にあり、鹿島神宮と対になる「要石」や「御手洗池」もあり、常陸国を守る重要な地だったのです。1467年の応仁の乱までは、茨城の半分近くが騰波の淡海と呼ばれる海でありました。その証拠に、下妻市には騰波ノ江という住所があります。また、面白いことに鯨という住所もあります。鹿島が半島の先端部にあり、浮島が島であり、守谷の貝塚近くも海で、牛久沼も海の名残で、霞ヶ浦は当然海であり、桜中学校の下が海で、下妻市全体と旧協和町の久地良手前までが海で、明野町の海老ヶ島は海老が取れた島と思われます。さらに、桜川市は、磯部の坂下までが海であったと思われ、筑波山や加波山の麓には波が打ち寄せていたと思われます。下妻市には、大分の宇佐神宮・福岡のハコザキ宮・京都の石清水八幡宮と並び証される日本四大八幡宮にして関東最古の大宝八幡宮がございます。昭和のころには、三千年前から信仰が始まった日本山岳信仰の原点である筑波山と並ぶ茨城きっての観光地でした。
聖武天皇の皇后にあらせられた光明皇后も奈良より参拝され、茨城県を代表する子育てのお宮参りの名所となっております雨引観音があり、「関東の吉野」と呼ばれているほどの山桜の名所であります。701年(大宝元年)に誕生された光明皇后は、慈悲深く貧しい人」や身寄りのない人のために住む所を建て、自らも手厚く看護な光明皇后は興福寺を建立し、母の病気平癒のために阿修羅像を寄進されました。奈良時代は、皇后陛下そのものが‘国‘でした。光明皇后は、藤原不比等の娘であられました。つくば市には、他にも「泉の子育て観音」「泉の観音様」として知られ、子供の健やかな成長安全を願う「虫封じ祈願」や子宝を願う人に信仰が厚く、関東一円から年間数万人が訪れる慶龍寺(1618年創建)があります。本尊の子育出世正観世音菩薩は、807年(大同2年)京都東寺で小児の成長安全を祈願し、空海自らが刻んだ秘仏で、子宝を授かりたいという願いや病気回復にご利益があるといわれています。毎年2/11の年越大祭はこれまでの信心の御利益のすべてが受けられる日として、1万人以上の参拝客が詰め掛け、年男がまいた豆を食べると、厄除け・開運に御利益があるといわれております。枝垂れ桜も見事です。また、桜川市には江戸時代から明治・大正・昭和にかけ、地域の文化・産業の中心地として栄えた真壁があります。現在も300余棟を数える見世蔵・土蔵・門など、400年前のままの町割りと共に息つ‘いています。そのうち、104棟が国の登録有形文化財に認定されております。
2010/4/8

茨城県は、日本一桜の満開と入学式がぴったりと一致する県である。今日は、竜ヶ峰に桜を見にいきました。中央青年の家までの上り坂に七百本の桜が植えられており、桜のトンネルでした。山なので、うぐいすが鳴いており、桜と見事な調和を見せておりました。毎年楽しみにしている場所のひとつで、奈良の吉野に似ていて、僕の中では隠れた茨城一番の桜の名所です。奈良時代の頃は花見といえば梅で、梅が日本の国花だったのですが、平安時代ごろから桜になり、桜狂いの西行が新古今和歌集で桜を詠みはじめたのです。茨城県には桜の名所が非常に多く、この時期は最高ですよね!

2010/4/19

今日は、日立かみね公園に桜を見に行ってきました。今年は桜が遅く、今頃満開なのにはびっくりしました。関東では、桜が散ったあと観測史上もっとも遅い雪も降りました。かみね公園には、千本の桜が植えられており、茨城県最大の桜の名所となっております。茨城県は、水戸の梅に日立の桜と花に恵まれた素晴らしい県ですよね。また、かみね公園には遊園地や動物園もそなわっており、子供連れにはもってこいの場所となっております。高台の上からは、日立の町並みと太平洋が一望でき、桜と相まって素晴らしい景色でした。動物園では、動物が手の届きそうなくらい間近で眺められ、子供たちが大騒ぎしていました。虎やライオンも元気がよく、地響きのような唸り声をあげていました。ものすごい数のフラミンゴもきれいなピンク色の羽を羽ばたかせていました。ここには、筑波山と同じ神様を祭る神峰神社があり、山頂に祠が祀られていたこともあることから、古代では神の山として信仰されていたことが伺えます。皆様も、散歩がてらに訪れてみてはいかがでしょうか。また、日立市には御岩神社があり、今から1300年前に書かれた常陸風土記にも多くの人々から厚い信仰を集めていたことが記されています。江戸時代には境内に21の神社があり、徳川御三家水戸藩の祈願所として栄えました。日立市では、玉簾寺{ぎょくれんじ}と玉簾{たまだれ}の滝も有名です。玉簾寺は、水戸藩二代藩主である徳川光圀公の命によって創建された臨済宗の寺院で、「北の玉簾、南の雨引」と言われ安産の祈願所としても有名で近郷はもちろん遠方からも多くの妊産婦が安産祈願に訪れています。玉簾寺の境内裏にある玉簾の滝を見た水戸光圀公は、観音像を感じたと言われています。滝周辺には、春の新緑、秋の紅葉など四季折々に見せる風情が、玉簾寺との調和で一層その美しさを引き立たせています。

2010/5/1

今日は、ル テアトル銀座で三島由紀夫原作の日本近代能楽の葵上と卒塔婆小町を見て参りました。卒塔婆小町は、平安時代の女流歌人で世界三大美女の一人にして六歌仙の一人である小野小町が黄泉の国から甦って、若い詩人と恋に落ちる物語です。小野小町は、本史上最高の美女で、日本史上最高の美男子である在原業平と同じく825年に上総国山之郡(千葉県山武郡)の郡司の娘、もしくは秋田県雄物川、もしくは福島県田村郡小野町に生まれました。そして、三歳の時、小野篁の子である父・小野良実(良真)の出羽国郡司への勤め替えのために秋田県湯沢町小野・出羽国雄勝郡もしくは雄物川にゆきました。そのあと、京都に呼ばれた小町には千通の恋文が届くほどの美女でしたが、欣浄寺に住んでいた深草少将が、小町邸(随心寺)に百夜通い、百日目に倒れた話があります。小町の先祖は、蘇我善徳の遣隋使の使者として任命された小野妹子ともいわれております。即ち、妹子の子孫が千葉へ移住したと思われます。また、秋田美人という言葉はここから来ているのです。小町が十四歳になった時、宮中からお迎えが来て女官となり、歌風は情熱的で形にとらわれず、六歌仙の一人に数えられるほど歌人としても才能を発揮しました。小町は晩年、京都から東国を下り、奥州へ旅のゆく途中、あるいは自らの生誕の地である福島県田村郡小野町(もしくは、秋田県雄物川出身。雄物川には、かしま流しの伝統行事があり、弥生時代の頃にタケミカズチノ大神がここまで平定していた可能性があり、崇神朝に東北を平定した大彦と武沼川別など四道将軍の先達であります。)に帰る途中、茨城県土浦市新治の清滝観音(南向観音)に詣でました。小町は、悪い皮膚病にかか、山越え(現在の小野越)して、石岡市(旧八郷町)小野越の北向山北向観音堂で病平癒の祈願をすると共にいぼ神様に悪い皮膚病にかかりお参りしました。北向観音に向かう途中に小町が休んだ腰掛石が今でも残っておりお祈りをしたところ、たちどころに治りました。ここは、山寺のせみ塚に匹敵する侘びさびの名所です。山道の峠は、小町にちなんで小野越峠と呼ばれ、往時を偲ばせています。小町は、坂東三十三観世音巡礼をしていたのかもしれません。ところが、北向観音の帰り、山道に迷ったあげく、病に倒れてしまいました。幸い、小野村(土浦市小野)の村長の使用人に助けられ、村長宅で手厚い介護を受けましたが、症状は一進一退を繰り返し、ついに元慶7年(883年)の7月7日の七夕の日に69歳でこの世を去りました。源兵衛は、小町を手厚く葬り、五輪塔を建てて冥福を祈りました。墓は、代々村長だった小野家子孫の屋敷内の杉の巨木の根元にひっそりと立っております。小野家には、江戸時作られた高さ30cmの小町像が伝わっております。これらのことから、事実上この地が小町終焉の地であります。小野小町は、同じ六歌仙の一人に数えられ、共に東国出身と思われる文屋康秀に関東に誘われたことを思い出し、もしくはヤマトタケルが辿った連歌岳(筑波山)を訪ねたかったのかもしれません。小町を助けた村長は、墓を建て手厚く葬り五輪塔を建てた上、代々墓守をして、毎年7月7日の命日には法要を続けてきました。小町の看病をした村長の家には、江戸時代初期に作られた高さ30cmほどの小町像が保存されております。小町の墓の左側には、小田城主の小田氏治が小町の旧蹟が後世まで守り継がれることを願って、‘心花石‘と自著して彫らせた石が残されています。また、小町が北向観音に向かう途中に休んだという階段状の‘腰掛石‘が小町が歩いた‘小町の道‘沿いにあります。山道の峠は、小野越峠とも呼ばれ、往時を偲ばせています。卒塔婆とは、死者の供養のために墓に立てる細長い木の板のことで、僕も小町の墓に何度か行ったことがあるので、卒塔婆小町の舞台を見てびっくりしました。この近くには小町の館もあり、小野小町文芸賞も開催されています。小町が座った腰掛石もあります。周辺には、小野越峠ハイキングコースや枝垂れ桜で有名な向上庵もあります。皆様も、ぜひ小野小町の里を訪れてみてください

清滝や 雨に小町が 奢俄の花  紫峰

また、小町の里の近くには、沢辺の山王様と呼ばれている日枝神社があり、合歓の木の窪みにゴリラ並みの大猿がいて、農作物を荒らして困り果てていたそうです。それで、東城寺の家から子供の人身御供を出して、農作物を荒らさないように祈ったそうです。この大猿は、弓の名手によって見事仕留められました。いまでも、流鏑馬の伝統行事が残っております。

2010/5/6

今日は、那珂市の静峰ふるさと公園に行って参りました。ここでは、2100本の八重桜が斜面に見事に咲いており、圧巻というほかはありません。茨城最大の桜の名所が日立かみね公園の千本桜ですから、2100本がいかにすごいかは想像におまかせします。八重桜は、牡丹を小さくしたような形をしています。隣には、鹿島神宮に次ぐ常陸国二ノ宮を誇る静神社があります。ここは、ヤマトタケルノミコトが東北平定の帰りに訪れ、静かだったため静と名付けたそうです。延喜式神名帳に鹿島神宮と伴に「名神大社」として記載されてあり、常陸国二ノ宮として皇室を始め、水戸徳川家から民衆まで尊崇を受け、古くから御神威の広大な神社として著名であります。水戸藩では静神社を祈願所と定め、特に尊崇が篤かったそうです。ここの神様は、日本神話の中で鹿島神宮と香取神宮の二神が、天照大神の命を受けて東国平定に当った時、豪族の抗戦にあい苦戦した。このため、静神社の神様が援軍となって二神を助け豪族を平定したのである。ここの神様は織物の神様で、神社の前には織姫像があります。静神社は、呼んで字の如く心を落ち着けたい人にオススメです。三十六歌仙の絵もあり、特に在原業平と小野小町の絵は見事でした。静神社は、心を落ち着けたい人にオススメです。
また、隣の常陸大宮市は、室町時代の水墨画家として知られる画聖雪舟と並び称される画仙雪村周継が誕生した所です。日本で初めて自画像を描いた画家としても知られています。雪村周継は、雪舟の影に隠れていて最近になって注目されたという意味では、アメリカのラトゥールのような存在であります。雪舟と雪村周継の存在は、詩仙杜甫と詩聖李白のような存在であります。また、北斎と広重のようでもあります。雪を継ぐと書いて雪舟を継ぐことを意味しております。雪村が晩年を過ごした福島県の三春には、日本三大桜の一つに数えられる滝桜があります。常陸大宮市には、関東の嵐山と呼ばれる紅葉の名所である御前山があり、秋になると鮭が遡上し、数千羽の鳶の旋回も見られ、見事な紅葉が山々を埋め尽くし、那珂川の鮎の塩焼きが楽しめます。
隣の常陸太田市には、徳川光圀公が晩年を過ごした西山荘があります。
皆様もぜひ訪れてみて下さい。

2010/5/8

今日は、つくば牡丹園に行ってまいりました。牡丹は、平安時代に中国から日からに伝わり、「花の王」と呼ばれます。見事な大輪の花を太陽を見つめるように咲かしていました。芝桜も日差しを浴びて、明るく輝いていて、爽快でした。今年は、特に牡丹が見事に咲いたそうです。園内はかなり広いので、散歩にはもってこいです。皆様もぜひ訪れてみてください。

2010/5/20
今日は、雨の中、ひたち海浜公園に行ってきました。藤棚が見事で、雨に濡れた藤にうっとりしてしまいました。桃色の藤もありました。ネモフィラの丘に行きましたが、もう緑が多く、花は雨で倒れていました。帰りは、海を見ながら、那珂湊によりました。カキがその場で食べられ、すごくおいしかったです。秋刀魚と岩のりを買いました。そのあと、大洗で海を見て帰路に着きました。海は、癒されますので、疲れたときはぜひ訪れてみてください。
2010/6/4

今日はいろいろ巡ってまいりました。まずは、坂東観音霊場第二十四番の札所雨引山楽法寺に行きました。御本尊は延命観世音菩薩と申し、今を去ること一千四百年前の用明天皇の二年、梁の人、法輪独守居士によって、霊峰雨引山上に奉安され、以来推古、聖武、嵯峨の三天皇の御尊崇をいただき、更には安産子育の観音として名高い関東随一の霊場であります。

2010/6/11

今日は、八郷のフラワーパ-クへ行ってきました。ここはバラのフラワーパークで、300種類ものバラを観賞することができます。バラが太陽の光を浴びて、美しく輝いていました。茨城には、バラ神話があります。日本書記の中に、常陸久慈郡大甕山に星神香香肯男という先住民族の酋長がおり、覇を唱えておりました。その戦力は以外に強く、神出鬼没の抵抗に、さすがの鹿島香取の両神も攻めあぐねました。そのとき、蒋健葉槌の献策で、茨を刈取り、それを通路に並べて退路を断ち、ついにこの強敵を滅ぼしたとあります。茨城の名は、ここから来たのかもしれませんね

2010/8/20

今日は、明野の宮山公園へ行ってきました。向日葵を見に行ったのですが、まだ早く、満開のキバナコスモスが、大地をオレンジ色に染めて綺麗でした。
ホキ抄(慶長年間成立)には、史上最強の陰陽師阿部清明出生の地は、筑波山麓の猫島と明記されており、清明伝の原点となっている。。明野の猫島は、清明生誕(921年)の地でもあるのです。猫島の旧家高松家には、「清明伝記」の版本が伝わっています。さらに、高松家の敷地内には、清明が水神から授かった五角の井戸「清明井」と「清明さま」と呼ばれる社がある。陰陽道のイニシアルデザインは、五ぼう星紋である。西欧では、ペンタグラムと呼ばれ、やはり厄除け、魔除けの意味があります。猫島集落の西側には、清明が地元産の御影石で架けた清明橋と呼ばれていた橋があったそうです。この橋は、どんな洪水にも耐えるように設計されており、下流の田畑の被害を防いだと言う。現在清明橋はないが、橋の一部だったとされる石が残されている。今も、明野で行われている暦に関した年中行事の中には、清明の陰陽道の教えが伝えられています。陰陽道の代表的な祓いとなっている夏越の祓い「茅の輪くぐり」もその中のひとつです。明野の倉持には、日天、月天が彫りこまれた石像があります。陰陽思想は、太陽、月、星などを観測し季節や時の流れをつかみ、豊穣と息災を願うものです。陰陽思想が見られる貴重な石仏が、今もひっそりと、明野のあとさきを見守っている。
陰陽道は、推古朝に日本に伝来しました。阿部清明は、式神と呼ばれる鬼神を自由自在に操り、超人的な能力を発揮して京の都を魑魅魍魎から守った人です。清明出生の伝承では、母は和泉国信太の森の白狐。ある日、遊女姿で旅に出た白狐は、常陸国筑波山麓猫島に二年程滞在した。この地で、阿部仲麻呂の子孫と出逢い恋に落ちた。やがて、清明が生まれた。ある時、清明に狐の姿を見られてしまった母は、‘恋しくば 尋ねきて見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉‘の歌を残してこの地を去った。神童と呼ばれた清明は、都に上り「清明」と名乗り陰陽の道を学んでいたが、母恋しさのあまり信太の森を訪ね、母と再会する。この時、母が信太大明神の化身であった事を知った。‘恋しくば‘の歌は、清明の前半生を語る枕詞でもあります。
 

2010/10/02
本日は、秋田の大曲と並んで日本二大花火競技大会のひとつに数えられる土浦全国花火競技大会に行って参りました。目の覚めるような金色の大輪の花が見事でした。本大会は、1925年(大正14年)、神龍寺の住職・秋元梅峯師が、霞ヶ浦海軍航空隊殉職者の慰霊と、不況にあえぐ商店街の復興のため、私財を投げ打って霞ヶ浦湖畔で花火大会を開いたのが始まり。「実りの秋を祝い、農民の勤労を慰める」ことを趣旨に秋開催となった。今年は、土浦市の市制施行70周年を記念する大会。今年は、21都道府県から58の花火業者が参加。本年の花火シーズンを締めくくる集大成と同時に、来シーズンに向けた見本市的な要素も持つ。「スターマイン」「10号玉」「創造花火」の3部門で優勝を決め、全体で最も優れた煙火業者に内閣総理大臣賞が送られる。今年は、80万人の人出がありました。
秋の花火というのは、どことなく寂しさや情緒があっていいですね。
2010/10/22

今日は、福島県の安達太良山の紅葉と二本松の菊人形祭に行ってきました。安達太良山の紅葉は、残念ながら雲で見れませんでした。日本最大の二本松の菊人形は、‘竜馬伝‘で見事でした。二本松出身で、高村光太郎の妻で智恵子抄で有名な智恵子記念館にも足を運びました。智恵子は油絵がうまく、きり絵も見事でした。

2011/1/10

今日は、成人の日です。全国津々浦々で振袖が目に着き、晴れやかな1日となりました。
私は、水戸市の千波湖の畔にある近代美術館へ行って参りました。今日が最後の展示会となる滝平二郎の貼り絵を見ました。昭和初期の頃の懐かしい日本の原風景が描かれ、心が癒されました。誰でもカレンダーで見たことがあると思います。ここには、近代日本画の大御所で水戸市出身の横山大観や笠間市出身の木村武山など五浦の日本美術院出身の画家の絵も多くあります。皆さんもぜひ足を運んでみて下さい。

2011/3/16

このたびの東日本大震災では、何万人もの命が奪われました。他界なされた方の御冥福をお祈りします。三陸沿岸は何度も旅をした場所です。東松島町野蒜地区では、公園で子供たちが遊んでいた記憶が甦ってきます。あの子供たちは、無事だったでしょうか。牡鹿半島では、海沿いにたくさんの家がありました。小学校もありました。南三陸町も通りました。気仙沼には魚市場があり、食事をしました。陸前高田には、日本有数の高田松原があり、白い砂浜と真っ青な海が緑の半島に囲まれていて素晴らしい所でした。高田松原の近くには、高村光太郎の詩碑や高浜虚子の句碑がありました。私は、すぐ裏のユースホステルに泊まりました。ユースホステルの方とも親しくさせていただき、安否が心配です。さらに、宮古町にも泊まりました。あの旅館のおばさんは大丈夫なのでしょうか。人間一人の命も限りなく大切なのに、なんて多くの命が奪われてしまったのでしょうか。

2011/5/4

今日は、那珂市の静峰ふるさと公園を訪れました。ここは、二千本にも上る八重桜の名所で、花たちが明るい青空の下、にこにこ笑っておりました。また、ここ静地区(古代の静郡)には茨城県二ノ宮になっている由緒ある静神社があり、常陸国風土記では‘静織の里と呼ばれ、この地で機織りを行っていたことから名付けられたそうです。1700年前、東北を平定した倭タケルがここを訪れ、静かだったので‘静‘と名付けられたそうです。当時はまだ漢字がなかったので、発音でシズと言ったのです。ここより北の高萩市付近は、多珂国造‘建御狭日命がこの地を訪れた時、峰が険しく山が高いことから、多珂(高)となずけたと、常陸風土記に記されています。また、1700年前に倭タケルが立ち寄った際、鯨が見えたので‘久慈‘となずけたのです。

2016/8/11
今日は、常総きぬ花火大会に行って参りました。流石に日本のベストイレブンに入るだけのことはあって、最新の見たことない花火に感激しました。江戸時代の人が見たらびっくり仰天の色と光の移動にびっくりしました。また、来年も行きます。
2012/4/19
 今日は、石岡市の常陸風土記の丘へ行って参りました。ここは、聖武天皇の御世に国分寺と国分尼寺が設けられた所で、茨城県最大の枝垂桜の名所であります。満開の枝垂桜が藤のようにピンクの花を垂らしておりました。皆様もどうぞ来年に訪れてみてください。癒されますよ!
2013/4/26

今日は、つくば牡丹園に行ってまいりました。‘牡丹は花の王様‘というだけあって、白牡丹が寄り添うように見事な大輪の花を咲かせており、藤が薄紫の花を風に靡かせておりました。皆様もぜひ足を運んでみてください。

2013/4/27
今日は、近代美術館へ行って来ました。牛久市の日本画家小川芋銭の展示会が開催されています。芋銭は、雪村周継・横山大観・木村武山に次ぐ茨城の四天皇というべき大家であります。ぜひご覧になってください。
2015/7/19
今日は、天久保のおおきやのれんこんうどんを食べました。丸亀よりもはるかにおいしかったです。
2016/4/1
今日は、筑波山神社の御座替祭に、行ってきました。頂上の神様を田畑が実るようにと地上の降ろす伝統の行事です。筑波山の鶺鴒伝説がありますが、鶺鴒は恋告げ鳥です。また、北条は筑波山登山の門前町として栄えてきました。それから、真壁に行きお客様から伺ったペンギンでハンバーグを食べ、お宮参りの名所の雨引観音にゆきました。筑波山共々桜が満開で最高でした。この後岩瀬の富谷山にいきました。濃いピンクの桜が見事でした。展望台からの景色も絶景でした。さらに、西日本の吉野と並んで東日本を代表する桜の名所である桜川公園にいってきました。桜川は、紀貫之に詠まれ、世阿弥に謡われました。
2015/11/22
今日は、和菓子めぐりしました。土浦の宮本のれんこん饅頭・美浦の木原のすまんじゅう・稲敷のこうのの大福・稲敷の大杉神社の夢だんご。筑波山の沼田屋の元祖かりんとう饅頭を含めて茨城五大和菓子と言っていいほどおいしいです。皆様もご賞味ください。
2010/4/13
4300年前の縄文時代の日本は、人口26万人で、中部地方からの東日本が人口の95%以上締めておりました。縄文人の平均寿命は15歳、長生きで31歳である。日本最古の山岳信仰である筑波山信仰が3000年前に始まりました。かすみがうら市牛渡で3000年前の勾玉が出土し、勾玉発祥の地である。さらに、霞ヶ浦大橋を渡った玉造町で勾玉を作っていたかもしれない。その隣は、勾玉の里・玉里町である。さらに、かすみがうら市安食で糸魚川の縄文時代ヒスイが発見されました。ヒスイは、縄文時代中・後期に東日本全体に分布。東日本全体の交流があった証拠です。3世紀末葉には、茨城県に方形周講墓が出現し、近畿の支配下に入りました。茨城県には、前方後方墳が7期もあり、東海の狗ナ国の勢力が及んでいた証拠です。4世紀中葉には、茨城県に前方後円墳が出現し、豊城入彦命がマキムクから広め、子孫の柿岡村の首長・佐自ヌ君の前方後円墳が築造されました。雄略天皇が東国を平定した直後の5世紀末、かすみがうら市柏崎に後方部45度以上の危険な傾斜がある富士見塚古墳が築造され、田伏イズナ遺跡や当時の出島村・霞ヶ浦周辺の首長のものと思われます。富士見塚2号墳は首長の妻のもの。常陸国の名は、ヤマト王権の最も東の国として太陽が昇る国として、日起ちと名ずけたのです。時代は下って、朝鮮半島の渡来人が縄文人と合流して弥生時代が始まったのです。弥生初期は、紀元前300年~紀元前100年、中期は紀元前100年から紀元0年、後期は0年~紀元200年です。
太安万侶の先祖は九州を平定した多氏で、太安万侶自身も709年に蝦夷を平定し、712年に古事記を編纂しました。多神社は、田原本町にあります。
弥生時代中期、出雲から船で旅に出立したイザナギとイザナミが最初に発見した島がオノコロ島(沼島)である。この時訪れた鳴門の渦潮尾を天沼矛の話に変えました。この時、契りを結んだのが上立神岩である。イザナギとイザナミが淡路島で初め見た山が先山です。葦原中国は、本州のことです。最初の子・蛭子は淡路島の岩樟神社の地で生まれました。出雲の王イザナギと妃・イザナミの子・大山津見は、舟で大三島に派遣され、大三島の王となりました。イザナミは、因幡と伯耆の間の比婆山(比婆山久米神社)に埋葬されました。イザナギは、宮崎市のみそぎ池で禊して、宮崎で妃を迎えて3人の子を授かりました。メコン川にも、禊の祭があり、少彦名命が中国南部の常世国に帰った際、東南アジアを旅して禊の儀式をもたらしたのかもしれません。高千穂でイザナギに追い出されたスサノオは出雲に東征して船通山の頂上に土舟を置きました。スサノオが、八岐大蛇の8人の集団を葬った地が斐伊神社です。この8人の集団が持っていた天ムラクモノ剣を発見した地が、雲南市加茂町の御立藪である。加茂岩倉遺跡は、スサノオが祀りをした地です。花窟神社は、スサノオが晩年に熊野に隠棲したとき、最も尊敬したイザナミを祀ったものです。本宮大社にはスサノオ・速玉大社にはイザナギ・那智大社にはイザナミが祀られています。イザナギは、死後淡海の多賀で祀られました。イザナギ没後2000年の歴史を誇る多賀大社である。イザナギとイザナミの子・大山津見は、伊予の大三島に渡って王となりました。大山津見王の子・足なずちと手なずちは、祖父と祖母の故郷である出雲に住みました。スサノオは、斐伊川のほとりを歩いているとき、箸が流れてきたので、上流に人が住んでいることを悟りました。この箸を拾った地が、八岐大蛇公園です。そして、八塩折の壺を祀るのが八口神社です。高千穂には、554社の社寺があって、そのうちの高千穂八十八社が別格です。宮崎県の大御神社が、真の元伊勢と思われます。鹿島神宮と並ぶ日本を代表するさざれ石があります。伊予の大三島の王である大山津見王の子・木花咲耶姫は、海を渡って宮崎でニニギと出会い結婚し、火の中で火遠理命を出産しました。ニニギは、宮崎市の竹篠山に登り、‘正に、王道楽土の地なり‘とおっしゃられました。ここで、火遠理命が炎の中、誕生しました。山頂には、火遠理命の陵墓である高屋山陵があります。さらに、806年に最澄が開いた王楽寺があります。景行天皇も西征の折、陵墓に参拝しました。宮城県の塩釜神社の地に住んでいた塩土老翁命は、日向国に来て、火遠理命を対馬に案内しました。朝鮮半島の最も近い長崎県の対馬国の王だった海神ワタツミの娘・豊玉姫は、事代主と同時代の1世紀後半に実在した姫であり、竜宮城の乙姫様のもでるであり、日向から火遠理命が対馬に来たとき、大変なおもてなしをして火遠命と結婚しました。神武天皇の祖父・祖母の現実の話です。火遠理は、対馬国から帰還の時、対馬のワタツミ王から二つの玉お貰い受け、西都市の鹿野神社の御神体となっております。鬼の洗濯板から上陸すると、人々が驚いて、着替える間もなく出迎えました。浦島太郎の物語はここから誕生しました。そして、火遠理命は青島神社を建立しました。妊娠した豊玉姫は、火遠理命を追いかけて来ました。豊玉姫出産のための産屋跡が鵜戸神宮であります。そこで生まれたのが、ウガヤフキアエズノ命です。命は、佐野原聖地に、宮殿を築きました。出雲の命主社で、スサノオ~大国主の弥生時代中期の銅カと硬玉製勾玉が発見され、北部九州や新潟と同盟を結んでいたようである。弥生時代中期から後期にかけて、大阪湾から瀬戸内海沿岸に鉄壁の防御力を誇る高地性集落が登場しました。奈良の東大寺山遺跡もその一つで、奈良県の王だった天皇の宮があったと思われます。1世紀、西日本から関東まで支配したオオナムジは、自身の和魂をヤタノ鏡に託し、倭大物主櫛甕玉命と名ずけて、三輪山に鎮座させました。スサノオの祭祀遺跡である神庭荒神谷の荒神はスサノオをあらわす言葉ですが、瀬戸内海地方には、平型銅剣の勢力がありました。39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡は、1世紀に出雲国の王であった大国主が高千穂の女王であった天照大御神の命を受けた建御雷命との国譲りで、幽事を担当することになった際、戦争を終結する証として埋めたものである。出雲国造家の先祖・天穂日命は天照大御神の子で、宗像三貴神も天照の子である。稗田阿礼の先祖が、高千穂の天安河原で相談した後、高千穂の天岩戸の前で芸能の魅力で天照大御神に扉を開けさせた天ウズメであります。天ウズメは、伊勢に祭られております。北九州との同盟の証だった銅矛も荒神谷に埋められました。吉野ヶ里遺跡から銅鐸が発見されていることも、出雲と北九州が同盟を結んでいた証。また、日本各地で出雲と同じ鋳型の銅鐸が発見されているのは、これらの地域が大国主命の支配下に入っていた証です。大陸から出雲に入ってきた銅鐸は、出雲を中心に日本各地に広まり、西日本から浜松市・君津市・市原市・朝霞市と関東まで大国主の支配が広範囲に及んでいたことが分かります。正に、大国主は日本国初めての統一王だったのです。107年の帥升かもしれません。大国主の国譲りの頃、天照大御神の孫・ニニギが高千穂のくしふる神社の地に住んでいました。宮崎市の木花神社は、ニニギの一時的な宮殿跡である。西都市の都萬神社は、ニニギと木花咲耶姫が日本初の結婚式を挙げた場所です。西都原古墳群はこの二人の子孫のもので、仁徳天皇が妃を迎えました。また、西都市の無戸室は木花咲耶姫が潔白を証明するために戸のない産屋を作り、炎の中、三人の子を産んだ場所。さらに、児湯の池は、三人の子の産湯に使われました。対馬から帰った火遠理命は鬼の洗濯板に上陸して、青島神社を建立しました。対馬から追いかけて来た豊玉姫は、鵜戸神宮でイワレ彦の父を出産し、対馬国(ワタツミ国)に帰りました。佐野原聖地は、1世紀中頃のイワレ彦の父の宮殿跡であります。1世紀後半イワレ彦は、十五歳で日向国の皇太子に就かれ、宮崎市の宮崎の宮(高千穂宮)に住まわれました。宮崎神宮は、神武天皇の孫であるタケイワタツノ命が、神武天皇の御遺徳を称えるために、1世紀初葉~中葉頃に建立しました。奈良県(唐古・鍵遺跡)は日本を平定するには最高の場所と聞いていたイワレ彦は、45歳の時、宮崎の美々津海岸を出立。日向国の同盟国である宇佐国を造った宇佐ツ彦・宇佐ツ姫がはるばる奈良を目指す神武天皇のために一柱騰宮を造営しました。この宮の跡に建立されたのが、十五代応神天皇を祀った宇佐神宮であります。この後、同盟国の北九州市の八幡西区の岡田宮の地に1年滞在しました。ここは、崗地方を治めていた熊族が祖先を奉斎した場所です。ここから、同盟国の広島・吉備でさらに勢力を蓄えて、大阪で反撃に会いますが、太陽を背にした熊野の那智海岸のにしきうらに上陸し、那智の山に光が輝くのを見て、那智の滝を発見して崇められ、飛滝大神としてお祀りしました。さらに、神倉神社のごとびき岩に登り、周囲を見渡しました。イワレ彦が、熊野の山道を無事通行できたのは、大きな八た烏のおかげでした。そして、イワレ彦は1月1日に奈良県の王として即位して神武天皇となり、1世紀初葉頃に茨城県の建御雷の王様が住んでいた場所に鹿島神宮を建立しました。神武天皇は、葛城の王だった事代主命の娘・ヒメタタラ五十鈴姫を皇后に迎えました。高鴨神社の神は、大国主命の第一子・アジスキ高彦根命。鴨都波神社の神は、鴨族の祖・事代主命。一言主神社の神は、葛城氏の先祖・事代主命。事代主命は、神武天皇皇后の親である。皇后は、奈良市の率川神社に祀られています。神武天皇神武天皇の子孫・多氏の氏神である多神社は神武天皇を祀り、2世紀頃の創建と思われます。弥生時代全般に、奈良には唐古・鍵遺跡の王がいて、ニギハヤヒなど奈良県の王だった皇族の遺跡と思われます。葛城地方にも、弥生初期から鴨族が住んでいました。葛城地方は、全般的に出雲族の世界であります。神庭荒神谷遺跡と同じ時代の大阪の池上曽根遺跡からは、弥生時代中期日本最大の20メートルにも及ぶ神殿がありました。出雲で98メートルの高層神殿を築造した後、建御雷大神と経津主神は、天照から命を受け、鹿島・香取の地に派遣され、東国平定に尽力したのです。かすみがうら市のしつ`くの田井は、炊事に適しているため建御雷大神が陣を張った場所です。後に、倭建命が水飲み器を落とした場所です。
卑弥呼の時代、佐賀県の末ラ国(菜畑遺跡・吉野ヶ里遺跡)があり、一大率が置かれた伊都国(平原遺跡)がありました。さらに、スグ岡本遺跡は、ナ国王が暮すナ国の都があった場所で、30面の中国鏡が出土しました。これは、57年に賜った印と共に賜ったに違いありません。ナ国のスグタカウタ遺跡から、紀元前2世紀の鏡の鋳型が発見され、八タノ鏡の原点と思われます。三遠型銅鐸の出土範囲が、正に狗ナ国の勢力範囲であります。近畿型銅鐸の範囲は、池上曽根の勢力範か奈良の鴨・出雲族の勢力範囲ではないでしょうか。近畿から始まった方形周溝墓が各地に広まったことは、近畿の勢力が周辺に影響を及ぼしていった証拠です。登呂遺跡は、弥生時代後期の遺跡で、狗ナ国の遺跡で間違いありません。東海最大の朝日遺跡は、狗ナ国の本拠です。犬山市の東之宮古墳から出土した三角縁神獣鏡は、太陽の光を壁に反射させて模様を浮かびあがらせて祭祀に使用されたものですが、卑弥呼が狗ナ国の王に同盟の証として配ったものです。当時、日本は30カ国あって、1国は今の県ほどの面積と思われます。
高鴨神社の由来は、大国主神の子の御魂を葛木の鴨の神名備に鎮座させたとあり、弥生時代前期から この地に住み着いた鴨族の祖神を祀っています。高天彦神社は、葛城氏の祖神を祀っています。
1世紀後半、美々津の湊を出立した神倭イワレ彦は、同盟国である大分の宇佐国を造った宇佐ツ彦と宇佐ツ姫は、一柱あがりの宮を造営して盛大に出迎えを受けました。この地が宇佐神宮であります。さらに、筑紫の岡田宮に1年・同盟国の広島のたけり宮に7年・同盟国の吉備の高島宮に8年帯在し、勢力を蓄えました。しかし、大阪の豪族長スネ彦の反撃に会い、兄の五瀬命が薨去しました。先祖の天照大御神を正面にして戦ったことが原因と知ったイワレ彦は、熊野にまわりました。そこでも、熊野の豪族・大熊ホノカに破れそうになりましたが、高倉下が布都御魂を持参して切り抜けました。103年、日食。107年に朝貢し、日本人最古の名前にして倭国王スイショウは、倭国全体の王だった大国主命か事代主命もしくは奈良県の王だった神武天皇かスイゼイ天皇であります。奈良県の天皇家は葛城王朝が続きました。第二代スイゼイ天皇は、1世紀末から2世紀初葉の奈良県の王で、皇后は事代主命の娘です。一言主神社の存在からも、オオナムジが奈良に入り三輪山を祀ったあと、事代主命が奈良の王になったのでしょう。127年日食。
ニギハヤヒの子・高倉下命は、熊野で倉の中に剣がある夢を見て、神武天皇に献上しました。たちどころの回復された神武天皇は、熊を倒し、ヤタガラスに導かれて、奈良県の王として鳥見霊ジで即位した。高倉下命は、神武天皇4年に熊野から古志国に派遣されました。大国主命が日本の王だった頃か神武天皇が奈良県の王となった西暦70年~イ徳天皇崩御頃の147年まで倭国全体が穏やかな安寧の時代が続きました。鹿島神宮は、西暦70年頃に神武天皇が創建しました。西暦80年代には、神武天皇により香取神宮が創建されました。スイゼイ天皇は、名前と在位時期から最も107年に朝貢した倭国王帥升の可能性が最も高い。45歳の崩御。葛城高丘宮に遷都し、葛城氏や事代主との深い関係を伺わせる。第三代安寧天皇は、2世紀初葉の奈良県の王で、磯城彦の諡号を持ち、母は師木県主の娘・河俣ヒメである。安寧天皇稜は、安寧神社です。49歳の崩御。四代イ徳天皇は2世紀前中葉の奈良県の王で、軽之境岡宮に遷都し、45歳で崩御しました。大日本彦と日本の文字と鍬が諡号になっています。五代孝昭天皇は、2世紀半ば頃の奈良県の王であり、葛城のわきの上宮に遷都しました。146年、日食。寒冷期に近ずきつつあり、孝昭天皇が奈良県の王として即位したと思われる147年から倭国大乱と言われる古代の戦国時代に突入し、189年まで倭国大乱が続きました。倭国大乱の時代の奈良県の王である六代孝安天皇は、2世紀後葉の奈良県の王であり、室秋津島宮の秋津島は、大和国・日本国の異称であり、日本足彦の諡号も謎めいている。孝霊天皇から三代が日本根子の諡号が使われています。160年、卑弥呼生まれる。173年5月、奈良県(当時の倭国)の斎王になった13歳の卑弥呼が馬韓(新羅)に使者を送りました。。新羅の始祖・朴氏も台与(豊鍬入姫命)も13歳で即位しており、古代の即位は、13歳決められていた。現代でも、中学生になるのである。卑弥呼と桃太郎の親であり、田原本町の黒田庵戸宮(唐古・カギ遺跡)に都を築いていた孝霊天皇(実質上は皇女・卑弥呼)が奈良県の王だった180年前後に過去7600年で最悪の寒冷期があり、日本が飢饉に陥り、178年~184年が倭国大乱の戦国時代となりました。そこで、19才にして聡明で叡知にあふれた奈良県の女王・倭トト日百襲姫命(卑弥呼)が大和・吉備・出雲他30カ国の女王として189年に共立されました。193年、日本は飢餓に苦しむ人にあふれ、朝鮮半島に千人以上の人が食べ物を求めて渡りました。平原遺跡からヤタノ鏡を彷彿とさせる日本最大の銅鏡ほか40面の鏡が出土していることから、189年に奈良県の卑弥呼が伊都国の祭祀を採用したことが分かります。マキムク遺跡で2009年に発見された卑弥呼の神殿は、日本で初めて東西南北がそろえられました。また、銅鐸や楯築古墳などの双方中円墳が姿を消すと同時に纏向遺跡が出現しました。銅鐸が焼かれ壊されて、太陽をあらわす鏡が祭祀を司り、纏向型前方後円墳が卑弥呼の創造によって発明されました。卑弥呼の父で、2世紀後葉~2世紀末葉の奈良県の王だった孝霊天皇陵は、日本初の前方後円墳である纏向石塚古墳であります。東田大塚古墳かマキムク八塚古墳が孝霊天皇皇后細媛命陵です。ヤマタイ国のタイの漢字が、トヨのトと同じ漢字であり、ヤマタイ国は、ヤマト国と呼ぶことは確実であり、奈良県のことを指しているのも確実であります。。卑弥呼に仕えていた孝元天皇は、1世紀末葉から2世紀初頭の天皇と思われます。孝元天皇の皇子・大彦命は、崇神天皇の御世に北陸に派遣され、 古志を平定して会津に向かい東海道を平定してきた息子のタケヌナ河別と出会いました。会津の名の由来です。埼玉古墳群の鉄剣銘に記されています。また、妃の伊香色謎命は、建内宿禰の先祖で、東田大塚古墳か八塚古墳が孝元天皇皇后陵です。孝霊天皇は、2世紀後葉~2世紀末葉の大王と思われます。纏向勝山古墳が57歳で崩御した孝元天皇陵。孝元天皇は、2世紀末葉から3世紀初頭の大王と思われます。孝元天皇皇后・鬱色謎命の墳墓は、マキムク矢塚古墳かホケノ山古墳。卑弥呼(倭トト日百襲姫)に仕えていた男弟は、開化天皇か崇神天皇である。開化天皇は、3世紀初葉の大王と思われます。63歳で崩御した開化天皇稜は、東田大塚古墳かホケノ山古墳か春日率川坂の上の陵。開化天皇皇后伊香色謎命陵は、ホケノ山古墳かマキムク八塚古墳。桜井市の磯城瑞垣宮に政治の場を移した崇神天皇が男弟で、卑弥呼に食事を届けた男の子が垂仁天皇。纏向遺跡から、絹織物で作られた巾着袋が発見され、卑弥呼の魏への貢物である絹織物を作っていた証拠です。また、朱の原料である紅花の栽培も確認されました。マキムクでは、メロンが栽培され鯉が養殖されました。230年に、沼津市の高尾山古墳で、東海全域を支配していた狗ナ国の王の前方後方墳の築造が完成しました。東之宮古墳から出土した三角縁神獣鏡は、卑弥呼が同盟の証として狗ナ国王に配ったものです。島根県で発見された景初3年の三角縁神獣鏡は、マキムクの卑弥呼が同盟の証として5万戸を有する投馬国に配ったものである。京都の龍谷大学の地図に描かれているように、古代から室町時代までは、日本は朝鮮半島の南に伸びていると思い込まれ、九州が一番北で青森が一番南に描かれている。即ち、航路と陸路の距離から投馬国が出雲を都とする山陰で、ヤマタイ国がマキムクを都とする奈良県である。但馬から上陸し、豊岡市・養父市・朝来市・丹波市・篠山市と芭蕉のようにゆっくり滞在しながら、奈良に来ていたのです。240年頃、再び寒冷期となり、飢饉が訪れました。卑弥呼も、238年・243年・247年と飢饉と戦争から魏に遣いを送っています。243年(崇神天皇6年)、崇神天皇は飢饉が起き、世が乱れて謀反まで起こす人が現れるようになったのは、天照大御神と倭大国魂神を共に祀っているからだと気ずき、別々に祀らせました。崇神天皇6年、天照大御神は豊鍬入姫命が初代斎王となって笠縫邑に、倭大国魂神は、ヌ名城入姫命が初代斎王となって大和神社に祀られました。崇神天皇7年、卑弥呼に神託が降り、倭大国魂神は子孫の市磯長尾市を斎王として祀られることを希望していることが分かりました。これでも、倭国は治まらず、大物主神の子孫である大田田根子命に大物主神を祀らせたら国が治まりました。卑弥呼は、最悪の寒冷期と飢饉を2度も経験した波乱万丈の生涯でした。247年の日が沈みながらの皆既日食か248年の日が昇りながらの皆既日食の時、卑弥呼は箸の事故で薨去しました。古代では、月や星の動きを神の意志の表れと考えておりまして、異変があれば人々はおびえました。能因法師が旅をして和歌を革新していた972年1月10日、木星がおとめ座を覆ったのを阿部晴明は肉眼でとらえており、天体観察の重要度が分かります。そんな中、クナ国(東海の勢力)と戦っていた卑弥呼が、箸の事故で薨去されたのです。当時としては、破格の長寿で現代女性平均寿命に匹敵する享年87歳もしくは88歳でした。天体の動きに敏感だった古代人にとって、皆既日食はグリーンランドの極夜のような不気味に感じたのかもしれません。250年~260年頃に築造された箸墓古墳が卑弥呼稜ですが卑弥呼のマキムクの神殿の柱が抜き取られるのと同時に箸墓古墳の築造が開始されました。箸墓古墳では、日本初の二重の掘が作られました。卑弥呼は、死後も神として崇められ、後方部で儀式(祭)が執り行われていました。吉備の双方中円墳が行燈山古墳の後円部の上にある櫛山古墳として奈良でも築造されましたが、150メートルの規模は箸墓の後円部と並んで卑弥呼の墓の大きさとほぼ一致します。卑弥呼の後、卑弥呼弓もしくは崇神天皇を立てしも、国中服せず、更々相誅殺し、四道将軍などを派遣す。日本最大の前方後方墳の西山古墳が卑弥呼弓(ヒミココ)の墳墓である。崇神天皇皇后・御間城姫命陵は、垂仁天皇陵(行燈山古墳)の直線上にある倭トト日百襲姫が魏からいただいた34面の銅鏡が出土した黒塚古墳。垂仁天皇皇后陵は、大和古墳群の最後の古墳かメスリ山古墳(224メーター)。櫛山古墳も直線上にあり、深いつながりがあります。また、櫛山古墳から90度に直線を引くと、景行天皇陵・垂仁天皇のマキムク珠城宮・卑弥呼の箸墓につながり、マキムク珠城宮から真西に2009年に発見され、天照大御神などを祀っていた卑弥呼の当時の日本最大の神殿・孝元天皇陵(マキムク勝山古墳)があります。中山大塚古墳が、位置と築造時期から初代大和神社主祭・ヌ名城入姫命の墳墓。東田大塚古墳や矢塚古墳も可能性が高い。吉備系の出土物と墓型から箸墓の後継古墳である西殿塚古墳(230メートル)は時期的にも位置的(山之辺道曲之岡之上陵)にも崇神天皇稜である。西殿塚からも箸墓のような吉備との関係を思わせる特殊器台形埴輪などが出土し、箸墓や吉備と深い関係があるのは確実である。ホケノ山古墳が、時期的にも第九代開化天皇陵であり、出土した剣は卑弥呼が魏から賜ったものである。中山大塚古墳か画文帯神獣鏡を含む34面の鏡が出土した黒塚古墳(3世紀末)か外山茶臼山古墳がヌ名城入姫命の墳墓である。また、東殿塚古墳が、大和神社の主祭・市磯長尾市の墳墓である。崇神天皇に夢のお告げがあり、垂仁天皇が皇太子となりました。四道将軍を派遣した後の3世紀後葉、崇神天皇は、子で垂仁天皇の兄弟・豊城入彦命の夢の謎を解いて、北関東に派遣しました。皇子は、奥日光の戦場ヶ原で赤城の豪族と戦いました。逃げ帰った赤城の豪族は老神温泉で傷を癒しました。皇子は、下毛野国(栃木市)に奈良の御諸山の大物主神を勧請して大神神社(室の八島)を建立、上毛野を支配しることとなた時に、大己貴命を勧請して山と沼の神を奉斎して赤城神社を建立しました。皇子は、筑波の地で他界され、阿部晴明の故郷である明野町の民によって手厚く葬られました。皇子は、宇都宮二荒山神社に祀られています。曹孫の御諸別命も関東に派遣されました。豊城入彦命が、祭祀した神社は栃木と群馬に六社あります。つくば市の水守は、御諸別命の城があった場所です。崇神天皇の御世、宮崎県高千穂町の天安河原で天照大御神を同高千穂町の天岩戸から出ていただくために智慧を絞ったり。1世紀の日本国王の大国主命から日本を高千穂の女王・天照に譲らせるために智慧を絞った八意思兼命の十代後の子孫・知知夫命を埼玉県の知知夫国造として派遣し、知知夫命が先祖・八意思兼命を祀ったのが、秩父神社の始まりで、崇神天皇から1750年の歴史を誇ります。の3世紀中葉、卑弥呼の男弟(男の弟子)である崇神天皇は、日本を平定するために四道将軍を派遣しました。吉備津彦命に従った武将は、犬飼建命・ささ森彦命・鳥飼である。孝元天皇の子・大彦命は、福井・石川・富山と進みました。福井県の春日神社は、大彦が茨城県鹿島の王だった武甕槌神と千葉県香取の王だった経津主神を祀ったことに始まります。ここから、古志国を平定し、秋田市で武甕槌神を奉仕したのが、古四王神社の始まりです。東海道に派遣された大彦の子・武ヌナ川別は、富士川一帯から甲府を平定。その武ヌナ川別が賞賛して祀ったのが、山梨県の大滝神社である。また、1850年の歴史を誇る静岡県富士市の富知六所浅間神社は、2世紀中ごろの第五代孝昭天皇の御世の創建ですが、武ヌナ川別が下向したとき、篤く崇敬されました。大彦は、会津で東海道を来た子の武ぬな川別に会い、国境の天津嶽に国家鎮護のために祖神を奉祭したのが伊佐須美神社の始まりである。幸魂を意味する埼玉古墳群に名が刻まれていることから北陸遠征の帰路、埼玉古墳群の地に立ち寄っているのである。大彦命は、四道将軍として垂仁天皇の御世まで地方開拓に大きな功績を上げ、川俣の県の国造となってお宮を造り、神田・神戸を献上されたのが三重県の川俣神社である。また、伊賀国一ノ宮・敢国神社は、大彦命を祀り、北にある御墓山が大彦の墳墓である。箸墓の後継墳・西殿塚古墳(3世紀末・230メーター)が崇神天皇陵。314年、高句麗は馬韓・辰韓と共に帯方郡を滅ぼしました。馬韓に百済が建国された年は314年か肖古王が即位した346年である。この頃、九州には、神武天皇の皇子の末裔の多氏が進出しています。356年には、辰韓六国が連合して新羅が建国されました。3世紀末葉~4世紀前葉まで在位したと思われる垂仁天皇の御世もたくさんの出来事に彩られています。東殿塚古墳が、崇神天皇皇后・御間城入姫陵。中山大塚古墳が、大和神社主祭・市磯長尾市の墳墓。さらに、箸墓と同型の土師器壺が見つかり、奈良県では唯一の卑弥呼が魏からいただいた正始元年(240年)の鏡を含む13種類81面を越える鏡が出土した4世紀初頭築造の桜井茶臼山古墳(207メーター)が台与(豊鍬入媛命)の墳墓。マキムクでは、台与の本名の由来である鍬が活躍しました。画文帯神獣鏡を含む34面の鏡が出土した黒塚古墳(3世紀末)は、垂仁天皇皇后陵もしくは大田田根子の墳墓か、ヌ名城入姫命か、卑弥呼の後継者の台与(豊鍬入媛命)の墳墓。23面の銅鏡が出土した天神山古墳は、大田田根子の墳墓かも。38面以上もの銅鏡が出土した椿井大塚山古墳(175メーター)は、第九代開花天皇の子にして四道将軍の一人である丹波道主命の墳墓。行燈山古墳(242メーター)が、3世紀末葉~4世紀初葉に君臨した第十一代垂仁天皇陵(行燈山古墳の掘に浮かぶ島が田道間守の墳墓)である。垂仁天皇は、偉大な崇神天皇の制作を引き継ぎ、新羅との外交を積極的に行いました。新羅の皇子・天日槍が神宝を持って垂仁天皇ももとに来朝し、兵庫県の王として定住しました。垂仁天皇は、水田開発にも力を入れ、800余りもの池・溝を造りました。最大の出来事は、第四皇女・倭姫命に初瀬の白山神社の地にあった笠縫邑の天照大御神の祭祀を命じ、丹後の籠神社など近畿各地を転々としながら、伊勢に辿りつきました。皇大神宮1700年の歴史の始まりです。さらに、豊受大神宮を迎えたのは、雄略天皇の5世紀後半の御世です。さらに、伊勢神宮創建と同時に天照大御神が女王として実在していた宮崎県高千穂町の高千穂皇神社を創建しました。ここで、種田山頭火は、

分け入っても 分け入っても 青い山

と詠み、代表作になりました。物部十千根大連に命じ、出雲国に赴かせて神宝を管理させました。312年、垂仁天皇は使者を新羅に遣わし、子のために婚約者を求めました。建御雷大神が出雲で相撲を取りましたが、垂仁天皇は出雲の勇士・野見宿禰を呼び寄せ、当麻蹴速と相撲を取らせました。相撲神社の起源です。野見宿禰は、垂仁天皇の側近となり、垂仁天皇に殉死の廃止を直訴し、垂仁天皇の`仁を垂れる`のエピソードとなった承諾を得て、代わりに出雲から土師を呼び寄せて埴輪を作らせて用いました。メスリ山古墳(250メーター)が、垂仁天皇皇后陵です。秦の始皇帝の使者が不老長寿の薬を求めて日本に来たのは有名ですが、垂仁天皇は国民のために不老不死の国を探すように、朝鮮半島から来て兵庫県出石市の王となった神功皇后の母方の祖でもある天日矛のヤシャ孫の田道間守を常世国へ非時香菓(トキジクノカグノミ)・ときじくのかくの木の実を探しに派遣しました。十年後、常世国(中国南部の雲南省)で母親の若い娘と息子の老人を発見しました。若い母は、木の実を指してこの子だけが酸っぱくて食べないのだと言いました。田道間守は、トキジクノカクノミ(蜜柑)のなる木(橘の木)を数本譲りうけて帰国しると垂仁天皇が既に崩御なされていて、田道間守は行燈山古墳の前で泣き伏して不老長寿の実のなる木を両手に差し上げて‘お天子さま、ごらんくださいませ‘と繰り返し泣き叫びながら死にました。そして、垂仁天皇陵(行燈山古墳)の掘に田道間守の墳墓が築かれました。非時香菓の北限が筑波山の甘い福来みかん(北限蜜柑)である。不老不死は、達成できませんでしたが、垂仁天皇は崇神天皇を越える長寿でした。垂仁天皇皇后陵は、位置から黒塚古墳で確定。景行天皇は、田道間守の志を憐み、持ち帰った橘の木を明日香村の橘寺の地に植えました。橘寺には、田道間守の木造が安置されております。飛鳥の人々は、特に橘を愛し、万葉集には橘を称える歌が多い。ました。垂仁天皇の活躍の中で、天樫丘が登場する。後に、欽明天皇の別宮である橘宮が築かれ、橘豊日皇子(用明天皇)の住まいでもありました。橘樹寺創建の由来は、蘇我善徳35歳の時、推古天皇のおおせにより欽明天皇の橘宮で勝マン経を三日に渡り講ぜられ、蓮華が庭一面に降り積もり、南の山に山田寺の本尊のような千仏頭が光を放ちながら現れ、善徳の冠から日・月・星の光が輝きました。推古天皇は大変驚かれて、この地に寺を建立するよう命じました。創建当初は、東西が筑波山の高さと同じ870メーター南北がスカイツリーの高さを越える650メーターの土地に、金堂・講堂・五重塔など66棟の堂塔が立ち並んでいました。
長寿だった垂仁天皇の御世は、3世紀末葉~4世紀初葉・景行天皇と倭建命の世は4世紀中葉・成務天皇の御世は4世紀中ば・仲哀天皇と神功皇后の御世が460年頃からである。
3世紀中葉、景行天皇は、熊襲平定・筑紫行幸の時、伊予で湯神社を建立し、周防娑婆に行在所を設けられたのが、玉祖神社北方の宮城の森である。防府市の佐波神社も景行天皇の建立。福岡に上陸すると、大分県のオオキタ・来田見邑・日向の高屋宮・夷守・熊本県の熊県・葦北・八代県豊邑・長崎県高来県と平定。福岡県・白鳥神社が筑紫征討の古戦場。久留米市の高良大社が仮宮。逆周りの可能性も。筑紫の御在所に6年滞在され、長崎県松浦郡に入り淀姫神社の地に仮宮を建立しました。景行天皇が熊襲を征して島原を経て、熊本県名石神社の地に上陸しました。熊本県疋野神社の地に仮宮を作りました。天照大御神の加護への奉斎が玉名大神宮である。鹿児島では、止上神社の神により、隼人軍を征服した。宮崎県では、6年に渡って行宮を営んだ跡の黒貫寺(西都市)があり、景行天皇はこの地の美女を妃とし、その子は日向国造となり、代々続きました。即ち、西都原古墳群は、景行天皇と仁徳天皇あっての古墳群であります。景行天皇は、崇神天皇の御世に狗ナ国を平定した後に崇神天皇の子・八坂入彦命が統治そていた美濃にも視察にゆき、その娘二人が美女と聞き、姉を妃にして生まれた子が成務天皇であります。景行天皇の九州平定の続きですが、宮崎県で垂仁天皇の命日に生目神社で神霊祭を営みました。宮崎市の王楽寺の横には、景行天皇が高山陵を参拝した折に、火遠理命を祀った福智神社があります。大分では、阿南神社を建立。また、禰宜野の土蜘蛛を討とうとして祈願して勝利したので、籾山八幡宮の初め。久住町の宮こ野神社に行宮を構えました。禰宜野で土蜘蛛を征討しようと、イザナギ・イザナミを勧請したのが、緩木社である。3世紀中葉、小碓命は景行天皇の命令で熊(熊本県)と曾(鹿児島県)の王・熊曾建兄弟を倒して、熊曾建より倭建命の名を授かりました。この後、出雲建を平定して、東征が始まります。倭建命の東征に従った武将は、大伴武日命・吉備武彦・建稲種命である。建稲種命は、狗ナ国(尾張氏)の先祖で、幡頭神社・内内神社・尾張戸神社・針綱神社などに祀られています。
3世紀中葉、小津河上に住む河上タケルの暴虐がやまないので里人が景行天皇に訴え、播磨稲日大朗姫の子で16歳の小碓命は、その荒い気性から十六歳で九州に派遣され、吉備彦命や橘入来宿禰らと共に西征に出立、平戸周りで行きました。小津の入江に着いた小碓命は、新たに小江を作り、軍議を開いて神を祀ったのが、佐賀市の掘江神社です。北に熊・南に曾がありました。熊曾建を平定し、倭建命の名をいただく。筑後川・遠賀川を下って凱旋するときに田川市の白鳥神社や能方市の鳥野神社を創建ぢました。霧島市隼人町には、熊曾建が住んでいた熊曾の穴が残っています。この時、先祖・ニギハヤ日、父を伊香色雄命とする祖父の代の人物である武牟口命は、吉備彦命や橘入来宿禰を伴って小碓命に従い、播磨国の人より稲葉の夷住山に朝廷に従わない賊がいると聞いた倭建命は武牟口命を派遣、荒海の里人の都都良痲が槻弓八枝を奉って服属しました。、出雲国の賊・荒海を平定したのは出雲建平定のことである。島根県の多加牟久神社である。出雲建も平定して奈良のもどりましたが、早速30歳の時、再び東方十二カ国の蛮族征伐の命令が出て、伊勢神宮で垂仁天皇皇女・倭姫命から天ムラクモノ剣と火打ち石を託されました。尾張国(狗ナ国)で、造の娘・ミヤズ媛に会いました。知立神社は、倭建命が皇祖の神々を祀って戦勝祈願し、帰途、神恩に感謝して創建した神社で、1650年の歴史を誇ります。岡崎市の矢作神社も倭建命がスサノオを祀った神社です。焼津で火攻めに遭い、向かい火の消化法で切り抜けました。焼津神社は、409年の仁徳天皇即位の年の創建です。清水市で、豊由気神社を祀る。日本平で周囲を見渡し、弟橘媛命とは神奈川県で会いました。弟橘媛命は、東国に勢力を持つ穂積氏忍山の娘で、倭建命とロミオとジュリエットのような深い絆で結ばれて、稚武彦王を生んでいる。シェイクスピアと徳川家康が他界したのは、同じ1616年である。神奈川では、天磐楯を東国鎮護のため鎮め、神武天皇を祀ったのが石楯尾神社。流れ着いた弟橘媛の櫛を埋めたのが、神奈川県中郡の吾妻神社。弟橘媛の袖が流れ着いたのが袖ヶ浦。海を越え、鹿野山の首長・阿久留を討伐するに際し、岩坂山にスサノオを祭祀したのが富津市の八雲神社です。荒神谷遺跡の祭祀も同じやり方です。成田市で、根元に七つの玉を埋めたのが、麻賀多神社。建御雷神が東日本の王だった1世紀から9世紀初葉の坂上田村麻呂の御世まで東北の蝦夷平定の前線基地だった鹿島神宮から、行方郡当麻の里で
当地の賊を平定したあと通った道が悪路でたぎたぎしかったのでこの地名をつけ、行方郡相鹿・大生の郷は、炊事舎を作り、大炊から大生の地名が生まれ、信太郡乗浜は、海岸に干してある海苔を見て名ずけました。乗浜の東には完全な島だった(明治まで)浮島村があり、塩を焼いて生業としていました。浮島村には、九つの神社があり、神々を祀るために日々の言動を慎んでいました。コースは、逆に成田・浮島行方・鹿島かもしれません。そこから、倭建命は千代田町のしつ`くの田井に寄って水飲み容器を落し、岩間の羽梨山神社に立ち寄り、水戸では‘よし‘と田圃だけだったため吉田と名ずけたため、倭建命を祀る吉田神社が建立されました。さらに、久慈郡の役所の南方に鯨の形をした小さな丘があったので久慈と名ずけました。倭建命と弟橘媛が多北上して珂郡の飽田村を訪れたとき、媛は海で漁をして、倭建は陸で狩をして数を競いましたが、狩ではまったく獲物がとれおなかったので、海の獲物は食べ飽きるほど豊かだったとおっしゃったので飽田村と名ずけたのである。北茨城市の天妃山の存在からも、弟橘姫は生きていた可能性が高い。このあと、八溝山の賊と戦い、棚倉町の都都古別神社の神の加護により勝利。決着せず、宮城の竹水門から宮城県桃生の日高見神社から一関市まで平定し、山形市の天満神社の地に陣を構え、天神地神を祀って勝利を祈願。岩間の羽梨山神社に寄って、茨城の新治郡を通過、岩瀬町で伊勢と9鹿島の神に感謝して祀ったのが磯部稲村神社で、磯部桜川公園には、ここが発祥の桜が9種もあり、紀貫之の和歌や世阿弥の能になった西の吉野・東の桜川と並び称される日本を代表する桜の名所です。ここから、大和村で大国玉神社を建立して加波山に登拝し、筑波山の男体山の連歌岳に登拝し、つくば市作谷に寄って鍛冶をして矢を作ったことから作谷の地名になった。そのため、鍛冶山という名字が多い。作谷の駒不動は、倭建軍の親馬と子馬のヒズメの跡を残した小川の石橋を御神体として祀ったもの。このあと、宝キョウ山を見て三輪山を思い出し、大型小学校の山を見て天香久山を思い出した倭建命は、頂上に磐クラがある大型小学校の山に登ったとき、泉を湧出させました。ここから、酒折宮に向かい、途中にある浅草の酉の市で有名な鷲神社は、倭建が凱旋のとき、社前の松に熊手を掛けて奉斎した11月酉の日が、例祭となりました。そして、目黒の大鳥神社に寄り、酒折宮に着き、連歌を創造して、甲斐国造を定めました。甲府市では、金桜神社を奉斎。那賀津神社で武運を祈願。ここは、火打ち嚢が御神体で、俳句の原点である連歌発祥之地であります。ここから、富士山を遥拝しました。さらに、ここで吉備武彦と大伴武日連を派遣して、建御雷大神に出雲から追われて母が住んでいる古志から諏訪に逃げて、諏訪に根ずいていた縄文文化の御柱祭を取り入れて諏訪国の国王となった建御名方命を東国開拓・国家鎮護の神・地方の総守護神として創始したのが山梨県の諏訪八幡神社です。北杜市で山高神代桜を植えて、さらに、秩父を目指して甲斐を北上し、埼玉県の金讃神社を奉斎し、城峰神社で矢を奉斎し、秩父に八日で辿り着きました。秩父では、宝登山神社や三峰神社を創建。ここから、上毛野国に向かい、安産子育ての守護神として子持神社を創始。倭建命は、子持山山頂から指揮をとり、土着民を平定、干拓事業で入植に成功。吾妻郡を通り、草津の湯を発見し、嬬恋村を通り、碓氷峠で妻を嘆きました。武尊山の名が群馬県の命の足跡を伝えています。さらに、軽井沢で熊野皇大神社を創始。倭建命は、大彦平定の後、従わなかった古志国に吉備武彦を派遣しました。この別部隊は、更級の地から久米路橋を渡り、越道を越え、竹生に着き、休養して大洞峠を越し、鬼無里から戸隠山麓を通り、裏見滝を経て越後に入った。即ち、上田市付近で、吉備武彦を越中に派遣しました。新潟県の多多神社は、倭建命東征の折、吉備武彦に随従した多臣襲木命が当地の首長の娘を娶り、当地に留まって祖神を奉斎したのが始まりです。さらに、長野県下伊那郡の難所・神坂峠で腰掛石に座り休みました。帰途も尾張に寄って、春日井市の内々神社の地で、東征の副将軍・建稲種命が駿河の海で水死したことを聞いて、「うつつかな」と嘆き悲しみ、命を祀りました。ミヤズ媛と結婚して、草薙剣をミヤズ媛に託しました。氷上姉子神社は、ミヤズ媛を祀っています。この後、伊吹山で巨大な雹が倭建命を直撃して致命傷を受け、当芸野で疲れきって足がたぎたぎしくなって、米原市の玉倉部の清水(周辺では石器や弥生土器が出土しており、以前から人が住んでいたことが分かっています。)を飲んで少し回復しましたが、桜井白鳥神社・上方白鳥神社を通り、疲れて杖を衝きながら四日市市の杖衝坂を登りきって、血塚社の地で足の手当てをしましたが、能ぼ野で薨去しました。ここに、三重県北部最大の前方後円墳である能ぼ野大塚古墳が作られました。仲哀天皇は、当初香椎宮に埋葬されましたが、後に日本三位の規模を誇る上石津ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵・365メーター)が築造されたのです。鈴鹿市の加佐登神社は、倭建命のかさと杖を御神体とします。344年の景行天皇の御世、倭国が使者を遣わして新羅に婚を請いました。345年、景行天皇は移書して新羅と絶交しました。346年の景行天皇の御世、倭国が新羅を襲いました。景行天皇は、晩年倭建命を懐かんで足跡を辿りました。川崎市の稲毛神社は、賊難を避けられた場所。海を渡り、富津市で宮殿を建立した跡が八雲神社。富津市には、千葉県最大の前方後円墳(144メーター)で、仁徳天皇陵と同時代の須恵国造の墳墓である内裏塚古墳があります。同時期、茨城県の霞ヶ浦のほとりの高浜で‘東の大仙陵古墳‘である舟塚山古墳が築造されました。市原市では、嶋穴神社・姉埼神社を建立。この後、海上郡(銚子市)を経由し霞ヶ浦のほとりの茨城県稲敷市浮島を行宮・帳の宮(仮の宮)と定めました。渋谷向山古墳(310メーター)が景行天皇稜ですが、景行天皇・倭建命・建内宿禰の日本中の神社などの事実が示すように、4世紀前半の景行天皇の御世に日本の統一が飛躍的に進みました。証拠は、新潟県胎内市の城の山古墳かの武具や装身具などの構成が畿内の古墳と類似しており、ヤマト王権から送られた同盟の証である鏡も出土した会津より古い4世紀前半に築造された前方後円墳の可能性があるからである。4世紀半ばの成務天皇は、ヤマト王権の組織ずくりと地方の支配体制に取り組まれました。成務天皇と同じ日に生まれた建内宿禰を大臣に任命しました。地方には、国郡・県邑を導入し、造長・県主・稲置を定めました。茨城県の多珂郡は、成務天皇の時代に多珂国造として任命された建御狭日命が巡幸したところ、山が険しく高かったことから郡の名を多珂としました。倭建命は、伊吹山の後、玉倉部の清水で回復され、桜井白鳥神社の地を通り、上方白鳥神社の地を通り、杖衝坂を通ってのぼので死去しました。のぼの岩山古墳が倭建命の墳墓で、後に仲津山古墳(2)が倭建命の白鳥陵として築造されました。成務天皇の御世、天津彦命の子・建許ロ命が石城国造として派遣されました。宝来山古墳(227メーター)が景行天皇皇后八坂入媛命陵。五社神古墳(276メーター)は、成務天皇陵である。佐紀石塚山古墳が、時期的にも位置的にも成務天皇皇后陵と思われます。364年、任那日本府の倭人の守護と鉄の確保のため、神功皇后は大阪湾から三韓へむけて出発し、明石市の御厨神社の地で兵糧や物資を調達しました。さらに、神功皇后は1世紀に大国主命の支配下にあった兵庫県姫路市の麻生山で大国主命に祈願され、港神社で戦勝祈願されました。さらに、香川県丸亀市の八幡神社の地に駐留しました。吉備氏の祖・カモワケは、神功皇后の命令を受け、熊襲征討に功績がありました。あらに、山口県の高泊神社の地で戦備を整えられました。さらに、北九州市八幡西区で熊野神を祀り、タカ見神社を建立して戦勝祈願しました。さらに、天神地祇を祀って加護を祈願したのが伊万里市の神原八幡宮である。唐津市の鏡神社の地でも戦勝祈願の祭祀をしました。そして、福岡市の大己貴神社で最後の祈願をして、兵が集まりました。宮地嶽神社で最後の祈願をして、機が熟して新羅へ向けて宗像郡宮司から出発したのである。復路は、ヤマタイ国航路と同じ対馬・壱岐経由で戻り、壱岐の聖母神社を建立しました。そして、福岡県志摩町の小金丸にぎの浜に船を着け、熊野三神と住吉三神を祀り、六所神社を建立し、博多湾の姪浜に上陸しました。さらに、香椎宮に寄り、宇美八幡宮の地で応神天皇をお生みになられた後、筑穂町大分で筑紫の政事を定めてから兵と解きました。そして、神功皇后が筑前で産後の養生をしていたところ、夢枕に‘西の方三日行程のところに武雄の霊泉があります。これにゆあみされると回復が早いでしょう‘とお告げがあり、土蜘蛛八十女の残党を征伐しながら武雄にいったことのある建内宿禰が先導しました。建内宿禰は、武雄が父を祀るにふさわしい霊地と思っていたので、御船山の頂上に武雄心命を祀りました。父の名から、この地を武雄と名ずけられたのです。近くには、武内神社や武内町もあります。佐賀県の嬉野温泉や武雄温泉で産後の養生をされました。そして、近畿への帰途、伊予松前の海で神があり、玉入八幡大神社を祭りました。香川県の熊手八幡宮や岡山県の大浦神社も祭りました。武庫水門に至ると、神戸市の生田神社・長田神社や西宮市の広田神社を建立しました。さらに、大阪で神託があり、イザナギが日向で禊をした後の三人の子を祀って、住吉大社を建立しました。住吉大社は、1650年の歴史を誇ります。生田神社は、成務天皇の時代に上海上国造(千葉県海上郡)を賜った忍立毛比命の子・海上五十狭茅に祭らせました。銚子市の猿田神社は、垂仁天皇25年の創建であり、生田神社の摂社となりました。建内宿禰の墳墓は、時期と規模から太田茶臼山古墳です。紀の国で生まれた武内宿禰は、東の蝦夷を平定後、因幡国の宇部で他界。宇部神社が、建内宿禰の神霊を祀っています。現代女性の平均寿命である89歳前後で、古代としては卑弥呼と共に驚異的な長寿でした。369年には、高句麗が百済に攻め入りましたが失敗し、371年百済が・肖古王が高句麗に攻め入り、高句麗・故国原王を滅ぼしました。369年、5月16日正午七支刀完成、371年神功皇后(当時51歳)に献上されました。372年、百済は晋に朝貢しました。神功皇后陵は、時期から市庭古墳(250メーター)である。高句麗好太王碑の391年(応神天皇26歳)~405年(応神天皇40歳)にかけての出来事は、応神天皇の御世の出来事である。応神天皇の御世、国内は戦乱もなく穏やかだった。日向の西都原古墳郡最大の墳墓の主・首長の娘に美しい髪長比売がいると聞いた応神天皇は、大雀に難波の湊に迎えにゆかせるが、大雀は娘に一目ぼれ、慈愛に満ちた応神天皇は、快く比売を譲りました。西都原古墳群最大の男狭穂塚(176メーター)は、築造時期的に髪長比売の父(首長)のものである。女狭穂塚(176メーター)は、この首長の妻のものである。また、新羅から来た人々は、武内宿禰に率いられて奈良に灌漑用の百済池を作りました。朝鮮半島の最新技術が伝えられ、国力が発展しました。391年、神功皇后か応神天皇の命令を受けた葛城ソツ彦率いる倭軍が、百済・任那・新羅を破り、臣民としました。しばらく平穏な時代が続きましたが、396年、広開土王が水軍を率いて、百済を成敗しました。391年以降、日本・百済同盟と高句麗・新羅同盟が対立。百済からの渡来人が河内・和泉の干拓事業や鉄器・須恵器の生産に従事した。応神天皇が、兵庫県50カ所以上の干拓事業に成功したことが、播磨国風土記に記されています。さらに、漢字が正式に伝来し、百済の王仁博士が論語をもたらし、次の仁徳天皇が世界四大聖人・孔子の教えを実践されました。さらに、新羅の王子・天日槍が、朝鮮半島から倭国出身の妻を追ってきましたが、難波で追い返され、但馬の王となって妻を迎えました。そして、出石まで支配しました。出石の民は、天日槍の徳を敬慕し、出石神社を建立しました。399年、百済は誓いを破り、再び倭と通じる。新羅は、{倭人が国境に満ちており、城や堀を破壊し}と訴え、400年、高句麗広開土王は歩兵・騎兵5万を派遣して新羅を救出させました。男居城から新羅城に至ると倭人が満ちていて、高句麗の兵が着くと、倭人が退いてゆきました。404年、朝鮮半島に進出した倭人を広開土王が退かせました。この後、応神天皇が崩御され、日本最大の後円部と体積を誇る誉田御廟山古墳が築かれました。日本三位の規模を誇る上石津ミサンザイ古墳は、時期からも香椎宮の後に築造された仲哀天皇陵以外ありえません。誉田御廟山古墳は、応神天皇陵である。墓山古墳は、時期から応神天皇皇后仲津姫陵である。茨城県では弥生から続くヤマト王権の蝦夷平定の最前基地で、天津彦根命の孫である筑紫刀禰が初代国造として派遣されました。筑波山と紫峰で北九州の筑紫です。共通点は、壁画です。その子が筑波使主に任命されました。墳墓は金掘塚古墳と思われます。吉備氏の兄媛が応神天皇の妃になりました。吉備氏の黒媛が仁徳天皇の妃になりました。造山古墳と作山古墳はこれらの妃の父の墳墓である。大仙稜古墳が仁徳天皇稜、同時期に同型(深いつながりがある同盟)の茨城国造の祖・筑紫刀禰の墓である東日本2位の規模を誇る舟塚山古墳が石岡市に築造され、後継者の愛宕山古墳も近くにあります。この後、上毛野国の王の墳墓である東日本最大の群馬県太田市の太田天神山古墳が築造されました。茨城県は、弥生時代から坂上田村麻呂まで蝦夷平定の最前基地でした。茨城県は、常世と言われるほど肥沃で、縄文から奈良時代まで日本有数の人口を誇りました。奈良時代540万人のうち、22万人が石岡市に国府・国分寺・国分尼寺が置かれた常陸国です。ヒシアゲ古墳が仁徳天皇皇后磐之媛陵。宇和奈辺古墳は、仁徳天皇の妃・八田若朗女の墳墓で、265メーターの規模で仁徳天皇稜と同じ形状で後方が長い。小奈辺古墳は、皇室の女性か和邇氏の首長の墳墓である。吉備の造山古墳は、仁徳天皇の妃・黒日売の父・吉備国の大首長のもので、築造当初は日本最大(365メーター)である。作山古墳(286メーター)は、吉備の後継首長のものか黒日売の墳墓である。建内宿禰の墳墓は、宝来山古墳と寸分違わない227メーターの大阪府の太田茶臼山古墳(227メーター)である。葛城氏と蘇我氏の先祖・建内宿禰は、久留米市の高良大社に祀られています。5世紀、敦煌で仏教最高の経典とされる法華経が書写されました。413年、仁徳天皇(賛)が晋の安帝に朝貢。421年、仁徳天皇(讃)が朝貢。仁徳天皇の御世の5世紀前半に日本三位の規模を誇る仲哀天皇陵の上石津ミサンザイ古墳(360メーター)が完成しました。大仙陵古墳は、100パーセント仁徳天皇陵である。履中天皇は、蘇我満智や平群木菟などの重臣に政事をまかせ、宋のミ帝から称号を賜りました。425年、仁徳天皇が司馬曹達を遣わし、文帝に貢物を献上しました。この後、仁徳天皇崩御。履中天皇即位。履中天皇は、病気のため、64歳で崩御。履中天皇の御世、古墳の大型化が進み、面積でクフ王や始皇帝を上回る世界最大の仁徳天皇陵(486メーターの大仙陵古墳)が築造されました。履中天皇陵は、土師二サンザイ古墳(300メーター以上)。土師二サンザイ古墳は、反正天皇陵の可能性も高い。雄略天皇陵である岡ミサンザイ古墳から、後円部の頭付近で40メートルの橋の跡が見つかり、埋葬のためと思われる。438年、反正天皇(珍)が、宋から倭国王の称号をもらいました。反正天皇の時代は、五穀豊穣で比較的豊かでした。60歳で崩御。反正天皇陵は、田出井山古墳である。443年(允恭天皇即位)、451年に允恭天皇(済)が宋から倭国王の称号をもらいました。前の山古墳が允恭天皇稜。462年、安康天皇(興)が即位し、宋から倭国王の称号をもらいました。雄略天皇(武)の御世に九州から東日本まで完全にヤマト王権の支配下に入った証拠が、稲荷山古墳の鉄剣に刻まれたワカタケルが雄略天皇の諡号であり、鉄剣が刻まれ古墳が築かれたのが471年。最初に、埼玉を平定した上祖は大彦命と記されています。同時代の熊本の江田船山古墳の鉄刀もワカタケル(雄略天皇)の記述です。雄略天皇は、478年に順帝から倭国王の称号をもらいました。479年、南斉の高帝が王朝樹立折祖デイ自ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉して安寧に暇あらず。東は、毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて朝鮮半島を平らぐること九十五国。宋の順帝は、雄略天皇を鎮東大将軍としました。雄略天皇の時代の上毛野国は、東日本最大の太田天神山古墳や保土田八幡山古墳群や埼玉古墳群であります。岡ミサンザイが雄略天皇陵。継体天皇陵は、今城塚古墳で、皇后で欽明天皇の母・手白香皇女陵は、西山塚古墳である。二朝並立の天皇稜である河内大塚古墳が安閑天皇稜(335メーター)・明日香村最大の梅山古墳(170メートル・前方後円墳)が宣化天皇稜・奈良県最大の五条野丸山古墳(320メーター)が欽明天皇稜。藤ノ木古墳が、蘇我善徳系の皇族(母か)の墳墓。
高句麗広太王碑文の391年~404年にかけての全ての記述は応神天皇の命令による葛木襲津彦の記述である。
高句麗の慧慈や百済の慧そうと共に法興寺を守った蘇我善徳は、一に十人の訴を聞きたまひて、失ちたまはずして能く弁へたまふ。飛鳥時代の明日香村は、国際都市で証拠にギリシャの少女のアルカイックスマイルが法隆寺本尊や蘇我馬子の長男・蘇我善徳の生き写しである夢殿救世観音に見られることとエンタシスの柱がパルテノン神殿の影響であることから、ギリシャ人がシルクロードを通っ
2016/11/4
今日は、栃木市の室の八嶋にいってきました。ここは、1750年前に天皇の皇子によって奈良から勧請されました大神神社の敷地にあり、松尾芭蕉も奥の細道の折、立ち寄った東国屈指の歌枕です。炎の中出産した木花佐久耶媛の由縁もあってか、本当に煙が立ち上ってまいりました。ちかくには、下野風土記の丘があり、国分寺や国分尼寺の跡もあり栃木県のいにしえに思いを馳せると、にぎやかな往路が偲ばれました。皆様も、訪れてみてください。
2016年6月9日
今日は、二年ぶりに海に行きました。大洗サンビーチは、防潮堤の工事していました。浪打際に子供たちがたくさん遊んでいました。改めて海の大きさと空の広さを感じました。
2016/02/26
今日は、久々に霞ヶ浦総合公園に行って参りました。遠くに白鷺が群れをなして舞っていてとてもきれいでした。風車もすごく迫力があってよかったです。
2010/4/13
慧慈と百済僧・慧聡を師に迎えた蘇我善徳は、仏教を国作りの柱に据えることに心を注ぎました。蘇我善徳をサポートしたのが、秦河勝である。広隆寺は、二人の結びつきを現しており、弥勒半カ像が物語っております。広隆寺は、聖徳太子(蘇我善徳)信仰・祭祀の寺院である。蘇我善徳が二歳の時、釈迦の仏舎利がこぼれ落ちました。善徳は、35歳で政治の第一線から退き、41歳に三経義ショを著しました。日本人は、日本の釈迦・聖徳太子(蘇我善徳)を通して仏教に帰依してゆきます。聖徳太子(蘇我善徳)は、さまざまな宗派から日本仏教の源流として敬われ、尊ばれてゆくのです。親鸞は、聖徳太子の夢のお告げにより、新しい仏教の思想に目覚めました。紀元前486年インドでの第一回仏典結集から1100年後に仏教興隆に尽力しました。鹿野山神野寺は、7世紀前葉に蘇我善徳が創建しました。紀元前543年に兎率天より地球に生誕なされ、35歳の時に人類史上最も高い境地、137憶万光年よりも遥かに大きく情愛深く幸福で安らかな永遠の慈悲に達せられ、紀元前463年に80歳で涅槃に入られ、天国の中央に永遠に存在しています。蘇我氏の先祖は、武内宿禰で、蘇我石川宿禰・満智・韓子・高麗4代は、ヤマト王権の倉の管理業務を担当しておりまり、5世紀後半の雄略天皇の御代には満智が倉の担当していました。釈迦入滅から900年後(釈迦涅槃より1000年後の末法に近ずきつつある時)の538年に、幸運にも日本に仏教が伝来しました。百済から欽明天皇に送られた現善光寺本尊一光三尊阿弥陀如来は、欽明天皇より託されて552年に蘇我稲目が祀った日本初の仏像で、後に本田善光によって川から引き上げられました。現在、日本列島の中央に位置する長野県に日本初の仏像があるのも不思議な縁ですね。蘇我氏が日本書紀に悪役に描かれているのは、藤原不比等が政略的に都合のいい様に歴史をねじ曲げたからであり、実際の蘇我氏は、日本史上最高峰の聖人である聖徳太子(蘇我善徳)を家系から輩出し、日本を仏教国にし、日本に律令制度を導入した立役者だったのである。蘇我稲目を模した飛鳥大仏と蘇我善徳を模した法隆寺金堂釈迦三尊像は、渡来人の司馬達等の孫で、新様式を生み出した飛鳥仏師の鞍作止利が彫りました。法隆寺金堂の広目天像は、紀元400年頃の応神朝に来日した阿知使主の子孫の東漢氏の子孫である新様式を生み出した飛鳥仏師・山口大口費の作で、法隆寺の百済観音像や650年に天皇の命により作られた千仏像の作者でもあります。奥の細道の舞台である栃木県黒羽の修験光明寺の行者堂は役小角ゆかりの地です。 夏山に 足駄を拝む 首途哉  芭蕉 出羽三山を開山した崇峻天皇の皇子・蜂子皇子は、593年(推古天皇元年)に北上し、庄内由良港に御上陸、ヤタガラスの導くままに羽黒山に登り、難行・苦行の末、羽黒大神を拝し、次いで月山・湯殿山をお開きになられました。皇子の修行が羽黒修験道に発展しました。蘇我善徳は、622年に49歳でこの世をさりました。諸臣・人民は深く悲しみ、泣き叫ぶ声が往来に満ち、師の恵慈は田道間守のように他界してしまいました。この後、蘇我善徳一族は滅ぼされてしまいます。651年、伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷・笠間稲荷創建。かすみがうら市の折越十日塚古墳は、7世紀前半の築造。世界三大微笑トップの中宮寺の菩薩半カ像は、蘇我善徳の母の写したものです。天智天皇は、白村江の戦いに敗れ、唐の脅威から仏教による全国的な統治をするために、自らが滅ぼした蘇我氏の最高峰の善徳の力にすがるしかなく、668年から法隆寺金堂の建立に着手し、668年か669年に完成しました。この時、法隆寺金堂に安置された六尺の釈迦は、横から鼻が高く、面長で、表情が柔らかく、口元に微笑みを湛えていて、蘇我善徳の生き写しと後背に書いてあります。同じく金堂の向かって左側に安置された現夢殿の六尺の救世観音菩薩も、蘇我善徳の御影と記録されています。同じく金堂の向かって右側に玉虫厨子が安置されました。蘇我善徳が建立した若草伽藍は、670年に焼かれたのか火災で焼失しました。若草伽藍焼失後に、五重塔やエンタシスを取り入れた回廊が作られました。蘇我善徳の母のものか親族のものである藤の木古墳からは、日本が大国主命の時代だった1世紀のアフガニスタンのティリア・テペ遺跡(1978年発見)の王権のシンボルのものと同じ冠が出土し、ギリシャ・中国・インドの文化が融合したシルクロードのティリア・テペの使者が献上品として持ち込んだものか、ここの文化技術者が日本の住んで作ったのである。正に奈良は国際都市で、鼻高で目の大きい石造は中東人きあギリシャ人であり、エンタシスはギリシャ~アフガニスタン~日本とシルクロードで伝わったのである。聖徳太子と夢で会った親鸞は、笠間市の西年寺で教行信証を完成させました。また、紀元前2世紀のアイハスムには、ギリシャ神殿や宮殿や円形劇場の跡があり、弥生時代初期の紀元前4世紀のアレクサンドロス大王が大遠征の折もたらしたものである。2世紀以降のアフガニスタンでは、ギリシャ彫刻の影響を受けて花ひらいた仏教美術が誕生します。紀元1(大国主)~3世紀(卑弥呼)の時代のクシャーナ朝のベグラム遺跡(シルクロード)は、ローマのガラス細工やエジプトの青銅製品(最終的に日本で銅鐸となった)やインドの象牙彫刻などが出土し、アレクサンドロス大王の遠征の際にもたらされたものである。しかし、地球上のどれほどの素晴らしい文化財が戦争の犠牲になったか。2009年に他界されたの平山郁夫氏も残念でしょう。アフガニスタンは、みかんと炬燵の国で、バーミヤンのハザラ人は、日本人そっくりで飛鳥時代に日本人が移り住んだのです。バーミヤンの東大仏の頭上には、太陽神が描かれました。2007年から発掘が開始された3世紀~蘇我善徳の7世紀まで栄えたアフガニスタンの歴史を塗り替えた仏教遺跡であるメスアイナク遺跡からは8カ所の寺院と仏像・仏頭・古文書・銅製品が出土しました。アフガニスタンの仏像は、彫りが深いギリシャ的な顔立ちで、体格もガッシリしており、ギリシャの彫刻家が彫ったものです。ペルシャ(イラン)の仏像の肩の炎があるのは、火を崇めるゾロアスター教からきており、日本の密教の護摩修行にも繋がっています。アフガニスタン~敦煌~キジル千仏洞~日本と仏教が伝わりました。奈良時代には、仏教の僧が葡萄を薬として伝えました。甲州は、カスピ海沿岸の葡萄がシルクロードを経由して中国の野生の葡萄と交配して奈良時代に誕生したものです。アフガニスタンを描いた平山郁夫のシルクロード美術館が北杜市にあるのは宿命です。卑弥呼の男の弟子である崇神天皇陵(3世紀末の西殿塚古墳)からもティリア・テペの金冠と卑弥呼が魏から賜った銅鏡が出土し、出土品を同じくする卑弥呼の箸墓の後継墳であることから、崇神大王陵であることが確定する。善光寺本尊は、蘇我稲目1450年前の仏像です。天武天皇は、唐に対抗して大王を天の中心を意味する天皇に号を改め、人口100万の長安を目指しました。富本銭は、日本最古の貨幣です。持統天皇は、国の名を倭国から日本に改め、日本最大の都である藤原京を起点に全国に国道を整備しました。薬師寺の聖観音は十尺・金堂は100尺・五重塔は100尺に作られました天武・持統天皇陵は藤原京の真南です。光明皇后は、蘇我善徳を尊敬し、自らも悲田院・施薬院を作って、病人・貧民を救済した光明皇后は東大寺・国分寺の建立のも尽力しました。686年、川原寺の道明が天武天皇の病気平癒を祈願して銅板法華説相図を初瀬山の西の岡に安置したのが長谷寺の始まりで、1250年前に日本最古の十一面観音菩薩像が完成しました。701年、宮城県の大崎と並んで東日本を代表する八幡宮である下妻市の大宝八幡宮(宇佐・箱崎に次ぐ日本三大八幡宮にして関東最古の八幡宮)が東国平定の鎮護を祈願して藤原時忠により宇佐神宮を勧請創建しました。歴代の大宝城主・下妻城主の信仰厚かった。日本六大八幡宮は、宇佐・箱崎・石清水・鶴岡・大宝・大崎である。702年、役小角が、騰波の江の古沢黒島に出た青火を鎮め、舟守の社として信仰を集めました。大宝沼も西にありました。高橋虫麻呂が、坂東無双の名嶽・筑波山に登って詠んだ騰波の淡海は、大宝八幡宮から騰波の江~小貝川~明野町~協和町久地良の協和の杜公園(海と陸の境目)にかけて広がっており、久地良神社・新治廃寺・新治郡がからが陸でした。筑波山を真裏より眺める新治郡がには、12ヘクタールに51棟の建造物がありました。万葉歌人で石岡市の常陸国国府に派遣された藤原宇合の側近として来た高橋虫麻呂は、

筑波嶺に 登りてみれば 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波たちぬ

と詠みました。下妻は、新体詩に魅せられ河井酔メイ・伊良子清白と共に明治詩壇に活躍した郷土的哀調ゆえ筑波嶺詩人と呼ばれた横瀬夜雨を生みました。夕月・花守・二十八宿が有名で、生家は、安政の建築です。
日本四大神社は、伊勢・鹿島・香取・出雲である。767年、勝道上人が日光山輪王寺を開山。768年、藤原氏によって春日大社創建。796年、最澄の弟子である最仙が土浦市の堂平に比叡山の根本中堂を模して東城寺を建立しました。堂塔七十八・僧数百人に及ぶ常陸国最大の寺院でした。大同年間に、常陸国に入られた空海は、駒に乗って牛久沼のほとりの泊崎に辿り着き、座護摩を焚いた地に泊崎大師堂が建立され、空海の七不思議が実在しています。近くの板橋不動尊・願成寺は、1200年前に空海が創建した真言宗豊山派の東日本を代表する別格本山で、空海が彫った日本を代表する不動明王が安置されています。806年、守谷市に八坂神社が創建。806年、茨城県藤原音麿により八千代町に鹿嶋神社が創建されました。京都で小児の成長安全を祈願して空海が彫った秘仏が安置されているつくば市の慶龍寺が創建。大同年間に徳一によって、土浦市の竜ヶ峰に清滝寺が建立されました。809年、常総市に東日本を代表する一言主神社が創建。825年、日本最高の美男子・在原業平と世界三大美女・小野小町誕生。貞観年間、つくば市の一ノ矢八坂神社が、ヤタガラスに導かれて創建。つくば市最古の寺院である北斗寺は、勅命によって821年に最仙上人が妙見菩薩を本尊として堂宇を建立したのが始まりで、天台宗から長谷寺を総本山とする真言宗豊山派となりました。本尊の妙見菩薩は、北斗七星の神格化です。筑波山大御堂は、後に磐梯山慧日寺を開山した徳一上人が782年に開基し、後に空海が密教道場を開きました。徳一は、会津磐梯山を・慧日寺を開山しました。つくば市には、東日本を代表する八坂神社で、ヤタガラスに導かれて貞観年間創建の一の矢八坂神社があります。一の矢の天王様と親しまれています。京都を旅立った空海は、滋賀県甲賀市で塩野温泉を湧かし、愛知県で赤引温泉を発見し、伊豆で修善寺温泉を独鈷で湧かし、神奈川県秦野市で地面を錫杖で突いて臼に弘法の清水を湧かし、房総半島で熊野の清水を湧かして里人を救いました。さらに、つくば市の柏崎大師堂は、9世紀初めに創建され、空海が柏崎に千座護摩を治めました。つくばみらい市の板橋不動尊は、日本を代表する不動明王で、空海実在時の1200年の歴史を誇る東日本を代表する真言宗の道場です。笠間市には、空海が湿地の水を足で踏み止めして出した弘法大師踏み止めの水があり、高萩市の大高寺には、弘法霊水があります。ここから、空海はさらに北上して岩手県奥州市の杉之堂大清水に寄り、山形県鶴岡市で空海が夢を見てあつみ温泉を発見しました。帰途、新潟県阿賀野市で五頭山開山の折、独鈷で地面を突いて出湯温泉を湧出させました。十日町市では、杖で地面を突いて瀬戸口温泉を湧かせました。さらに、群馬県みなかみ町では、川に流れ込んでいる法師温泉を発見し、杖を突いて川場温泉を湧かしました。さらに、山梨県では、空海が示唆した源泉が11カ所あり、多くの文人が訪れた湯村温泉があります。長野県には、空海が発見した鹿塩温泉があります。空海は、幼名を佐伯真魚といい、讃岐国の屏風ヶ浦に生まれました。佐伯氏は、先祖が倭健命の東征に従ったことを誇りにしていたため、空海も倭健命の東征ルートとほぼ同じコースを辿ったのです。 9世紀前半の茨城県南部の神社仏閣の相次ぐ建立は、坂上田村麻呂が日本を平定し、日本が完全に統一された直後に空海などが布教に来たのである。つくば市上郷の金村別雷神社は、関東三雷神の一つです。条里制で知られるつくば市神郡の普門寺は、末寺508カ寺を有していました。興福寺仏頭は、蘇我倉山田石川麻呂の母の生き写しである。法華寺の十一面観音菩薩立像と伎芸天立像と東大寺の不空ケン索観音菩薩は、光明皇后を写したものであります。歴史上、蘇我善徳に次ぐ聖人は、菅原道真と天草四郎時貞です。出雲国造家と同族の土師氏の末裔の菅原道真は、日本の危機を救うために様々な改革を押し進め、政治的に歴史を大きく動かした人物であります。三十三歳で文章博士に任ぜられ、四十二歳で国司として讃岐守に任ぜられ、妻や子を京都に残して旅立ちました。讃岐は干ばつや疫病で荒廃していたため、政治の実権を握っていた藤原氏に対して非をとがめる書状を送りました。藤原氏にたてつけば、どのような災いがあるかと恐れて誰も意見を述べようとしないとき、道真は堂々と自分の考えを述べ、政治のあり方を正そうとしたのです。すると、道真の善政のうわさを聞いて讃岐に人々が戻りました。道真の気骨ある振る舞いは国の乱れをうれいでいた宇多天皇の目に止まりました。四十六歳のとき任期を終えた道真は宇多天皇に召しだされ、そば近くに仕えるようにと命じられました。中央政界に躍り出た道真は、日本の政治を刷新すという気概に満ちていました。日本各地で税が徴収できず、国の財源が尽きていたのです。道真が天皇の秘書官長に任ぜられると、わずか3年で九つの要職をを歴任、前代未聞ともいえる出世を遂げ、宇多天皇の期待を一身に担って財政再建に乗り出しました。飢えと貧しさに苦しむ民衆を救うために次々と改革を実行しました。その根幹は、土地制度と税制の抜本的な見直しでした。行く手に立ちはだかったのが深刻な土地問題。唐から導入した古い時代遅れの土地制度を改め、日本の実情に合わせた政策を実施しようと、唐との関係を見直し、唐と決別するという日本外交の大転換を成し遂げたのです。しかし、改革によって既得権益を失う貴族たちは不満を募らせていました。土地を貴族の手から民衆の手に戻すことが前提になっていたからです。貴族たちの不満は、様々な嫌がらせとなってあらわれました。貴族たちは出仕してこなくなりました。陰謀の影が忍びよるなかで、道真は右大臣に任命されました。私塾の菅家廊下を経営、卒業生が官僚として大勢おりましたが、派閥を作りませんでしたので、貴族たちから付け入る隙があり、道真の後ろ盾だった宇多天皇が出家して法皇になると、翌年道真は根も葉もない濡れ衣を着せられて、使者の書状によって大宰府左遷を知りました。事態を知った宇多法皇は御所に駆けつけましたが、入れませんでした。道真は、‘あまりにも卑劣な陰謀だが、醜い権力闘争を巻き起こしては日本の改革が棚上げになってしまう、藤原氏といえども、もはや改革の道を後戻りすることは出来まい、既に未来への道筋はしっかりと引いてある、後は誰がその道を実行しても構わない、名など残らなくても日本の改革が成ればそれでよいのだ。私は、権力が欲しくて改革を志したのではないのだから。ここは黙って身を引こうと思いました。その後、藤原時平が道真が計画して用意した政策を実行、財政は息を吹き返し、改革の成功によって人々が余裕を取り戻し、やがて中国の歴史や文化を離れて、日本国独自の国風文化が花開きました。道真は、時代遅れの古い制度を改めて破産に瀕した国家財政を立て直しました。当時の日本の極めて深刻な財政危機を打開するために、非常に大胆な財政改革を志した骨のある政治家でした。道真は、大宰府天満宮に祀られておりますが、道真の墓は茨城県常総市の大生郷天満宮にあります道真は、文人・学者として尊敬を集め、他界後は、学問の神様として崇められてきました。(怨霊になどなっていません。)

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

常総市の大生郷天満宮は、929年に菅原道真の第三子の景行が道真の遺骨を祀ったのが始まりで、大宰府・北野と並ぶ日本三天神で御廟天神、東日本を代表する天満宮です。
899年、竹取物語完成。905年、古今和歌集完成。931年、豊田氏ゆかりのつくば市の関東三雷神の一つに数えられる金村別雷神社が創建されました。938年、空也念仏を勧める。985年、現世は魂の永遠の旅の一瞬と悟った恵信僧都(源信)が往生要集を完成。988年、西行・宗祇・芭蕉へとつながる数寄(旅人)の先達である能因法師誕生。1012年、紫式部・清少納言が作品を著す。1052年、能因法師他界。1053年、平等院鳳凰堂完成。1108年、今昔物語完成。1118年西行誕生。1212年、鴨長明が方丈記を執筆。1304年、ダンテに次ぐイタリアの大詩人ペトラルカが誕生し、ルネサンス運動を起こす。1265年、人類史上最高の恋愛詩である新生・神曲を完成させたダンテがフィレンツェで誕生し、ルネサンスの魁になりました。1331年、吉田兼好が徒然草を執筆。 福井県では、6100年前に魔除けに使われた櫛が発見され、縄文人の技術の高さを物語っております。高知県土佐清水市の唐人駄馬遺跡からは、縄文時代から弥生時代にかけての石器や土器が出土した世界規模のストーンサークルがあります。この巨石移動法を編み出した日本人こそ、イースター島に渡り、モアイを作ったのである。日本で稲作が始まったのは、岡山県の南溝手遺跡などで発見された3500年前の土器に入っていた栽培された稲である。水田ではない原始の米作りである。紀元前753年、ローマ帝国建国。四大聖人の孔子は、紀元前551年誕生。人類史上最も早く最も純粋で尊い境地に到達されたお釈迦様は、日本が縄文時代最晩期だった紀元前543年2月15日の誕生で、孔子と同時代を生きました。紀元前400年、ナ国(板付遺跡)で水田による米作り始まる。紀元前250年、青森県まで米作り達する。紀元前200年、唐古・カギ遺跡で高床式の大型建造物が築造される。葛城地方と並ぶヤマト王権の原点の一つである。紀元前1世紀~弥生時代後期まで瀬戸内海沿岸や関西で防御力の高い高地性集落が築かれました。奈良県の唐古・カギ遺跡(磯城県)では、青銅器工房跡が見つかっており、銅鐸を製造していたと思われます。松尾芭蕉と共に僕が最も尊敬する史聖・司馬遷の時代の後、日本の出雲国でイザナギとイザナミが生まれ、出雲国王として実在しました。出雲に、黄泉比良坂が実在。イザナミ宇の墳墓は、比婆山久米神社の境内にある古墳であります。宮崎市には、イザナギのみそぎ池が実在します。宮崎市の東霧島神社は、イザナギの剣が十握の剣である証拠である。比婆山が、いざなみの陵墓です。出雲にいざなみ御陵伝承地もあります。淡路島のイザナギ神宮の下にイザナギの陵墓が実在。南あわじ市で、紀元前200年に作られた銅鐸と舌が7個ずつ発見されて、銅鐸が祭のときに神聖な音を出す道具だったことが分かりました。銅鐸は、紀元前200年から卑弥呼共立の189年までの約400年もの間、弥生時代の祭器として使用されました。加茂岩倉遺跡の銅鐸と神庭荒神谷遺跡の銅剣は、1世紀に現実に起きた出来事である国譲りの際、大国主命が幽事を担当することになって実行した祭祀の跡です。1世紀、日本に100ヶ国前後の国が存在しました。1世紀に大国主命と共に西日本統一に尽力した少彦名神は、常陸国の大洗磯崎神社の鳥居付近から上陸して帰りました。
高天原とは、高千穂町のことで、ここに天岩戸と天安河があるのが証拠である。また、宮崎県の地名や名字に原の字が付くことが多いのも証拠の一つです。宮崎県でイザナギの子として生まれた天照大御神は、キリストと同時に誕生しました。イシコリドメは、高天原(高千穂町か日向国)の砂鉄からヤタノ鏡を、玉祖命はヤサカ二ノ勾玉を作りました。防府市の玉祖神社の地で玉祖命が誕生し、高千穂町の天照女王に仕えたと思われる。天照女王がスサノオの乱暴に嫌気がさして高千穂町の天岩戸の籠ってしまったとき、天之ウズ女命が踊りました。天之ウズ女の夫が後に神霊として倭姫命を伊勢に導いた猿田彦大神であります。猿田彦大神は、5世紀前葉の仁徳天皇の夢で一夜にして椿が咲き誇った由来を持つ鈴鹿市の椿大神社に祀られており、東日本ではつくばみらい市の1500年以上の歴史を誇る千勝神社が代表です。籠神社の奥宮には、豊受大神が住んでいました。1世紀、イザナギから高千穂町追い出されたスサノオは、海を渡って出雲の船通山に住みました。そして、タタラ製鉄集団の首領・八岐大蛇を平定したスサノオは鉄を手に入れてますます勢力を拡大してゆき、孫のオオナムジが日本初の統一王となるのです。1世紀、宮崎県高千穂町の高千穂554社の一つ・くしふる神社の地で生まれた天照のヒ孫・ににぎが三種神器を託されました。後に、先祖の地である高千穂神社を出立した神武天皇の孫・健磐龍命は、阿蘇に向かう途中に高千穂町の国見ヶ丘で国見をしました。この丘から見える阿蘇五岳は、お釈迦様が横たわっているように見えることから阿蘇の涅槃像と呼ばれています。健磐龍命は、阿蘇から熊本にかけてを平定して阿蘇神社に祀られております。神産巣日神と少彦名は、1世紀に中国雲南省に実在した女王と王子である。150年、大乗仏教誕生。146年~189年(特に178年~183年は激戦)、寒冷の大飢饉による倭国大乱の直後、卑弥呼共立され、連合国の女王となる。1世紀の高千穂の女王・天照と出雲国王スサノオの3人の娘のうち、多紀理ビメ命がスサノオの孫・オオナムジに嫁ぎました。かんざしは、古墳時代の魔除けでした。茨城県最大の古墳群は大小130基ある大生古墳群ですが、ここは倭建命が訪れた地であり、九州を平定した神武天皇の皇子の子孫の多氏が代々支配していた地域であり、神武天皇元年(1世紀後半)に鹿島神宮建立があり、多氏が鹿島の地を治めるよう派遣されたのです。多氏は、潮来市の大生神社を奉斎してきた一族でもある。さらに、北浦を挟んで対岸に鎮座する鹿島神宮を奉斎してきた一族でもある。香取神宮は、物部氏系の神で、1世紀に経津主神が平定した上野で勢力を振るい、貫前神社を祀りました。息栖神社には、日本三霊水・忍潮井があり、東国三社がトライアングルで結ばれているのは、蝦夷に対する結界だからだ。我々日本古代史家にとって尊い存在の太安万侶は、多氏の子孫である。
塩土老翁神は、1世紀前半に火遠理命を導いた後、海から宮城県の塩釜にいって製塩を伝え、塩釜神社に祀られました。火遠理が行ったワタツミ国の宮殿は、対馬のワタツミ神社か志賀島の沖津宮であります。スケールの大きさからも対馬の海神神社に豊玉姫が祀られていることからも対馬の方が可能性は高い。また、妹の玉依媛命は、姉が産んだ子を育て、子と結婚して4人の子を産み、4番目の子が神武天皇である。さらに、玉依媛命が鴨川上流から流れてきた丹塗りの矢を持ち帰ったら加茂別雷大神が産まれました。東日本を代表する下鴨神社は、つくば市上郷の金村別雷神社です。上賀茂・下加茂は母子関係です。高天彦神社は葛城氏の氏神であり、高皇産霊尊は弥生時代に実在した葛城地方の王であります。鴨都波神社は、崇神天皇の御世の創建ですが、一帯からは弥生時代の土器や農具がたくさん出土しており、鴨氏が住んでいた証拠です。ニギハヤ日は、出雲の大国主命の葦原中国明け渡しの後、高千穂町の曾祖母である天照の命により、天しるし瑞宝十種を携えて河内に上陸され、池上曽根遺跡の地で河内一帯を支配し、磐船神社の天の磐船を祀りました。そして、奈良をヤマトと名ずけました。天しるし瑞宝十種は、石上神宮に祀られています。摂社の出雲建雄神社では、天ムラクモノ剣の荒魂の出雲建雄神を祀っています。霧島市隼人町の鹿児島神宮は、神武天皇が高千穂宮と名ずけ、祖父の火遠理命と豊玉比売命を祀ったのが始まり。ここは、火遠理の廟であることから、隼人は火遠理の子孫である。神武天皇は、無事奈良に辿りつけるよう神々の加護を願って都農神社を祀りました。ニギハヤ日は、長スネ彦を側近にして、長スネ彦が紀元70年に河内に上陸したイワレ彦の兄弟・五瀬命を滅ぼしました。そして、河内に住んでいたニギハヤ日の子で高千穂町の天照女王の曾孫(ひまご)で熊野に住んでいた高倉下命に鹿島神宮から駆けつけた建御雷神が布都御魂剣を神武天皇に渡すよう授けました。そして、高倉下命は先代より受け継いだ鹿島の建御雷大王の神剣・布都御魂を熊野の豪族に破れそうになっていた神武天皇に献上し、イワレ彦は逆転勝利した。1世紀の神武天皇即位の3年前に天児屋根命の孫・天種子命が神津嶽で国土平定の祭祀をしたのが、枚岡神社の始まりで、1950年の歴史を誇ります。神武天皇元年太古暦元旦即位(紀元60年か70年か79年か90年)、鹿島神宮創建。西暦70年か79年から倭国大乱まで平穏な時代が続きました。葛城地方の王だった事代主命の娘を皇后に迎えました。神武天皇2年、道臣命を築坂邑に、大来目を畝傍山の西側に移住させました。椎根津彦を倭国造に弟を猛田邑の県主に、弟磯城を磯城(唐古・カギ遺跡)県主に任命。高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任命。ヤタガラスを幸運を呼ぶ鳥と賞賛。神武天皇4年、鳥見山に皇祖天神を祀る。さらに、香取神宮を建立。すべて、1世紀に現実にあった出来事です。神剣・布都御魂大神は、ニギハヤ日の子で石見国の王ウマシマチに与えられ、カシワラ宮にありましたが、崇神天皇の3世紀に子孫の物部氏が石上神宮で奉斎した。石上1750年の歴史を誇ります。神武即位後、高倉下命は古志国に渡り、製塩技術・農業・漁業を伝えました。妻の熟穂屋姫命の4月18日の命日の妻戸大神例祭には、13曲もの神楽が行われます。高倉下命は、弥彦神社に祀られています。107年、スイゼイ天皇朝貢。神武天皇の孫の建磐龍命は、高千穂町の国見ヶ丘から国見をして阿蘇から熊本~九州全土を平定しました。妃は、阿蘇都ヒメノ命です。多氏の始祖は神武天皇の子・神八井耳命で、日本最古の皇別氏族である。神社があることから、神武天皇より磯城県に派遣されたものと思われます。格調高い哀愁を帯びた名歌を数多く残した日本史上最高の歌聖・人麻呂は天理市のイチノ本で生まれた。ニギハヤ日の子孫・熊野穂積氏が最も熊野信仰と関わり深く、僕の知り合いにも三重県出身の穂積さんがいて、鼻血を止めて差しあげれました。高倉下命は、尾張氏(狗ナ国)の先祖である。忌部氏は、鹿島神宮の中臣氏と共に古代の祭祀を司ってきたが、803年に斎部と改め、松尾芭蕉の門弟にも斎部露通がいて、和歌や俳諧に抜群の才能を発揮しました。神武天皇は、大斎原で熊野本宮大社(須佐之男命)を祀って戦勝祈願し、大峰奥駈道から奈良に向かった。ニギハヤ日がイワレ彦に恭順したため、ウマシマジは播磨・丹波を経由して石見国に入って首長となり、終の棲家とし、物部神社となりました。さらに、三代天皇が、葛城地方を支配していた事代主の娘を皇后に迎えていることからは、出雲の強力な勢力が伺える。一言主神社に存在する紀元70年に神武天皇によって平定された土蜘蛛の塚は、葛城地方の王で、鴨都波神社(付近一帯が奈良県屈指の弥生遺跡)に祀られている事代主命が神武天皇に国を譲ったことを意味します。さらに、出雲国神賀詞に大国主の子を葛木の鴨の神名備に鎮座させたとあるのが高鴨神社。そして、神武天皇は葛木剣根を国造としました。その曾孫がクナ国(尾張氏)の祖・オキ津世襲で、その娘・世襲足媛が第五代孝昭天皇皇后となりました。2世紀の日本人は、スプーンやフォーク・コップを使って食事しました。さらに、2世紀~3世紀にかけて、鉄を中心とすう交易や、鉄の加工に携わる人々が各地に現れて多彩な世界へとなっていった。淡路島北部のの五斗長垣内遺跡は、大規模鉄器製造集落で、吉備の温羅や出石の天日矛なども鉄器を製造しました。宗教観には、中国思想が見られ、龍の観念があります。1世紀~2世紀の弥生土器には、龍が象られているものがありますし、卜骨もあります。卑弥呼も、桃を使った道教・神仙思想を取り入れています。和邇氏の先祖は孝昭天皇で、小野氏や柿本氏を輩出しました。さらに、神武天皇は明石海峡で神武軍を先導した海人の珍彦が奈良県平定の功により、大和国造とした。唐古・カギ遺跡も支配下に入れました。神武天皇の皇子・神八井耳命を祀る多神社が田原本町にあるのが証拠です。多神社は、崇神天皇の3世紀に春日神社と呼ばれ、三輪山と二上山を結ぶ太陽の道に建立されました。多氏は、茨城の鹿島の地を治め、九州を平定しました。神武天皇以降の天皇は、葛城の地を押さえることで瀬戸内海の交易ルートを確保した。建内宿禰系の葛城氏は外戚として活躍しました。その同族の蘇我氏は、渡来人と結んで皇室に匹敵する勢力を蓄えました。蘇我氏からは、キリスト教の天草四郎と並ぶ日本を代表する仏教の聖人・蘇我善徳が誕生し、後に‘聖徳太子‘と崇められました。107年に朝貢した日本初の名を持つ倭国王・帥升の可能性が最も高い第二代スイゼイ天皇が、葛城高丘宮としたことから、鴨族の強大な勢力が分かる。第五代孝安天皇が御所柿で有名な御所市のワキの上の池心に宮を、第六代孝安天皇の秋津島宮(傍に葛城襲津彦の宮山古墳「240メーター」がある)など4人の天皇が宮を置いていることからも、葛城地方(鴨族)が強力な勢力を誇っていたことが伺える。秋津島(葛城地方)は、シキ島(磯城地方の唐古・カギ遺跡)と共にやまとの枕詞である。即ち、奈良の勢力は、東西に分かれていて、神武天皇が中間の橿原に宮を置いた。第六代天皇まで磯城県主から皇妃を迎えました。出雲の勢力が葛城に合流したことにより、大王家と並ぶ力になり、葛城地方を拠点に奈良県や西日本全体を支配し、政治は葛城氏、神事は鴨族が担当しました。さらに、4世紀中葉~5世紀初葉に90才前後の古代人トップ3(卑弥呼・大吉備津彦命兄弟と並んで)の寿命を誇る武内宿禰の子が葛城襲津彦で、391年に応神天皇の命を受け朝鮮半島に出兵しました。高句麗の碑文は、襲津彦の出兵の記録であります。葛城襲津彦の娘・磐之媛は、仁徳天皇皇后となり、履中・反正・允恭の三代天皇を生みました。葛城襲津彦は、百済記にも記録が残されていて実在は確実。5世紀前半のヒビキ遺跡の建造物は、5世紀日本最大で、葛城襲津彦の邸宅であったことは時期的にも確実。しかし、この建造物は、5世紀後半の雄略天皇の攻撃で焼失し、葛城氏は滅亡しました。雄略天皇は、‘隠国の泊瀬の山は出で立ちの宜しき山‘と詠み、初瀬に宮を置きました。高天彦神社は、高皇産霊神を祀っている。一言主神社の大イチョウは、雄略天皇が植えたものです。東日本の一言主神社は、茨城県の常総市にあります。
釜山から50キロの対馬国の和多都美神社は、豊玉姫が住んでいたワタツミノ国の宮跡で、魏志倭人伝では西漕手から入港した。広形銅矛が出土している。対馬には、三根遺跡があります。3000戸もあった一支国の王都は、原の辻遺跡である。4000戸を擁する末蘆国は、宇木汲田遺跡や末ラ国王墓が発見された桜馬場遺跡や菜畑遺跡を擁する唐津市である。1000戸の伊都国は、卑弥呼のヤマト国連合に含まれ、帯方郡からの使者が常に留まる地で、平原遺跡・三雲南小路遺跡・井原鑓遺跡である。2000戸のナ国は、137基もの墳墓が出土したスグ岡本遺跡・板付遺跡・比恵・那珂遺跡群など春日市周辺から志賀島にかけてである。不弥国は、宗像大社~立屋敷遺跡にかけての地。または、立岩堀田遺跡や527軒の竪穴住居跡が発見されて吉野ヶ里遺跡を凌ぐ巨大集落だった平塚川添遺跡(朝倉市)や宇美町や立石遺跡も不弥国の可能性あり。50000戸の投馬国の中心は、出雲からムキ晩田遺跡にかけてで確定である。ヤマタイ国がヤマト国と呼ぶ証拠は、15世紀の明の時代から保存されている地図に、九州が北に、青森が南に南北に伸びている日本列島が描かれているからである。188年まで奈良県の王だった孝霊天皇は、葛城から磯城の勢力(畿内型銅鐸を作っていた唐古・鍵遺跡)へと同盟を切り替えた孝霊天皇は、黒田イオ戸宮(宝楽寺境内にあったイオ戸神社の地)に遷した。黒田の東には、鏡作郷があって、鏡作神社が五社あることから、孝霊天皇と安寧天皇の曾孫の孝霊天皇皇后・倭国香の間に生まれた皇女の卑弥呼が魏から銅鏡百枚(ほとんどが画文帯神獣鏡)を賜り、日本独自の三角縁神獣鏡を発明し、五箇所で550枚以上の鏡を製造した証拠です。八尾鏡作坐天照御魂神社は、3世紀に遡り、正に卑弥呼が日本各地の首長に配るために、ここで倭製三角縁神獣鏡を製造させた証拠です。さらに、弥生時代最大の環濠集落で70000万戸を誇るマキムクに近い田原本町伊与戸でも鏡が製造されました。ここが、イオ戸宮かもしれません。184年、後漢で農民反乱・黄巾の乱が起きたのも、倭国大乱と同じく7600年間で最大の寒冷期に入って大飢饉に襲われたからである。倭国大乱の頃、吉備国を中心とする双方中円墳が栄えていた。埴輪は、吉備の特殊壺と壺を載せる特殊器台が紀元である。前方後円墳の元となった双方中円墳の楯築墳丘墓からは、三十キロもの大量の水銀朱が発見され、台与の桜井茶臼山古墳にも水銀朱が塗られており、吉備の特殊器台・特殊壺が卑弥呼の箸墓と崇神天皇陵の西殿塚古墳から出土していることから、卑弥呼が吉備の影響を深く受けていたことが分かります。卑弥呼共立の翌年の190年、公孫氏自立。205年、公孫氏が楽浪郡(平壌)の南に帯方郡(北京)を置きました。208年、赤壁の戦い。220年、後漢滅亡、三国時代へ。234年、諸葛亮他界。マキムクでは、河内・東海(クナ国)・北陸・近江・吉備・山陰の土器が集まっていることから、江戸藩邸のようにクナ国(東海)など日本各地の首長の親族が集まり住んでいました。これほどの交易範囲や土器の数で他を圧倒していることから、ここ以外のヤマタイ国はありません。また、明の時代の地図では、九州が一番北に、青森が一番南に描かれており、魏志倭人伝の記述と一致します。天照大御神を高千穂の天の岩戸から出すときに使われた鶏の埴輪もマキムクから出土しています。マキムク石塚古墳からは、木製仮面が出土。卑弥呼の箸墓の周堀から馬の鐙が出土し、4世紀初頭に乗馬の風習があったことが分かります。楯築墳丘墓は、温羅の前の吉備の首長のものである。卑弥呼の3世紀前半、中国5千年の最高の軍師・諸葛亮が登場するのです。奈良県天理市の高地性集落である東大寺山古墳から出土した184年~190年の中平銘鉄刀により180年頃か189年に、奈良県の女王で太陽を祀る卑弥呼が奈良県マキムクを中心とする大和国連合の女王となったことを物語っております。卑弥呼には、1000人の女子の召使がいて、男子は天皇のみが会うことが出来ました。孝元天皇が奈良盆地南部の軽に宮を置き、子孫が葛城や紀の国を支配して瀬戸内海の交易ルートを抑えました。開化天皇は、和二氏に勧められて奈良盆地東北部の春日に宮を置いて、山代・近江に勢力を広げてゆきました。和二氏は、第五代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人が祖で、小野氏・柿本氏(天理市の柿本寺が本拠地・歌聖を輩出)・春日氏にわかれ、奈良盆地東北部に勢力を張って、日本海に抜ける交易ルートを拓きました。開化天皇は、和二氏の姥津媛を妃とし、彦坐王が生まれました。彦坐王は、春日・山代(・近江の豪族の娘と結ばれ、垂仁天皇皇后・狭穂媛が誕生しました。開化天皇と和二氏のヲケ都比売の間に生まれた子の子孫が神功皇后です。開化天皇は、孝元天皇の妃・伊香色謎を皇后として崇神天皇をもうけました。孝霊・孝元・開化の三代の諡号がヤマトネコなのは、ヤマタイ国即ちヤマト国の王であったことを示している。倭国(ヤマトコク)という統一国家が誕生し、孝霊天皇皇女の卑弥呼が共立されたのである。卑弥呼は、卜骨で吉凶を占いました。年号が入った銅鏡10枚は、卑弥呼が各地の首長に直接配ったものである。群馬県の蟹沢古墳のものは、大彦か豊城入彦命が配ったものであり、ここまで初期ヤマト王権の支配に入っていたことが分かる。群馬・山口・島根以外は関西から出土した。兵庫県の古墳から出土した三角縁神獣鏡に釈迦が描かれていることから、初期ヤマト王権の時代に仏教が伝来していて、神仏習合のように祭祀にとり入れられていた可能性が高い。福岡県京都郡の3世紀末(同じように三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳・椿井大塚山古墳と同時期)に築造された九州最大にして最古の石塚山古墳(130メーター)から出土した三角縁神獣鏡は、確実に卑弥呼が魏から賜った銅鏡で、この地の首長に配られたものであり、これをモデルにして和製三角縁神獣鏡が開発されたのである。米子市・大山町にまたがる晩田山丘陵全域におよび吉野ヶ里遺跡の5倍もの規模を誇る妻木晩田遺跡をと出雲を中心とする投馬国が大和国(7万戸)に次ぐ5万戸の規模を誇っていた。3番目の規模が尾張から東海にかけての狗ナ国、4番目に吉野ヶ里遺跡をかかえる末ら国である。孝昭天皇の皇后を狗ナ国から、孝元天皇と開化天皇の皇后を物部氏から迎えていることは、狗ナ国の勢力がいかに強大だったかがわかる。孝元天皇の皇女に倭トト姫がおり、台与の可能性があります。建内宿禰の曾祖父が孝元天皇であります。穂積氏の祖は、物部氏の祖の妹である。孝霊天皇とアレ姫の間に生まれた大吉備津彦命は、3世紀半ばに崇神天皇の命を受け、弟のワカタケ吉備津彦命と共に側近のササ森彦命や犬飼建命や鳥飼を連れて、朝鮮半島からタタラ製鉄を持ち込んで吉備を支配していた温羅を川まで追い詰め成敗して奈良に鉄をもたらしました。吉備国民に慕われていた温羅とどちらが正義なのか疑問です。歴史は、敗者が正義の場合も多い。大吉備津彦命は、卑弥呼と異母の弟です。孝元天皇・倭トト日百襲姫命(卑弥呼)・大吉備津彦命(桃太郎)と諸葛亮・劉備元徳は同時代の人です。春と秋に年をとる春秋年を採用していることから、古代のすべての天皇の年齢を半分にしたのが正式な年齢である。第9代開化天皇は、和二氏の影響で、春日率川宮に遷したのが、率川神社の地である。開化天皇は、丹波主命に先がけて、山代・近江に勢力を広げてゆきました。和二氏の先祖は、孝昭天皇の皇子・天足彦国押人である。開化天皇は、和二氏の姥津媛を妃とし、その子・彦坐王は山代・近江の豪族と婚因関係で結ばれ、垂仁天皇皇后・狭穂媛が誕生、神功皇后も同じ系譜である。孝霊・孝元・開化の諡号が、ヤマト根子なのは、卑弥呼の国がヤマト国である証拠で、統一国家のヤマト国が存在した証拠である。宇都宮二荒山神社に祀られている崇神天皇皇子・豊城入彦命は、東国平定のため奈良から栃木県・群馬県に向かい、国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も毛野氏・御諸別・柿岡の佐自ヌ君など東国に広く栄え、4世孫の奈良別王は、仁徳天皇の御世に下野国造になられて、豊城入彦命と日本で初めて西日本を統一した1世紀の偉人である大国主・事代主親子を祀りました。50メーターの規模を誇る4世紀2位の規模を誇るメスリ山古墳は、景行天皇皇后陵以外ありません。昭和に、卑弥呼の正体を見破った偉大な笠井新也先生こそが、近現代日本でで最も尊敬する日本古代史家です。唐津市の菜畑遺跡が末ラ国である。平原遺跡を中心とする糸島市が伊都国である。須グ岡本遺跡~博多~志賀島にかけてがナ国である。宗像大社や荒神谷に次ぐ15本の武器形青銅器が出土した田熊石畑遺跡が不弥国である。桜井市や伯耆国に宗像大社が勧請されているのも証拠である。唐古・カギ遺跡は、弥生時代600年に渡る42万平方キロに及ぶ国で、孝霊天皇もここに宮を置きました。3世紀中葉確定のホケノ山古墳は、第八代・孝元天皇陵。黒塚古墳は、ヌ名城入姫命の墳墓か大田田根子の墳墓か崇神天皇皇后陵。東殿塚古墳は、市城長尾市の墳墓か崇神天皇皇后陵。239年、魏に難升米を使者に送り、卑弥呼が魏から賜った鏡は、画文帯神獣鏡・内行花文鏡・1枚の三角縁神獣鏡で、魏の許可を得て、これらの鏡を模して日本国内で日本独自の三角縁神獣鏡が作られ、ヤマト王権の支配下に入った国々に配ったり、墳墓に埋葬されたのである。238年、魏が公孫氏を滅ぼす。崇神天皇は、台与(豊鍬入姫命)に天照大御神を初瀬の笠縫邑(白山神社)に祀らせました。そして、大物主神を大田田根子に、倭大国魂神を市城長尾市に祀らせたら、239年過ぎまで平和な時代が続きました。しかし、狗ナ国(尾張・東海の勢力)に睨まれて243年に魏に援軍を求めましたが、援軍は、太陽を祀っていた卑弥呼が247年3月24日の皆既日食にショックを受けて(あるいは大物主の正体が明け方に分かったという表現から248年の皆既日食で)箸の事故で薨去したあとの247年に到着し間に合いませんでした。箸墓古墳は、初め銅鏡を天から見た形にした後円部のみの築造で、規模は魏志倭人伝の卑弥呼の墳墓の規模と一致して卑弥呼の墳墓確定。尾張氏は、物部氏と同族であることから、ニギハヤ日の子孫が東海連合の狗ナ国を作り、皇室と争ったのである。中華思想は、周囲の国を野蛮と見立て、尊い大和国(奈良県)をヤマタイ国の漢字を当て、尊い日巫女に卑弥呼の漢字を当てたのは、南蛮・東夷などと蔑んでいることからも分かる。鬼道ではなく、巫道・祭祀である。能登半島の天の宮1号墳が前方後方墳であることから、ここまで尾張のクナ国(久努国)の支配下にあったことが分かります。ヒミココなど東海の狗ナ国の時代、茨城県南部・千葉県・東京都・神奈川県の一部を包含する‘フサ‘という国がありました。正始などの年号が入った銅鏡は、その年に作ったもので、その年の魏の年号を入れて国内で製造したのである。248年の皆既日食の後、卑弥呼と同じく皇族の13歳の豊鍬入姫命が卑弥呼の後継者に選ばれる。台与は、ヤタノ鏡を中心とする各地の首長に配るための景初4年から田原本町で生産が開始されたかもしれない三角縁神獣鏡と内行花文鏡の国産化政策を押しすすめ、81面の鏡が出土した桜井茶臼山古墳に埋葬されました。250年代、豊城入彦命が三輪山に登った霊夢を見られ、崇神天皇がその謎を解いて、命を北関東に派遣しました。命は、長く北関東を治め、筑波の里で薨去されました。そして、命の御遺徳を慕う筑波山西の民(作谷・沼田・下妻市のどれかか)によって宇都宮二荒山神社に祀られました。1700年の神社です。命は、下毛君・上毛君の祖となりました。5世紀に筑波山東に栄えた柿岡の佐自ヌ公も豊城入彦命の同族で、古墳も残っております。原始の山岳信仰を今に残す東の筑波山・西の三輪山が豊城入彦命を物語っております。258年、崇神天皇崩御、西殿塚古墳(崇神天皇山之辺の道曲り岡の上陵)の築造開始。258年か259年の太古暦元旦垂仁天皇即位、長寿で4世紀前葉まで在位しました。265年、魏が滅亡、司馬炎が西晋を建国。266年、台与(豊鍬入姫命)が魏に使者を派遣しました。卑弥呼の異母兄弟・大吉備津彦命は3世紀半ばに、タタラ製鉄を朝鮮半島から持ち込んで吉備の王となった温羅を平定しました。そして、中山茶臼山古墳に埋葬されました。大吉備津彦命は、兄弟の卑弥呼より長生きしたと思われます。新潟県胎内市の城の山古墳は、大彦命に平定された証拠である。茨城県稲敷市の大杉神社は、767年に勝道上人が日光山開山の途上、アンバの地を訪れて御神木の巨杉に三輪明神を勧請したのが始まり。アンバ神そのものは御柱と同じく縄文以来の神で、海の守り神であり、房総半島中北部から茨城県東南部一帯を支配していたウナカミ国を守護していた神である。古墳時代、‘ク‘という国がウナカミ国に侵略すると、戦わずに国譲りをしました。
垂仁天皇の御世は、3世紀末葉~4世紀初頭である。天日矛が来日して、垂仁天皇は播磨まで市磯長尾市を派遣。倭姫命は天照大御神を最初に鎮座させた真実の笠縫邑は、初瀬の白山神社である。当麻は、3世紀末に垂仁天皇の御前試合で出雲の野見宿禰と試合をした当摩蹴速の出身地です。田道間守は、時がなく輝く木の実(茨城県筑波山の北限蜜柑・福来みかん)を求め、常世国(茨城県)の筑波山で発見し、持ち帰って垂仁天皇皇后・日葉酢媛に半分捧げ、半分を垂仁天皇の行燈山古墳に捧げ、自らも行燈山のほとり(掘に浮かぶ島)に埋葬されました。田道間守は、神功皇后の先祖です。大和神社の主祭につき、天日矛のもとなどたくさん派遣された市磯長尾市の墳墓は、東殿塚古墳である。また、メスリ山古墳の212本の鉄槍からは、垂仁天皇に次ぐ首長の墳墓であることが確定する。
景行天皇の御世は、4世紀初頭~4世紀中葉である。
弟橘媛は、倭建命が平定した豪族たちの魂を鎮めるために、自ら海に降り立ちました。身を持って倭建命の命を守った倭建命以上の英雄でした。木更津市の吾妻神社は、倭建命が上陸した地で、弟橘比売の鏡を鎮めた鏡池があります。神奈川県二宮町の吾妻神社は、弟橘媛の櫛が流れ着いたため、櫛を祀って建立されました。また、弟橘媛の小袖が浜辺に流れ着いて、山頂に祀り、袖ヶ浦海岸と呼ぶようになりました。千葉県茂原市の橘樹神社は、倭建命の薨去後に景行天皇が茂原市の海辺に流れ着いた弟橘媛の櫛を祀り、媛の御墓を造り、景行天皇自ら橘の木二株植えられましたのが始まり。福島県棚倉町に二社ある都都古和気神社は、陸奥国一ノ宮ですが、どちらも倭建命が東北平定の折に祀ったのが始まり。宮城県名取市の道祖神社は、倭建命が天界の猿田彦の道案内に感謝して祀ったものである。名取市の雷神山古墳(168メーター)は、倭建命がこの地域の首長に前方後円墳を伝えたものである。東北(岩手県)の日高見国まで平定した倭建命は、酒折宮に向かう途中、明野町の日本尊命神社の地と作谷に立ち寄り、筑波山の男体山頂上の巨岩の連歌岳から関東平野を展望され、筑波山が連歌発祥の地となりました。筑波山から武蔵に向かう途中、松戸神社の地に陣を敷き、従者と待ち合わせました。さらに、弟橘媛の装身具が流れ着いた川崎市高津区に寄り、橘樹神社を建立し、足柄の坂で弟橘媛を偲んで‘吾妻はや‘と叫びました。この後、倭建命が山梨県(酒折宮)から北上し、秩父の三峯山に登り、清く美しかったため、イザナギ・イザナミを祀りました。宝登山神社は、倭建命が山火事に遭い、神犬が火を止めて倭建命を助けたことから火止山の名が起こりました。千曲市の森将軍塚古墳は、倭建命が碓氷峠から来てこの地域を支配し、前方後円墳をここの首長に伝えたものである。さらに、長野県と岐阜県の境の難所である下伊那郡の神坂峠の腰掛石に腰を掛けました。愛知県の内々神社は、倭建命東征の副将軍の建稲種命が駿河湾で水死したことを聞いた倭建命が「うつつかな」と嘆き悲しみ、建稲種命を祀ったのが始まり。名古屋市の氷上姉子神社は、倭建命が美夜受比売と結婚した地で、美夜受比売を祀っております。岐阜県海津市の行基寺への杖衝坂を通りました。四日市市の血塚社は、倭建命が坂を登りきって足の手当てをした場所である。さらに、「足が三重のマガリ餅のようになってしまった」と倭建命が言ったので三重の名がつきました。そして、のぼので薨去しました。そして、倭建命の幽体が乗り移った白鳥が河内の大鳥神社の地に舞い降り、白鳥陵である津堂城山古墳が築造されました。沼田市の武尊山神宮は、平安時代後期の倭建命の神霊のお告げにより建立。362年、新羅が百済の貢物を奪ったため、神功皇后が新羅を責める。364年、新羅は応神天皇が統べる国と神託を受けた神功皇后は、建内宿禰・荒田別・鹿我別を率いて新羅を平定、杖を新羅国王の宮の門前に衝き立て、住吉三神の荒魂を新羅を守る神として鎮めました。応神天皇は、戦の穢れを禊して流すために若狭周辺を巡りました。その時の子孫が、継体天皇です。応神天皇は、364年に誕生、410年崩御されました。百済王の肖古王は、375年に他界しました。神功皇后は、391年に葛城襲津彦を新羅に派遣・朝鮮半島平定。神功皇后から応神天皇にかけての4世紀後半から5世紀初頭に乗馬の風習が伝わった。392年頃に神功皇后崩御、応神天皇即位、5世紀初頭に神功皇后陵(五社神古墳)が完成。京丹後市の網野銚子山古墳(198メーター)や兵庫県神戸市垂水区の五色塚古墳(194メーター)は、佐紀陵山古墳と設計図が同じで、すべて4世紀後半の築造で成務天皇と重要な同盟関係にあったと思われます。393年、応神天皇は新羅に出兵し、金城を囲むが破れる。350~409年、妙法蓮華経の漢訳に生涯を捧げた鳩摩羅什がいました。また、中国を代表する詩人・陶淵明も同時代です。412年、好太王他界。5世紀前半の佐紀古墳群の大和6号墳からは、872枚もの鉄艇が出土し、391年の朝鮮半島制圧の後、神功皇后~仁徳天皇にかけての強大な勢力が伺えます。また、朝鮮半島の金城周辺からも大量の鉄艇が発見されています。於美阿志神社の明日香村檜前は、百済から渡来した阿知使主が移住した地で、氏寺だった檜隅寺の跡地に祀ったのが始まり。さぬき市の冨田茶臼山古墳は、応神天皇の支配下にあったこの地域の首長のものである。広島市の三ッ城古墳も同様である。畿内の古墳特に仁徳天皇陵と設計図を同じくしている茨城県石岡市の舟塚山古墳や太田天神山古墳は、応神天皇か仁徳天皇と同盟を結んでいたこの地域の首長のものである。前橋・保土田・綿貫観音山古墳周辺~赤城山~太田天神山~埼玉古墳群にかけてが上毛野国である。栃木市~宇都宮市・日光が下毛野国である。日本には、前方後円墳が500基あります。仁徳天皇の難波宮から奈良に至るメインルートだったのが、応神天皇陵を通り、二上山を抜ける日本最古の官道・竹内街道である。箸中イズカ古墳が景行天皇皇后播磨稲日大郎媛陵である。また、西都原古墳の177メートルの女狭穂塚古墳は、仁徳天皇の妃・カミ長媛の父・諸県君牛諸井のものである。167メートルの男狭穂塚古墳は妃の母か髪長媛の墳墓である。姫塚古墳も、髪長媛の墳墓の可能性がある。西都原から、三角縁神獣鏡が出土したことは、神武天皇の故郷としてヤマト王権の支配下にあった証拠である。また、西都原最古の3世紀末の古墳の主は、黒塚古墳のヌ名城入姫や椿井大塚山の丹波主命と同時代を生きた首長のものだ。女狭穂塚や茨城県出島村富士見塚1号墳には、左側に仁徳天皇陵と同じく造り出しがある。かすみがうら市の牛渡銚子塚古墳は、5世紀の築造です。
雄略天皇に、天照の神託が下り、丹後から伊勢に豊受大神を迎えました。東京最古の前方後円墳である田園調布にある宝来山古墳は、応神天皇と同時代の4世紀前範のもので、応神天皇の支配下に入っていたこの地域の首長のものである。吉備の造山古墳(360メーター)は、仁徳天皇が追っていった吉備の妃の父(吉備国首長)のものである。造山古墳の近くから出土したゲイ面土偶が、吉備地方の顔の入れ墨である。仲津媛陵と同規模の作山古墳(286メーター)は、仁徳天皇の吉備の妃か次の首長のものである。福井県坂井市の六呂瀬山古墳群は、継体天皇の母方の先祖のものである。埼玉古墳群の首長と雄略天皇が、太田天神山古墳の勢力と対決し、勝利。岩手県奥州市の角塚古墳は、倭建命が平定したか、この地域が雄略天皇の支配下にいた証拠である。486年、フランク王国建国。
536年、蘇我稲目宿禰が大臣就任。538年、仏教伝来。540年、大伴金村失脚。552年、蘇我稲目が、仏像(現善光寺本尊)を小ハリ田の家に安置し、向原の家を寺としたが、物部尾興・中臣鎌子と崇仏論争、仏像が捨てられ、寺が焼かれる。欽明天皇の571年、応神天皇の神霊・八幡大神が宇佐の地に顕現。562年、伽耶諸国が新羅に滅ぼされる。景行天皇陵(310メーター)を凌ぐ奈良県最大の五条野丸山古墳(320メーター)は、欽明天皇陵と妃・堅塩媛の合葬墓である。埼玉古墳群の将軍山古墳の首長は、欽明天皇と同盟を結んでいた。572年、蘇我馬子が大臣に、物部守屋が大連となる。587年、蘇我馬子と蘇我善徳(14歳)が守屋を滅ぼす。590年頃、蘇我善徳の親族が埋葬されたと思われる絢爛豪華な装飾品が出土した藤ノ木古墳造営。蘇我善徳21歳、仏教興隆の詔を発する。善徳22歳、慧慈が来日、善徳の祖となり、共
2016/11/10
今日は、霞ヶ浦沿岸をドライブしてきました。かいつぶりが何千匹もいて、広い湖を泳いでいました。
気持ちよいドライブでした。
2017/3/10
今日は、笠間市の西念寺に行ってきました。親鸞が20年も住んで、教行信証を著した地です。 協和の新治郡衙跡も見てきました。ここは、奈良時代初期の地方郡衙発掘の先駆けで、51棟もの建築物が建っていました。筑波山を裏から見渡す絶景ポイントです。近くには、グラスデイというおいしいイタリアンがあります。
2017年9月10日
桐生選手が、伊藤浩二選手の10秒フラットを19年ぶりに更新して日本人初の9秒台(9.98)を出しました。9.98は、桐生君本人かサニブラウン選手以外、50年は破れないでしょう。
ソウルオリンピックで、マイケルジョンソン・ウサインボルトと並ぶ永遠の陸上男子三大スーパースターの一人・カールルイスが9.92を出して29年目です。日本人がカールルイスに並んで来ました。奇跡です! 先にフランスのルメートル選手も白人初の9秒台を出し、ソウルのカールルイスと同タイムの9.92を出しています。
陸上女性三大スーパースターは、ジョイナー・オッティ・アリソンフェリックスである。
2017・12・31
長距離走のおける地球を代表する山の神は、5区68分台の今井正人と柏原竜二である。

ジムニーは、クロカンのマスターピース・平成のウィリスⅯBである。

2018年7月、1998以来のフルモデルチェンジです。
日本一の辛子明太子は、小倉の斉藤食品のたら子一番である。
日本一の鶏白湯ラーメンは、つくば市のはりけんラーメンである。
日本一の煮干しラーメンは、つくば市のいちかわである。
日本一の魚介系ラーメンは、つくば市の喜元門である。
日本一の塩ラーメンは、佐野実のしなそばやである。
日本一のしょうゆラーメンは、喜多方のまこと食堂である。
日本一のとんこつラーメンは、博多のナンバーワンである。
日本一のみそラーメンは、札幌のけやきかすみれである。
人生のベストイレブン
愛の讃歌      ピアフ
琵琶湖周航の歌   小口太郎
七つの子      野口雨情
水の中のアンサー  杉山清貴
フォルテシモ    ハウンドドッグ
プロポーズ     KAN
レットイットビー  ビートルズ
いつでも夢を    橋幸夫・吉永さゆり・吉田正
ハッピーバースデイ 尾崎豊
ステイドリーム   長渕剛
メロディー     サザンオールスターズ

医院情報
つくば矯正整体院 所在地
〒       
つくば矯正整体院 TEL<予約制>
つくば矯正整体院 営業時間
つくば矯正整体院

休日

つくば矯正整体院 駐車場
敷地内に完備
医院情報

ページ上部へ